二人きり、約束
朝目が覚めると私の予想に反して男はいた。
「おはよう、楓ちゃん」
「おはよう」
「顔洗たら」
「うん」
「お父さん帰ってはるよ」
「うん」
「夜遅かったから寝かしといたげる?」
「うん。起こしちゃ駄目」
「ほうか。じゃあ朝ごはん食べよ」
「うん」
顔を洗い、歯を磨いて台所へ行き、レーズンバターロールを二つとバナナと牛乳で朝食を済ませる。
「ええ天気やねぇ」
「うん」
「じゃあ楓ちゃんお昼お兄ちゃんとなんか美味いもん食いに行こ」
「うん。あ、ねえ、洗濯機の使い方わかる?」
「わかるよ」
「じゃあ教えて。日曜日にお父さんがまとめてやるんだけど、できるようになったら喜ぶかなって」
「楓ちゃん偉いなぁ。そやね、知ってて損することはないわなぁ。教えたるよ。お兄ちゃん干したるわ」
「ありがとう」
私は男に言われた洗濯機の使い方をメモした。
二人で洗濯物を干して私が着替えると、男は約束通り私の髪を三つ編みにしてくれた。
「上手」
「ありがとう。楓ちゃん可愛いで」
ホワイトボードに友達と遊びに行ってきますと書いて玄関の鍵を閉め二人で連れ立って歩き出した。
「どこ行く?」
「マクドナルド」
「もっと高いもんでええよ。お兄ちゃん羽振りええねん」
「ポテトとハンバーガー食べたい」
「ほなそうしよか。どこにあるかなぁ」
私は家からそう遠くない駅前のショッピングモールの名を告げる。
九月も終わりそうなのにまだまだ暑い。
男は黒いスーツ姿だが、暑さなど感じていないかのように涼しい顔をしている。
「長袖暑くない?」
「暑ないよ。お兄ちゃん人とはちょっと違うさかい。気にせんでええよ。楓ちゃんは大丈夫?」
「大丈夫、あ、鎌」
「隠したから大丈夫やでぇ」
「そう」
「お昼まで何しよ。映画でも見る?」
「うん。見たい」
「じゃあそうしよか。今何やってるん?」
「わかんない」
「じゃあ行ってから決めよか?」
「うん」
「土曜やから人いっぱいおるなぁ。楓ちゃんはぐれんように手繋ごか?」
「うん」
私達は四階の映画館に行くためエレベーターに乗った。
「俺ら親子に見えるかなぁ?」
「さあ」
「俺誘拐犯に間違われへんやろか?」
「きちっとした格好してるから大丈夫だと思う」
「ほうか?」
「うん。大丈夫」
「まあ気にしてもしゃーないか。何見よ」
私達は私が毎週見ている魔法少女アニメの劇場版を見た。
それは夏休みに母と見たので私は二度目だった。
一か月ほど前に見た時は主人公の高校生のお兄さんがすごく大人に見えたけれど今日はとても可愛らしく自分と変わらないように見えた。
今なら隣の男のせいだとわかるのだが、この頃の私にはまだわからなかった。
マクドナルドに行き私がエビフィレオセットがいいと言うと男はハッピーセットじゃなくてええんか?と聞いてきた。
その時のおまけのおもちゃは特撮ものだったので私は余り欲しいと思わなかったのでいいと言った。
男はビッグマックのセットとてりやきバーガーを頼んだ。
私達は向かい合って食べた。
母以外と二人きりでマクドナルドに来たのは初めてだった。
父とも二人きりで外食なんかしたことない。
不思議だけど、落ち着いた。
明日も明後日もこれが続けばいいのにと思った。
男といると心地よかった。
お昼を終えると男は私をゲームセンターへ連れて来てくれた。
「楓ちゃんどれ欲しい?お兄ちゃんこれめちゃめちゃ上手いねん。どれでも取ったるよぉ」
私達は手をつなぎクレーンゲームを見て回った。
このショッピングモールには休みのたびに母と来ていたが三階のゲームセンターに来たのは初めてだった。
煩雑な音に溢れていた。
自分という存在が簡単にかき消されていくようで、男の手を握っていなければ一歩も歩けそうになかった。
「なあなあ、どれがええ?楓ちゃん」
男は楽しそうだった。
私はピンク色のクマのぬいぐるみを選んだ。
クレーンゲームをするため男が私の手を放したので、私は男のスーツを掴む。
男は簡単にぬいぐるみをとってみせ私に手渡した。
「他には何がええ?」
「あの白いの」
「クマばっかりでええんか?あそこにウサギさんおるでぇ」
「いい。おそろいで並べたい」
「ほうかー」
男はまだ何かとってやりたそうにしたが私は二つでいいと断った。
「じゃあ三時のおやつでも食べよか?」
「うん」
「何がええ?」
「クレープ」
「ほな行こか」
男は再び私の手を取った。
私はバニラアイスとチョコブラウニーの乗ったクレープを買ってもらったが男は食べなかった。
膝に私のためにとってくれたぬいぐるみを二体乗せ笑っていた。
家に帰るとホワイトボードに買い物に行ってきます、誰か来てもドアを開けないことと書いてあり、洗濯物が取り込まれていた。
私は部屋に行き男に取ってもらったクマのぬいぐるみをベッドに寝かせて掛布団で隠した。
「ねぇ、鎌は?」
男がクローゼットを開けるとそれは出てきた。
たった一本でその効果は絶大だった。
凡庸な子供のクローゼットがまるで見習い死神少女のクローゼットに早変わりした。
それはとても煌めいて見え、私はやっぱりこれを男に返したくないと思った。
「やっぱり返さなくちゃ駄目?」
「かえでちゃーん。ごめんなぁ。これだけはあかんわ。ホンマごめんなぁ」
男が謝る理由などどこにもなかった。
なのに男はそうやって平気で謝ることができたのだ。
そういう男だから私は夢中になってしまったのだと思う。
こんな本当のことなど一つも言っていなかったかもしれない男に。
父が帰ってきて洗濯をしといたことへのお礼を言われた。
二人でお寿司を食べ野菜ジュースを飲みヨーグルトを食べた。
お風呂から上がり髪を乾かし部屋に行くと男がベッドに座り両足の間に鎌を立てていた。
「楓ちゃん、ホンマおおきになぁ。楽しかったわ」
「行っちゃうの?」
「うん。でも楓ちゃん、約束するよ」
「約束?」
「うん。そうやなぁ。楓ちゃんが困ったら、ホンマ困って自分一人では解決できひんような問題にぶち当たったら、お兄ちゃん助けに来るさかい、お兄ちゃんの名前呼び」
「お兄ちゃんの名前知らない」
「ああ、言ってなかったなぁ。俺名前シャンいうねん。困ったときはシャン助けてって言い。絶対助けに来るさかい」
「しゃんたすけて」
「そうそう、ただし、三回しか使われへんよって、気ぃつけてや」
「三回?」
「うん、三回」
「四回目はないんだね?」
「そうや、賢いなぁ、楓ちゃん」
「さんかい…」
「そうや見て楓ちゃん」
男は鎌を自分の膝に乗せた。
私は彼の隣に座る。
「ほら、楓ちゃんに言われたから俺名前書いたんよ」
死神の鎌の刃の根元の部分にカタカナでシャンと書かれている。
「シャン」
「そう、シャン。これで俺のってわかるやろ。俺の名前忘れんといてなぁ」
「うん」
「三回やで、楓ちゃん」
「うん。三回」
「楓ちゃんはええ子やから何も困らん事願っとるよ俺は」
「困らないと呼んじゃ駄目?」
「ええけど。美味いもん食いたいとかでもええよ。でも三回しかないからできれば楓ちゃんがホンマに困った時に助けてやりたいわ、俺」
「ホンマに困った時…」
「今はまだ思いつかんかなぁ。でもそれでええねん。楓ちゃんが困るようなことない方がずっとええ。寧ろ一生なくてええよ。そやったら三回飯食いに行こ」
「うん。じゃあマクドナルド行って、クレープ食べて」
「そうそう、そうしよ」
「あとピザの食べ放題と」
「ええなぁ」
「炒飯とラーメン」
「うん。食べよなぁ」
「絶対だよ」
「ああ、約束や」
「でも困ったことがあったらすぐ使っちゃうかも」
「それならそれでええよ。楓ちゃんの好きにし」
「うん」
「ほな楓ちゃんもう寝なあかんから俺行くな」
「うん」
「元気でなぁ。楓ちゃん。いっぱい寝て食べて、大きいなり」
「うん。ありがとう」
「ええ?」
「ぬいぐるみ取ってくれて、映画見せてくれて、マクドナルド連れてってくれて、クレープ食べさせてくれて、ありがとう。あと洗濯機の使い方教えてくれてありがとう。あ、あと髪の毛、乾かしてくれて、三つ編みにしてくれてありがとう」
「そんなんええよ。楓ちゃんは俺の大事なもん拾ってくれたんやさかい、感謝してもしきれんよ。こっちこそありがとう」
「まだ三回会えるんだもんね?」
「会えるよ」
「うん。待ってるね」
「俺も待ってるよ」
「楽しみだね」
「そうやなぁ。楽しみやね」
じゃあまたね、楓ちゃん、男はそういうと一瞬で消え失せた。
私は夢の世界から現実の世界へ一人取り残された。
でもこの時の私は、シャンに、あのかっこいいお兄ちゃんにまだ三回会えるのだとわくわくしていた。
たった三枚しかないチケットなんてすぐに使い切ってしまうことをこの頃の私はわかっていなかった。