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第1話 壊れた優等生


 1


 不良品。

 私を表すのに相応しい言葉だ。教室で突然呼吸が乱れて友達の紗奈の前でうずくまったそのとき、私が『壊れ物』だとバレてしまった。それに気づく人は、日に日に増えていっている。

 私は、中学までは完成度が高かった人間だと思う。人並み以上に出来ることは沢山あった。先生には正統派優等生だと称されていた。無理やり学級委員にされそうになったときは微笑みを浮かべつつも「それはちょっとやりたくないです」と言えていたし、「私、器用貧乏なんだよね」と自嘲しつつも、どんなこともそれなりにこなせる自分が誇らしかった。

 でも、高校に入学してから私は何もかも人並み以下になってしまった。上手くいくことなんて何にもなくて、その上『アレ』がやってくるようになってしまった。

 だから私は今日も教室で息を殺している。もう優等生なんかではなく、使い物にならないただの壊れた部品であることを見抜かれないように。

 でも、今日はダメだった。

「藤原さん、どうしたの? 大丈夫?」

  返事は出来なかった。揺れる視界。冷たくなってゆく指先。胸が詰まる。焦れば焦るほど酸素が入ってこない。喉の奥が硬く縮こまり、痛くてたまらない。耳の奥で脈打つ鼓動が、焦りを高めていく。息は浅く速く、どんどん苦しくなる。全身の血の気が引き、視線の先の床が歪んで見えた。

 いけない、このままじゃ。

 皆に見られてしまう。

「大丈夫……です、保険、室、行くので」

 どうにかそれだけ言い、席から立ち上がろうとする。しかし足に力が入らず、膝から崩れ落ちる。ざわつく教室内。ひそひそと囁き合う声が耳に入ってくる。聞きたくないのに、囁きに耳をそばだててしまう。「何あれ」「さあねー」と興味なさげに小声で言い合うクラスメイトが、本当は興味津々なのも分かっている。

 こういう時、授業をしているのが担任ならよかったのに。きっと何も聞かず静かに頷きながら教室を出る私を見送ってくれたはずだ。今目の前にいる樋口先生は、私のことなんて何にも知らなくて、「藤原さん、立ちくらみ?」と訊いてくる。教壇に寄りかかっていた身体を面倒くさそうに起こし、パンプスの踵を鳴らしながら近寄ってくる。「藤原さん、よく具合悪くなるよね」という声が聞こえる。

 ――助けて、誰か……。

「ほら、立てる? 自分で歩ける? それとも先生の肩貸した方がいい?」

 樋口先生は感情のこもっていないそう言うと、私の手を引っ張って立ち上がらせた。樋口先生の肩を掴み、肩で息をする。

「何あれ、過呼吸?」

 樋口先生に支えられ教室を出て行くときに背中に受けた言葉。その声は、誰のものだったのだろうか。

 ――消えてしまいたい。

 強く哀願しても、その声は誰にも届かない。


 2


 クラス全員の前で、恥をかいてしまった。

 私は湿っぽい気持ちのまま人気のない廊下を歩いていた。こういう気持ちのときに私が向かう場所は決まっていた。居心地の悪い学校内にある、ただ一つの私の居場所。

 廊下を抜けて第二中庭に出ると、世界は一変する。深い緑の葉が風にさらさらと揺れ、地面に落ちる木々の影が真夏の日差しを遮ってくれている。土の匂いが胸のこわばりを優しくほどいていく。クラスメイトのざわめきも、好奇の視線も、ここまでは届かない。

 メインである第一中庭が作られたあと、生徒の憩いの場を増やすため作られたらしいこの第二中庭は生徒に大不評だった。「職員室からすぐ近くにあるから居心地が悪い」とか、「木が沢山ありすぎて虫が多い」「昔学校で自殺した幽霊が出るらしい」などなど……でも、人が寄り付かないということが、私にとってはありがたかった。私はここにならいてもいいって、存在することを許してくれる唯一の場所だと感じていた。

 木陰のベンチに腰掛ける。ここなら、息が苦しくなっても誰も変な目で見てこない。背もたれに背中を預けて、深呼吸をする。……ここでなら、上手く息が吸えるのに。

 その時、背後で足音がした。素早く振り向くと、樋口先生が立っていた。

「あら、藤原さん。こんなところに一人でどうしたの?」

 どうしたもこうしたも。ここは私の居場所だ、樋口先生に掻き乱されたくない。

「――ここ、居心地よくて」

 私は立ち上がり、うっすら微笑を浮かべる。大丈夫、ちゃんと上手く出来ている。

「あら、そう。でもここ、来月から工事するからしばらく入れなくなるわよ。――藤原さんのこと、担任と少し話してね。何が藤原さんにとって一番いいか、先生も分からないけど……。でも、ここに一人でいるより、皆の輪に入っていった方がいい方向に働くと思うわよ」

 気遣いつつも、どう扱っていいのか分からないといった樋口先生の言葉に、私は力を落とした。

 私の居場所がまた一つ、なくなってゆく。


 3


 今日は何にもいいことがなかった。肩を落としたまま帰りの電車に乗り込む。満員電車でもない、冷房が寒すぎることもない。私がおかしくなる条件は一つもないはずだった。

 もしかしたら、アレが来るかもしれない。ふと脳裏によぎる不穏な考え。浮かび上がった不安を簡単に拭いとることは出来ず、どんどん膨れ上がっていく。

 そうするとあとはもう、時間の問題だった。吊革を掴んだ手のひらが痺れていく。床が歪み始める。前兆が出ている、もう逃げられない。早く電車が駅に止まって欲しいと願った。呼吸の、テンポが、どんどんずれてゆく。吸って、吐く、それだけのことが、うまく出来ない。このままでは、苦しむ姿を隠しきれなくなってしまう。――乗客にバレてしまう。恥ずかしい思いをしてしまうかもしれない、そしてこのままおかしくなってしまうのではないかという不安に胸を掻き乱される。

 やっと電車が駅に停車する。私は足がもつれそうになりながら、死にものぐるいでホームのベンチに駆け寄る。でも、躓いてしまった。手のひらと両膝をつき、四つん這いになった姿勢で、息を整えようとする。でも、もう遅かった。吸っても、吸っても、肺が酸素を拒絶する。冷たい汗が背中を伝う。先ほどの不安は恐怖へと変わり、叫び出してしまいたくなる。――私はもう、恥をかくことを避けられないだろう。

 助けて。

 声にならない声が頭の中に響き渡る。実際に声に出すことは絶対に出来ない。声に出したとしても、助けてくれる人なんて、今も、そしてきっとこれからもいないのだから。

 アレに初めて襲われたのは高校入学して約一ヶ月後だった。精神科へ行き、チェックテストをやったり生育歴を聞かれたりしたあと診察を受けた。私のお父さんくらいの年齢の先生に病名を告げられ、薬を処方され、今も飲み続けている。

 アレは起きてほしくないときにほど私を襲ってくる。大きな波の時もあれば、さざ波程度で済むこともある。今私に訪れているのは、大きな波の方だった。私はもうおかしくなってしまう。そう確信した。もう駄目だ――と思った。

 そのとき、黒いスニーカーが私の近くで止まった。

「大丈夫?」

 肩口にかけられた、柔らかな男の人の声。重々しい空気が、ふわり、と軽くなるのを感じた。

 でも、話しかけられても今応えられない。それを伝えることも出来ない。ごめんなさい、と思った。せっかく気を遣ってくれたのに、ごめんなさい。

 視線の先のコンクリートに影が落ちる。

「ゆっくりでいいから、息吸ってみて。側にいるから、大丈夫。僕の声に合わせて」

 その声は静かながらも力強く、恐怖にもがき苦しんでいた私の心を少しだけ冷静にさせてくれた。男の人はしゃがんでくれたらしく、ほのかに石鹸のような清爽な香りがした。

「ゆっくりと、吸ってー、吐いてー。……もう少しゆっくり、吸ってー」

 彼がゆっくりとアシストしてくれる。声に合わせるように、呼吸をゆっくり吸って吐くようにする。最初は上手く出来なかったが、少しずつ、声に合わせられるようになってきた。少しだけ顔を上げると、縁なし眼鏡をかけた、私と同い年くらいの男の子がこちらを静かに見つめていた。とろんとした優しげな瞳は、私を責める色は微塵もなかった。心の中の荒波が静まっていくのを感じる。

「そう、その調子。ゆっくり吸って、吐いて、はーって。吸うより長く吐いてみて。……うん、そんな感じ。上手く出来てる」

 男の子の声はなめらかで、瞑想のガイド音声ようだった。この人は何者なのだろう。不思議に思いながら、しばらく彼の声に合わせて呼吸していると、息苦しさも和らいでいった。

「駅員さん呼びましょうか?」

 すぐ近くで、戸惑いを含んだ女性の声がした。こういうのが、本当に苦手なんだ、私は今すぐここから逃げ出したかった。それでも、ちゃんと応えなければいけない。大丈夫ですって。すぐ治るんでって。そう言おうとして、乾いた唇を動かそうとすると、男の子が口を開いた。

「大丈夫だと思います。落ち着いてきてるんで」

 そう言ってぺこりと頭を下げると、女性は立ち去っていった。

 助けて、くれた。

 初めて、私を助けてくれる人が現れた。


 4

 

「落ち着いたね。よかった」

 男の子は、目を細めて微笑んだ

 身も知らぬ人にここまで優しく微笑むことができる人がいるということに私は驚いた。

「しんどいよね。分かるよ。……前に君みたいな人がいたからさ」

 彼は遠くを見つめ、少し哀しそうな顔をする。私みたいな人がどうなったか気になるが、それより私には訊きたいことがあった。

「……どうして」

 どうして、私なんかのことを助けてくれたの。

 そう言いたかったのに、そこから先の言葉は出せなかった。

「救急救命士……だったらかっこよかったんだけどね。ただの男子高校生です」

 そう言って、男の子は白い歯を見せて笑う。でも、私は笑えなかった。涙が出そうになって、下を向いて唇を噛み締めた。

 私は他人にここまで優しくしてもらったことが、十六年間生きてきて一度もなかったのだ。学校という世界の人たちは、それなりに親切な言葉をかけてきたりもしたけれど、一定のラインより中に入ってくることはなかった。

 けど、目の前の男の子は、一定のラインの中まで手を差し伸べてくれた。

 その手を取っていいのだろうか。私なんかが救いを求めていいのだろうか。ありがとうって言いたかった。対応すごく上手くてびっくりしたよ、とか、高校生? とか雑談したかった。

 でも、私は俯いたままこう口にしていた。

「――迷惑かけてごめんなさい」

 と。

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