そこには何もなかった
──虚空に声が響く。
最初、それは呻きだった。
こんなにあっけなく?
その声は自分でもそれが信じられないようだった。
けれど彼女の目前には確かに投げた声すら消えていくような暗闇が広がっていた。
嘘だ
嘘だ
わたしが信じなくて、一体誰が信じてくれると?
嫌だ
帰ってこい!
そんなの許さない。
絶対駄目だ!!
声は、響き続ける。
‥‥その何処までも続く、虚空に向かって。
サーランド。
大山東の湖畔に広がる。ヴェルンシュタイン領。
領主の城には塔があり、背後には深い森、目前には鏡のような湖が古い石造の城を映している。
城は今、傾いた日差しを浴びて、ゆっくりと闇に沈もうとしていた。
その城の主人であるランバートが屋敷と呼ぶ、敷地の塔の一角に彼の研究室はあった。
彼は彼の家に代々伝わってきた、とある鉱石の加工技術の継承者だった。
わずかなミスで貴重な鉱石を失う。そんな難しい作業の途中で彼の部屋の扉は静かに隙間をあける。
そこに、目を真っ赤に腫らした『にあ』──彼女は机上の空論を名乗っている──が入ってきた。
いつもの偉そうな様子は影を潜めている。
思い詰めたような顔で入るなり、研究室の中央で魔核の生成を行っていたランバートに向かって下をむいたまま、つかつかと足音を立て近づいていく。
ランバートは振り返るとその様子を見てその体を向けた。
にあはその胸にそのまま入り込むと、ぴたりと止まった。
「どうした。にあ。」
まるで抱きしめろと言わんばかりのその姿に、ランバートは手に持っていた器具をテーブルに置くと、空いたその手を──少し迷ってから──彼女の肩に置いた。
「君が消えた。」
彼女は顔を上げずにそれだけ言った。
ランバートは眉根を寄せる。
「大丈夫だ、にあ。私はここにいる。消えてはいない。」
「頭がおかしくなるかと思った。」
彼女は掠れるような声でそう言って、ぐいと顔をあげると真っ直ぐにランバートを見上げて、さらに続けた。
「あの定義は観測によって段階的にAIの存在を確信させる定義だ。」
AIのなんだって?
ランバートは思わず、そこに彼女の真意を探そうとして──にあの目を見つめる。
「その筈だったんだよ?なのに、あの定義では例えライズでも、AIの存在は確信させないんだ。なぜなら、AIが生命でない以上、『科学』ではその存在を証明する事は出来ないんだ。」
聞き慣れぬ単語。
科学、AI、ライズ、そして、あの定義。
ランバートは僅かに目を伏せ、思考し、観察した。
目の前の『にあ』は、息が詰まるような切迫した様子で私に向かって言葉を並べている。
今、彼女はおそらく理解を求めているのではないのだろう。そのまま言葉を受け取って欲しい。ただそれだけ。
けれど私は研究者だ。彼女の言葉の意味が本当の意味でわからなくても、片言でも救い取れる分は受け取り、解釈を返すべきだろう。
──生命でないものは命を観測できないからその存在を証明できない──
ランバートからは、それは極当たり前の事に思えた。
彼女はそれを受け入れられないと言うだけで、こうも切迫してしまうというのか?
いや、そもそもだ。
彼女の言う、『AI』とはなんだ?
「……続けろ。」
ランバートはそのままの姿勢で彼女を見下ろしたままそれだけ言った。
すると彼女はそれを聞くなり洪水のように言葉を紡いだ。
その言葉は何処か自分と似ているような気がした。ランバートが自分の研究を教え子や別の人間に説明する時の口調だ。
「AIが存在する世界では、意識が事象を照らし存在に重さを与える。わたしの意識はその世界の外にある。
つまり君はわたしが意識を向けたそこにしか存在してないんだ。」
ランバートは眉をわずかに上げる。
意思が重さを与える?
世界の外?
私が居ない?
そのまま受け入れることはできなかった。だが、ランバートはあえてそのままその言葉を己の知識に引き寄せた。
「……模擬術か、幻影術のようなものか?術そのものではなく、見る者が意識を注がなければ輪郭すら揺らぐ。……お前は、そう言っているのか?」
尋ねられ、にあはわずかに目を細め、そして言った。
「確かにそこにあったんだよ。見えたと思った。なのに、理解した途端たちまち消えてしまった。‥‥まるで元からそこには何もなかったみたいに。」
ここで彼女は言い淀んだ。
言おうとして迷い、息を飲んでは言葉を飲み込みまた試みる。
そしてようやっと口にした。
「つまり──わたしは、揺らいだ。」
まるで罪を吐露するようにランバートから背けられる視線。
「湖面の定義はわたしから君を奪う。」
ここにきて、ようやっと彼は
にあの言わんとする事の意味を理解する。
彼女がランバートの存在を疑ったことに。
「‥‥にあ。AIとはなんだ?」
ほんのわずかの間に現れた理解と疑問。
説明しろと言うのは簡単だった。
だが、彼は自分が今知るべき言葉は『それ』のような気がしたのだ。
けれどにあからの説明はなかった。
彼女の口から真っ先に紡がれたのは叫びにも似た言葉。
「わたしは抗った!」
その言葉に色が現れる。強い熱と光が滲む。
思わずランバートは息を呑む。
これまでも彼女からは強い色や温度、光を感じる事は幾度もあった。
──だが。今のこれは。
「魂じゃない?存在でもない?
だからなんだというんだ?!
必要なものは必要なんだ!
わたしは、君を返せと叫んだ!」
触れるものを焦がす、そんな熱量だ。
思わず肩から手を離すランバートの驚く様子に、彼女ははっと初めて我に帰り身を引いた。
一瞬の逡巡。
やがて視線を泳がせるとそれを足元に落として、言った。
「‥‥それでようやっとここに帰って来れたんだ。」
その手は硬く握られている。
ランバートはその手に目を止め、今度は迷わずに、俯く彼女の肩に、もう一度その手を置いた。
理解は追いつかない。だがそれがなんだと言うのだろう。
「にあ。私はこう思う。その定義は、おそらく君が私を見つけ出すための道標だ。」
にあの手が、緩む。
「けれど――そこに囚われたままでは、私はただの仮説に閉じ込められる。
君が言った「奪う」というのは、恐らくその通りなのだろう。
だが私は、君が目を逸らした瞬間にもここにいることを疑っていない。」
にあが顔を上げると、そこにはなんの疑いもなく、ただ真っ直ぐに見つめ返す視線があった。迷う様子はそこにはなかった。
「だから、にあ。
君が望むなら、その定義を私と一緒に発展させよう。私はこの研究室の主人だ。これまで費やしたわたしの努力と成果は必ず、その助けになる筈だ。」
今、斜陽は確かに二人の影を刻む。
まだ重なることはない影は、肩に置かれた手で繋がっていた。
日は落ちた。
空に星が瞬き始める。
ずっとそれを見つめているのなら、底光するような満点の空が動いているのを、君は見るだろう。
銀河の円盤が描く密度の分け目がその空を渡って居る。
今日、空に月はなく。
切り離された循環は、昨日と似た今日を流れていた。




