一回目
シャンへの一回目の呼び出しは三年後、小学五年生の二学期だった。
私は十一歳で、本当に困っていた。
嫌、困るなんて可愛らしいものじゃなかった。
生まれて初めての本物の恐怖だった。
その日の学校帰り私は男に車に連れ込まれた。
精一杯の大声で叫ぶと頬を思い切りたたかれ、ナイフを見せられた。
震えながらシャン助けてとつぶやいた。
すると車の屋根が綺麗に取り払われ、夕焼けをバックにシャンが死神の鎌を右手に持ち、私を見て微笑んでいた。
瞼が下りてくるのを止められず私は意識を手放した。
目が覚めると自分の部屋のベッドに横になっていた。
シャンが私を見下ろしている。
口元に笑みを湛えながら。
「楓ちゃん、大丈夫?」
「シャン…」
来てくれた。
本当に来てくれた。
本物だ。
本物のシャンだ。
「あれ、もう俺のこと忘れてしもた?」
忘れたりなんかしない。
ずっと会いたいと思っていた。
でも困ったことがなかった。
シャンの言う通りどうせなら本当に困った時に使いたかったから、呼べなかった。
私は起き上がりじっとシャンを見つめる。
ずっとこの姿が見たかった。
私が知っている世界で一番かっこいい、人ではない男。
「覚えてる…」
「ほうか、会えて嬉しいわ、楓ちゃん。怖かったな、もう大丈夫やで」
「あ、そうだ。警察」
「警察?」
「警察行かなきゃ」
あの男を野放しにしておくわけにいかない。
ちゃんと捕まえて二度とこんなことできないようにしないと、私は珍しく奮い立っていた。
「ああ、警察は呼んでもしゃあないよ、は?言われるわ」
「どうして?」
「だって俺が車ごと消してしもたもん。もうかけらも残ってへんよ。誘拐されたんです言うても誰に?言われるわ」
死神の鎌は私の学習机に立てかけてあった。
その非日常に私はときめく。
これをずっと待っていたのだと。
「その鎌で車の屋根切っちゃったの?」
「うん。すぱっとな」
「なんでも切れるんだね」
「切れるよぉー。この世に切れんもんはないよぉ」
「ありがとう、すぐ来てくれたんだね」
「楓ちゃんの危機やもん。何が何でも飛んでいくよ。まあ無事で良かったわ。でも怖かったやろ?」
「うん。怖かった」
「簡単には忘れられへんやろけど、忘れい、楽しいこと考えよな」
「うん」
「そういえば楓ちゃん引っ越したんやねぇ。小田原から、広島へ」
「うん。あの後すぐお父さんとお母さん離婚して、去年お父さん再婚して、妹生まれるからって私お祖母ちゃんと暮らすことになったの」
「ほうか」
「今ね、スポ少でバドミントンしてて、それがすっごく楽しいの」
「ええね、バドミントンか」
「やったことある?」
「バドミントンはないけど、野球はあるよ」
「野球?」
「死神界で草野球大会あるから」
「そんなのあるの?」
「うん。結構あるよー。一年に六回か七回はやってんねんちゃうかな」
「ポジションどこ?」
「楓ちゃん野球わかるん?」
「お祖母ちゃんが毎日見てるから。球場にも連れてってもらったし。来週も行くの」
「ああ、そうか、広島やもんな、ここ。ええねぇ」
「ルールもわかるよ」
「ほうか、偉いなぁ。俺はセンターで三番やで」
「クリーンナップだ」
「おお、よう知っとるなぁ。偉いでぇ、楓ちゃん」
「ホームラン打てる?」
「打つよぉ。何ぼでも打つよぉ」
「ホームラン打てるなら死神やめて野球選手になったら?」
ははっとシャンが笑った。
その笑い方が好きだと思った。
私は野球選手になるシャンを想像した。
即座に思い付いたユニフォームは地元のチームじゃなかったけれど。
シャンが野球選手になってくれたら毎日中継最後まで見るし、お休みの日には球場に行って応援できる。
ユニフォームも買っちゃう。
そうしたらきっと楽しい。
「そんなプロなれるほど上手ちゃうよ。あかんあかん、俺は死神以外何にもなられへんよ」
「そうかなぁ。いいと思うんだけど」
ご飯よという祖母の声がする。
「行っといで、楓ちゃん。俺まだ帰らんさかい。ゆっくり噛んで食べるんやで」
「帰っちゃ駄目だからね。絶対だよ」
「帰らんよ。せっかく会えたんやもん。まだおるよぉ」
夕ご飯を食べ終え部屋に戻るとシャンは両足の間に鎌を立ててベッドに腰を下ろしていた。
その姿に、ああ、もうこれでまた会えなくなるんだと私は理解する。
「お腹いっぱいなった?楓ちゃん」
「うん」
「お祖母ちゃん優しい?」
「うん」
「学校上手くいっとる?」
「うん」
「ほうか、良かった」
「あ、お風呂入ってくるね」
「入っといで。ゆっくり浸りぃな」
「うん。いるよね?」
「うん。楓ちゃんが寝るまでおるよ。何時に寝るん?」
「九時」
「偉いなぁ。夜更かしせんのや。明日土曜日やのに」
「スポ少八時からだから」
「ほうか。頑張っとるんやね。楓ちゃんは偉いわ」
「偉くないよ。楽しいから」
「ほうか。まあお風呂行っといで。ちゃぁんと浸かるんやで」
「うん」
お風呂から上がり部屋に戻るとシャンはさっきと少しも変わらない姿でそこにいて、私と目が合うとにこっと笑った。
ずっとこのままこの部屋にいてくれたらいいのに、私はそう思っていた。
「楓ちゃん、ホンマ大きいなったねぇ」
「ちっとも大きくないよ。背クラスで一番低いもん」
「まだまだ伸びるよ。大丈夫や」
「そうかなぁ。お母さんもお父さんもあんまり大きくないんだよ。シャンはすっごく大きいけど、お父さんとお母さん大きいの?」
「俺死神なんよ。お父さんお母さんおらへんよ」
「そうなの?」
「うん」
そういえば、三年もたったのにシャンはまるで一日しかたってないかのように少しも変わっていなかった。
漫画だって三年も連載すれば年を取らなくても顔が少し変わっていくのに。
「じゃあどうやって生まれてきたの?」
「さあ、知らんなぁ。どうやってやろね」
「そうなんだ」
「うん。楓ちゃん髪自分でやってるん?」
「うん」
「楓ちゃん。危ないからあんまり一人になっちゃあかんよ」
「今日はいつも一緒に帰ってる友達が風邪でお休みだったから。いつもなら家の近くまで二人だから大丈夫」
「心配やわぁ。早う大きなって欲しいわぁ。あ、でも大きいなっても怖いな。変な奴仰山おるさかいなぁ」
「うん」
「俺がずっと傍におって守ってやれたらええねんけどそうはいかんさかいなぁ」
そんなこと言うならずっと傍にいてよ。
私はそう言いそうになったけど言わなかった。
「でも後二回は助けてやれるさかい、大丈夫やでぇ。心配せんと毎日学校行って楽しく過ごしぃ」
「うん」
シャンは笑う。
聞きたい事いっぱいあるけど聞いちゃいけない気がした。
「もう九時やね。寝い」
「うん」
掛布団をはぐとシャンにとってもらったクマのぬいぐるみが顔を出す。
「まだ持っててくれるんやねぇ。嬉しいわ」
「ずっと持ってるよ。ずっと大事にする」
「ありがとうな、楓ちゃん。会えて嬉しかったわ」
「私も嬉しかった。助けてくれてありがとう」
「そんなん当たり前のことやから感謝せんでええよ。ゆっくりお休みしぃ」
「うん。お休みなさい」
「お休み。楓ちゃん」
翌朝目が覚めるとシャンはいなくなっていたけれど、まだ二回会えるのだから私の心は晴れやかだった。
二回、二回会える。
どうせなら残り二回は楽しいことがしたいと思ったので、困ったことは起きなきゃいいと思った。
自分で解決できることは自分でしよう。
もう悪いことが起こりませんように、そう願っていた。