にあとランバート
「ブランシュ、お久しぶり。」
にあがゆっくりと近づくと、ブランシュは首を下げ、鼻先をにあの顔に寄せた。
ブランシュはランバートの栗毛の愛馬だ。
にあは既に一度、彼と遠出をしたことがある。
勝手に借りて。
あの時のにあは、その名前も知らなかった。
首筋を撫でる。密度のある暖かい毛並みは、まるで深い色のベルベットの様だ。にあが毛並みに沿って手を滑らせ、ぽんぽんと優しく手のひらを当てると、穏やかで優しい黒い瞳が見つめ返してくる。
「今度は、あなたの名前を呼べたよ?」
にあが手のひらにカラス麦を乗せると、ブランシュはその手にあたたかい息を一つ残しあっという間に食べてしまった。
「ふふ」
視線を馬体に移せば、そこにはランバートの馬丁が整えた鞍がきちんと収まっている。腹帯もぴたりと締まり、緩みはない。
深い群青色に染められた馬具はよく磨かれ、艶やかに光っていた。
「こんなだったっけ……」
思わず声が漏れる。
その馬具をを初めて見る様なにあの反応に、ランバートもさすがに二頭立てで行こうとは言わなかった。
彼は慣れた調子で鞍に手をかけ、鎧の鐙に足をのせると、勢いよく体を引き上げ馬に跨る。
手綱を軽く弾き、走らせる前に数歩だけ歩ませ、揺れを殺す。ブランシュはすぐに首を垂れ、安定した足取りを見せた。
「おいで、にあ。」
馬上から差し出された左手。
にあが小さな手を伸ばすと、ランバートはグッと上体を下げ手を広げてわたしの手首をしっかりと掴み直すと一気に引き上げた。
最初は横乗りになり、にあも(おお、これはもしや姫様騎乗スタイル!?)と密かに喜んだが、すぐにランパートに「ちゃんと跨がれ」と言われ、すごすごと右足を回す。
「乗れたよ、ランバート。」
それでも思ったよりもずっと高い視界を楽しんでいると、ランバートから背中の竜のぬいぐるみを前に回せないかと提案される。
「やっぱりだめ?」
「しっかり抱いていけないからな。その白い竜は、にあが前に抱えていけ。」
そう言って、ランバートはにあの返事を待たずに襷掛けにしていたぬいぐるみを紐ごと前へ回した。
───
しばらく馬を走らせると、やがて目的地が見えてくる。
「採掘場だね。
奴隷達が働かされてる。」
にあの声に、ランバートは無言で頷いた。
轍は深く、幾度も往復した傷跡のように地面を削っている。
岩を砕く音、砂埃、人の声。
岩盤に穿たれた入り口には木枠で補強が施され、その出入り口からは泥と埃に塗れた奴隷たちが、重い土や石を抱えてよろよろと往来している。
「どこ? レオナール。」
にあは場内へ視線を走らせる。
ランバートは、近くに馬の向かうすぐ先に奴隷商らしい姿を見た。傍らには人を運ぶ荷車がある。──間違いない。
にあの探す人物がここにいるならば、間違いなく奴隷商が把握している筈だ。
が、それを伝えようとした瞬間、にあは手綱の緩みを突いて馬から下り、そのまま駆け出していた。
「──っ、にあ!」
待ったなしか、まったく。
ランバートの視界の先で
にあの背中の白い竜のぬいぐるみが大きく揺れているのが見えた。それが妙に可愛らしくてランバートは口元を緩めた。
が、それも一瞬のこと。
次の瞬間──
巨大なすり鉢状の採掘場が、崩落した。
轟音。砂塵。視界は塞がれた。
傾いた足場の木材が軋み、遠くで岩が転がる音がする。
馬はわずかに嘶くが、驚くことなく耐えていた。
ランバートはその場に馬を残し、そのまま駆け出していく。
「にあ!」
ランバートの体は思うより先に自然に動いていた。
頭のどこかで、(待てと言おうとしたのに、俺も同じことをしている)と呟く自分がいた。
ランバートは袖口を口元に当てたまま、迷いなく斜面を駆け降りていく。急な傾斜を下りながら、靴底が不安定な砂礫を踏みしめる感触が伝わってくる。
「──旦那、危ないですよ! 崩れますって!」
粗野な奴隷商の叫びが背後から飛ぶ。命令形でも忠告でもない。“貴族を死なせたら自分が困る”という声色だ。
だが、ランバートは振り返らない。
──あの中に、にあがいる。
砂埃の向こう。落盤の中心付近。彼女が駆け降りて行った影を、一瞬だけ見た。
その一瞬が胸の奥で鈍い痛みに変わる。
“間に合わなければ消える”
そんな嫌な予感が、腹の底に張り付いて離れない。
ランバートは腰に下げた術具──アイネに触れた。冷たい金属の感触が、指先の震えを吸い取っていく。
「……アイネ、起動だ」
硬質な電子音はせず、ただわずかに術具が振動する。彼の魔力回路と接続する、その静かな合図。
頭の中では既に三つ、四つ、同時に術式が走っている。
──衝撃偏向、落石軌道操作、小規模重力緩衝、呼吸維持用の簡易障壁──
詠唱は不要。手をかざせば展開できる。
理由はひとつ。
「……にあを、守るためだ」
彼の声は低く、聞こえるかどうかのぎりぎりのところで震えていた。
砂埃の中。人影が見えない。
心臓が跳ねる。呼ぶ声を一度呑み込む。
──にあ、そこにいるだろう。
──動くな。今行く。
ランバートは足元の岩を蹴り飛ばし、さらに深くへ降りていく。
砂塵の向こうへ腕を伸ばす、その瞬間。
にあの声が聞こえた。
「見つけたぞ!レオナール!!」
砂塵が光に包まれる。
魔力反応──
砂埃の奥から現れた光景に、ランバートは一瞬だけ息を呑んだ。視界が開けた瞬間、黒髪の少年が青年とにあを、大きく崩落した岩盤から間一髪で引っ張り出すのが見えた。
「間に合った。」
震える声で、にあがポツリと言った。
そして彼女の腕の中に抱えられた青年の名をにあが呼ぶ。
「レオナール!!」
にあは土に膝をつき、震える声で名を呼び続けている。
「レオナール……レオナール、お願い、返事をして……!」
返答はない。青年の肌は刻一刻と青褪め、血の気が引き、手指は冷えはじめている。唇も紫がかってきた。
だが、ランバートには見えていた。
魔術回路だけが、生きている。
術具も魔核も無い。その腕には奴隷の印である枷がついたまま。魔力の流路は拘束され、通常なら術式は展開できない。
それなのに。
彼の魔力は、他人の術具へ延々と注がれている。無自覚の循環ではない。それは、明確な意思と指向性をもった”供給”だ。
どうやって?
答えはない。
聞いたこともない。
かろうじてランバートはリチャージという術式を思い出したが、あの複雑な術式を術具なしにどうやって行なっているのかは皆目見当がつかなかった。しかも彼はぐったりと意識を失っている様に見える。
が、──術式は成立している。こんな状態なのに彼はまだ、他人の術具に魔力を投げ続けているのだ。
ランバートは眉根を寄せた。
(……馬鹿な。これは本来、術具三基で分担する系統だ。人間一人が担える負荷ではない。)
見張りの男は自身の持つ術具が、見たこともないくらいの強い光を放ちながら、まだ不安定な岩盤を支えているのを、呆然と見ている。自分は恐怖と驚愕で立ち尽くているのに、手にした術具は光を噴き、軋み、けれど崩落を必死に支えているのだ。当然そうなる。
その光の中心には──レオナールの魔力が走っているのだった。
その傍で、命からがらといった体で埃と汗が混じった泥だらけの奴隷達が坑道から這い出るように次々と出てくる。土埃にまみれた彼らの荒い息づかいが、轟音の余韻の中にかすかに聞こえている。
黒髪の少年はすぐに立ち上がると、彼らに肩を貸し、救援を続けた。彼は誰より早く救援の動線を作っている。
視界の隅で、状況を読み、優先順位を誤らず、倒れた者を迷いなく引き起こすその姿に、ランバートは小さく目を細めた。
(……こいつは『自由の民』の動きだ。思うより先に体が動く。そんな動きは術具が浸透した市民にはできない。そして、その自由の民が──俺の領地にここまで入り込んだということは。)
胸の奥に、冷たく鋭い光が灯る。ただし今はそれを追う場面ではない。
崩落の中心。にあのそばに膝をつく。砂埃がまだ舞っていて、息苦しい。
ランバートは、レオナールと彼女が呼んだ青年の横にいるにあの傍にかがんだ。
にあは彼の前髪を手で避け、目の光を確かめる。それがないと知ると、頭部を支えるようにして頬を手のひらで包み、幾度も叩く。
必死なにあの表情。
──初対面の筈だ。
ランバートはにあとレオナールの関係を推測し、はっきりと確信しながらにあに尋ねる。
「……お前の探し物は、この青年か?」
にあは『物語の紡ぎ手』だ。彼女は迷わずに私を連れてここまできた。それはつまり彼女はこの『場面』を知っていて、その『物語』の中でこの青年がここにいる事を知っていたことになる。
紡ぎ手が物語の中にいる。ありえない構図だ。本来、物語の作者は外だ。
けれど、今私は彼女に連れてこられてここに居る──
ランバートは一瞬でそこまで思考し、そこでやめる。
問いかけても、どうせ今はにあの耳には届かない。
彼女はただ、レオナールの頬に触れながら、何度も名前を呼ぶ。
「レオナール! お願い……お願いだから……!」
声が震える。砂埃に濡れて
ランバートは、青年の胸元にわずかに残る魔力の”流れ”を手で感じ取った。
(まだ、生きている。だが──このまま魔力を垂れ流せば魔力枯渇が起きる。)
枷越しに魔力を供給するなど、本来不可能。術具なしのリチャージなど、もっと不可能。しかも彼は意識を失っているのに術式はまだ生きている。
意思だけが、残っている。
本物の魔法使いにランバートの魔術師としての常識は通じない。神聖魔法もそうだ。あれも、これも、俺の理解の外にある──。
……許せんな。
だが、ランバートはその内心を見せず
素早くアイネに触れ、決断する。
今は、ここに私が居る意味を、するべき事を果たす。
青年は明らかに魔力を放出している。放出は彼の意思だ。不安定な岩盤を支えようとする、その意思。
ならば。
「……よくやった。」
低く、静かに。
「ここからは──意思ではなく、技術で支える。」
腰の術具を掴み取ると、しっかりと構える。
「アイネ、我が声を聞け。同調──帯域補正、開始だ。」
白く細い光が、アイネの刻線を走った。砂埃を割るように、風が舞い、周囲の魔力が静まり返る。
レオナールが途切れ途切れに供給していた魔力の流路に、ランバートの術式が滑り込んだ。
「魔力の流れを読め。そして重ねろ。こっちの魔力を流せ。太くだ!こっちを本流にする。この男のは偽物だ。そうだ。盗め。──よし、断て!!」
ランバートが命じた途端、青年の魔力の流れが途絶えた。反動でレオナールの手が目の前で弾かれるのをにあは見た。
「──いい。制御はもらう。そうだアイネ。使え、いくらでも使うがいい。」
粉塵が舞い落ちていく中、ランバートが油断なく杖を精密に操作する姿を、にあは座り込んだ地面から見上げる。
これまでにあは机に向かい、魔術回路をテストするランバートをずっと見てきた。が、実践として使う彼を見るのは初めてだった。
ランバートはにあが自分を見ていることには気がつかないまま、術式の操作に集中している。
「坑道内に生命反応はあるか?……反応なし。よし。下せ。ゆっくりだ。」
巨大な岩盤が音もなく地面に降ろされる。
術具を構えていた見張は、そこでようやっと自分の術具が術式に接続していないことに気が付き、へたへたとその場に座り込んだ。
ランバートは構えていた術具を下ろし振り返った。
「レオナール、聞こえるか。……もう十分だ。お前の役目は終わった。」
青年の指がかすかに震えた。魔力の奔流が弱まり、静脈を通る鼓動が少し戻る。
「ランバート……!」
ランバートは自分の術具をホルダーに差し込みながら、にあの傍にやって来るとその手をそっと取り、青年の胸元へ重ねた。
「にあ──お前が呼んでやれ。
物語はお前が紡いでいるのだから。
お前の言葉ならば、届く。」
レオナールはにあの手が胸元に置かれると、緩やかに呼吸を始めた。
その名の喪失と共に。




