魔法使いと魔術師
夢を見ていた。
暗く、終わりのない悪夢。
かつては貴族だった。
父は誇り高く、母は優しかった。
妹は、ただ――可愛くて、大事な存在だった。
それが、彼のすべてだった。
なのに。
ある日突然、すべては壊れた。
父は“罪人”とされた。
国宝を盗んだと、誰も知らない罪を着せられて。
理解できず、信じるしかなかった。
けれど、父は捕らえられ、処刑された。
母と妹もどうなったか分からない。
そして今──
レオナールは採掘場にいた。
鳥が鳴いていた。
澄んだ、美しい声だった。
鳥は、こんなにも美しい声で鳴くのか。
何もないこの場所で。
それでも、鳥は歌っていた。
周囲には青々とした木々が立ち並ぶ。
美しい自然の中に、採掘場だけが傷口のように口を開けている。
その惨たらしい光景の中でも、鳥は鳴き続けていた。
「何をしてる」
声がかかった。
振り向くと、黒髪の少年が立っていた。
手には使い込まれた採掘道具。
「あ……鳥が鳴いてた。今……君も聞いたろう? すごく、きれいな声だった」
少年はちらりと空を見上げたが、すぐにレオナールに視線を戻した。
「見つかったら、どやされるぞ。あっちに行こう。日陰がある」
「……あ、ありがとう。」
ふらつく足を立て直し、振り返ったレオナールを見た少年は、背を押すようにして歩くように促しながら言う。
「細いな。お前、元貴族か」
「……えと。」
少年はレオナールの手を見た。その手は汚れては居たが、力仕事などした事のなさそうな手柔らかな手。一方少年の手は日焼けし、しっかりと張っている。
レオナールはそれなりに武術や乗馬などにも力を入れてきたつもりだったが、その手には明らかに生まれの違いが刻まれていた。
「俺は中に行く。お前は外の日陰で掘れ。中はダメだ。」
少年はそう言い残すと、見張りがこちらを見ているのに気づいて、そっと離れていった。
レオナールが少年に促された場所を掘り始めると、見張りも関心を失ったように視線を逸らした。
しばらくは黙々と土を掘り続けた。
岩をどかし、他の奴隷たちと並んで新しい坑道の入口を作っていた。
手に巻いた布が、じんわりと赤く染まっていく。
水があれば洗えるのに、あれば飲んでしまうだろう。
枷がなければ、腕はもっと動くのに。
気がつけば、採掘場は騒音で溢れていた。
人の声、見張りの怒鳴る声。引きずる音、砕ける音、ぶつかる音。
レオナールの乱れた呼吸は掻き消え、ただ土埃にまみれた空気と疲労が無限に続く。
ふと、視線を感じてレオナールは顔を上げた。
採掘場の縁に、ローブをまとった男が馬で乗り付けて──こちらを見ている。
その脇に、奴隷商が控えていた。
ローブの男は何かを見ている。
こちら……自分を、だろうか。
すぐに、見張りの視線に気づいて、レオナールは視線を伏せた。
奴隷の暮らしがどういうものか、考えたことなどなかった。
だが今、自分はその中にいる。
腹は減り、全身が痛む。
眠れと言われればすぐに眠れることだけが、唯一の救いかもしれな──
そこまで考えた瞬間、不意に…ふわりと、懐かしい良い香りがした気がして──
唐突に、術具の警報音が響いた。
ここにいる殆どは奴隷だ。術具を持たない。
鳴ったのは、見張りや奴隷商が持つ術具だった。彼らの術具がまるで悲鳴のような耳障りな警告音を上げ、奴隷たちが顔を上げる。
その時、確かに聞こえた。
──あの声。
黒髪の少年の声だ。
「走れ!」
そして地の底から突き上げるような、地鳴りがした。
坑道の奥から、奴隷たちの叫び声が聞こえてきた。
見張り役の護衛が、血相を変えて坑道から飛び出してくる。
その傍らに、黒髪の少年がいた。
こちらに背を向け、叫んでいる。
「走るんだ!」
坑道内に中に向かって声を掛けている。
中。
そこに、他の人たちがいる。
次の瞬間、レオナールは考えるより先に少年のもとに向かって走り出していた。
走らなければ。
けれど──間に合わない。
中に人がいる。
奥に『人間』がいる。
崩れようとする坑道の入り口から少し離れた場所で、1人の見張りの護衛が術具を、構える。
だが、その術式は──弱い。
魔力が足りない。圧倒的に足りない。
だめだ。
崩落は止められない。
……ならば。
レオナールは─手を差し出し、その手のひらを向けた。
他人の術具へ。
そうだ。術具はいつも開いている。
その感覚を習ったことはないが、術具はいつも受け取っている。
彼の中で、今ここに無い術具が
その柔らかな革の装丁を開く。
それはイメージに過ぎない。だが。
その隙間に繋げる。
出来る。繋げられる──
彼は何故かその感覚を掴んでいた。
光が、生まれた。
青白い魔力の光。吹き出すように湧き上がる。
自らの術具も持たないはずの、レオナールの手から。
「見つけたぞ!レオナール!!」
閃光が──視界を白く埋め尽くした。
『お兄ちゃん』
その声が、どこか遠くから聞こえた。
妹は──誰よりも先に、私のことを呼んでくれた。
にぃに、って。
兄様って言えなかっただけ。
……それが可愛くて仕方なかった。
少し言葉が上手になっても、しばらくはにぃにと呼ばれていた。
でも、あの日。
友人が妹に教えたんだ。
「お兄ちゃん、でしょう?」って。
私は忘れられない。
妹が、私を見上げ柔らかな頬を赤く染めて少し照れながら──
『お兄ちゃん』
そう呼んだ。
ああ、私はお兄ちゃんなんだ。
……嬉しかった。
本当に、嬉しかったんだ。
でもすぐに、母が教えた。
「お兄様でいいのよ」と。
それから妹は、“お兄様”と私を呼ぶようになった。
お前は兄として恥ずかしくないように、きちんとするのだぞ──
父の声も思い出す。
もちろん、その通りだと思っていた。
そうあるべきだと。
だけど……私は忘れたくない。
あの日、お前が呼んでくれた声を。
私は、あの子のお兄ちゃんなんだ。
……だけど。
“お兄ちゃん”という言葉は
私の素顔をさらすみたいで、
今は、ちょっとだけ、恥ずかしい。
『お兄ちゃん』
……ああ。
ごめん。
お兄ちゃんは──
お前の名前を……思い出せないんだ。
ずっと思い出そうとしてた。
ずっと。
だけど、出てこない。
お前のことが、こんなにも大事なのに。
どうしてだろう。
『お兄ちゃん、わたしは知ってるよ』
『お兄ちゃんは、ずっと頑張ってたね』
……そんな言葉を、妹は言わない。
けれど、確かに聞こえた。
ごめん。
お前に何も言ってあげられなかった。
最後に手を離した時も。
お前が生まれた時のことは覚えている。
その小さな手のひら。
あたたかくて、無垢で。
手を伸ばしたら、
お前はその小さな指で、ぎゅっと私の指を握り返してくれた。
……あのぬくもり、覚えている。
『お兄ちゃん』
ごめん。
私は、お前の手を離した。
『お兄ちゃん』
……うん。
『聞いて。わたしね──』
『生きてるよ』
その言葉を最後に、
レオナールは目を覚ました。




