レオナール
傀儡師が手綱を引く。
黒い馬型のゴーレムたちが列をなし、重い蹄で石畳を踏み締めて静止した。
その後ろには無骨な馬車がつながっている。
鉄の兜を被った御者台の兵の表情は見えない。手綱を握る手にも、無骨な装備が覆う。
多くの魔力を消費する傀儡師は都市の防人にして軍の要。
そこにあるのは、ただ力と権威だった。
「護送者?」
ミレイナは息をのむ。
そしてその護送車の周りには武器を持ち、大きな術具を構えた兵士達がいた。
立ち止まる三人を兵士たちが取り囲み、レオナールを拘束した。
「やめろ、妹に触るな!」
彼は声を上げたが、背後から腕を捻り上げられ続く言葉は止められた。
妹が小さな悲鳴を上げる。兵士が妹の肩を強く掴み、馬車の方へ連れていく。幼い顔がその痛みに歪むのをミレイナは、見た。
やめて、やめて。
ミレイナは幾度も叫ぼうとした。
けれどあまりの光景にその声は出なかった。
ただ、無力な自分が目の前でレオナール達が兵に捕まるのを見ているだけだった。
こんなの、おかしい。
間違ってる。
でもやはり声は出ない。
足元に何かが落ちた。
本だった。
レオナールが大切にしていた革表紙の魔法書だ。
ミレイナは咄嗟にしゃがみ込み、拾い上げようとした。
だが兵士の手がそれより早く、本を掴んだ。
「だめ」
ミレイナの口からようやっと言葉が出た。
「乱暴にしないで。それは…大切なものなの」
絞り出すようにそれだけ言った。
けれど、兵士は本を無造作に袋に放り込み、彼女の顔も見ずに一言だけ告げた。
「もう必要ない」
声は冷たかった。何の感情もなかった。
その言葉の意味に、そして冷たさにミレイナは身をこわばらせた。
レオナールと妹が馬車に押し込まれる。
ミレイナにはもう何も出来なかった。
傀儡師が再び手綱を引く。
黒い馬型ゴーレムが動き出し、馬車が石畳を軋ませながら遠ざかっていく。
静寂が戻る。
学院の門には、ただ一人、無力だったミレイナだけが残されていた。
◾️
妹は、幼い体で懸命に自身の震えを止めようとしているようだった。人形を、抱く手が硬く握りしめられている。
レオナールは、そっと自分の膝に乗っている方の手を繋ぐ
大丈夫だと伝えるために。なのに、小さく震える指は気丈にレオナールの手を握り返そうとしてくるのだった。
馬車の窓は小さな開口部に硬い金属の棒がはめ込まれていた。外気と明かりをは取り込むだけの理由でつけられており、景色は見えない。
壁には、無数の傷跡が残されている。
それは爪でつけたにしては深く、レオナールは視線を落とした。
いつもなら、そこに本があるはずだった。
彼の術具は今はない。
レオナールは視界の隅でミレイナがそれを拾うのを見ていた。
よかった、とその時だけは確かに思った。
あの本に、代わりはない。
今、あの子……術具が本を開いてスコアをカウントしていたら……
見たこともない数字が表示されているのかもしれない。
ほんのしばらくの時間が、とても長く感じられた。
けれど──馬車が止まると、その時間さえ短かったと思えた。
レオナールは、妹と目を合わせた。
うん、と、頷く。
穏やかに。大丈夫だと伝えたかった。
上手く伝えられたかわからない。
妹は表情を変えず、けれど目だけで──うん、と返してくる。
馬車の扉は乱暴に開けられた。
怒気を含んだ声が投げられる。
「出ろ。着いたぞ」
レオナールは、顔を上げた。
前を見た。
精一杯、誇りを矜持を忘れない様に。
迷わずに、馬車を降りた。
そして、いつものように手を伸ばした。
彼の妹に向けて。
妹は、その手を取った。
衣服の裾を押さえながら、静かに馬車から降りた。
兵士たちに囲まれる。
そして促される。
お前の運命はもう決められてるとでもいうかの様に。
サーランド内務省──
だが、よく目にする正門ではない。
横手に面した、囲いのある裏門。
レオナールは妹の手を離さなかった。
手を離したら、いなくなってしまうような気がした。
握るその細い小さな指もまた、強く握り返してきていた。
──もうすぐ、何かが終わる。
そう思った。
理由はなかった。
即時執行。
そんなことが──あり得るのか?
どうすれば、そんなことになる。
父が……一体、何を……?
多分、彼は叫んだ。
誰かを捕まえては、説明してくれと、何度も懇願した。
けれど、誰も答えなかった。
そして彼は、いつの間にか、暗い廊の中に閉じ込められた。
鼻につく匂い。
湿った土と、何かの腐ったような……
普段なら長居などできない場所だ。
だが、レオナールは、呆然と座っていた。
放心の常態が解けたのは随分後になってからだった。
……はっと顔を上げたのは、その場所に“妹”の姿がなかった事にようやっとレオナールは気がついたのだった。
薄暗い中を見回す。どこにも──いない。
いない。
──いない。
そこから、時間はまた過ぎていった。
妹はどうなったのだろう。
母にも会えていない。
朝、目を覚ました時に存在していたものは、
もう、すべてなくなってしまった。
ゆっくりと、思考だけが間遠に戻ってくる。
父がもうこの世にいないとするなら──
母はきっと耐えられない。
あの人は、優しい人だったから。
妹は?
──背筋が、冷たくなった。
最後に手を離した時。
自分は、何か言えていただろうか。
言ってあげられたのか?
……覚えていない。
気休めひとつ、何も。
あの子に、何も言ってあげられていなかった?
どれほど早熟しているとは言っても、あの子はまだ、5歳なのに。
そこからまた、時間は過ぎていった。
目を閉じているのか、開けているのか。
起きているのか、眠っているのか。
レオナールには分からなくなっていた。
暗闇の中で、ただ沈んでいくようだった。
隣に──誰かが座った気がした。
何かを尋ねられた気がした。
声がした。
けれどレオナールには聞こえなかった。
それは、走馬灯だったのかもしれない。
人は、死ぬ前に過去を思い出すという。
ならば。
──私は死ぬのか。
そう思った時だった。
錠が外される音。
籠の扉が開いた。
光が差し込んだ。
強い光ではない。
けれど今の彼には、
──それはまぶしすぎた。




