自分のものには名前を書いておく
私は懐柔されるもんかと思い、返事をしなかった。
懐柔なんて言葉その頃は知らなかったけど、そう思っていたはずだ。
美味しいもので、ごまかされるものかと。
こうなったら絶対目の前の男に返すまい、生まれて初めて頑なにそう思っていた。
私は冷蔵庫からヨーグルトと野菜ジュースのパックを出し、ストローを紙パックに刺した。
「楓ちゃんストロー自分で刺せるんやねぇ。偉いなぁ」
「誰でも刺せるでしょ」
「そんなことないよ。綺麗に食べたなぁ。お腹いっぱいなった?」
「うん」
「これから何するん?」
「お風呂入るまでテレビ見る」
「ええなぁ。お兄ちゃんも一緒に見てええ?」
「うん」
私たちはソファに並んで座りアニメを見た。
私の両手には男の忘れ物がしっかりと握られている。
「楓ちゃん、やっぱりそれ返して欲しなぁ」
「やだ」
「お兄ちゃん、ホンマ困るんよ。それないと仕事にならんのよ。お願いやから返して?代わりに楓ちゃんの欲しいもの何でも買うたるさかい、な?そうしてぇや」
「やだ」
「それ楓ちゃん持っててもしゃあないやん。使えへんで」
「いい。飾る」
「そんなでっかいもん、どこ飾るねん」
「お部屋」
「あんな可愛らしお部屋にこんな禍々しいもんあったら縁起悪いでぇ、やめとき。ぬいぐるみとか可愛らしもん置き、お兄ちゃん何ぼでも買うたるよ」
「これがいい。かっこいい」
「嫌、楓ちゃんこの良さがわかるなんて見どころあるねんけんど、お兄ちゃんホンマに困るねん。な、お兄ちゃんを助ける思て、返して、な?」
「絶対いや」
「困ったさんやねぇ。じゃあ似たようなの買うたるさかい、それで許してぇなぁ」
「これじゃなきゃいや。私が拾ったんだから私の」
「いや、それお兄ちゃんのや」
「名前書いてない」
「は?」
「自分の持ち物には名前書くもん」
男ははっと声に出して笑った。
「楓ちゃんホンマに可愛らしなぁ。楓ちゃんの言う通りやで。自分のもんには名前書かなあかんなぁ。お兄ちゃんホンマうっかりやでぇ」
「お兄ちゃんこれ何に使うの?」
それは黒くて大きくて立派でとても綺麗できらきらと光って見えた。
宝物、とても価値のあるもの、似たものなどきっとないに違いない。
これの持ち主と同じように。
「さあ、なんやろね」
「お仕事なんでしょ?」
「そやで」
「ひょっとして魔法使い、だったりする?」
男はまたははっと笑った。
「せぇへんよ。魔法使いちゃう。こんな可愛いない魔法使いおるかいな」
「じゃあ王子様?」
「なんでやねん。どこをどう見たら王子様やねん。違うよ、ちゃうちゃう」
「悪い人をやっつけてるの?」
「楓ちゃんにはそう見えるん?」
「うーん」
正直見えなかった。
正義とは違うところにいる感じがした。
「これすごく綺麗」
「おおきに。楓ちゃんに褒められると嬉しわぁ」
「海賊の宝箱から出てきそう」
「ほうかー。楓ちゃんそれ好きー?」
「うん。好き」
「そんなに言うてくれるんなら楓ちゃんにやりたいわぁ。でも無理やねん」
「無理?」
「それないとお兄ちゃん無職になってしまうさかい、それはちょっとなぁ。あかんわ」
「でもこれ欲しい」
私はこれがどうしても欲しくなっていた。
これをずっと持っていたらこの男はずっと自分にかまってくれる、それがなんとなくわかっていた。
もしくはこの男を自分のものになどできるはずがないのだから、代わりにこれが欲しいと思っていた。
考え過ぎか。
そんなことじゃなく、ただ楽しかったんだろうと思う、生まれて初めてできた私だけの漆黒の王子様との会話が。
その頃から私は光属性より闇属性、聖女より悪役令嬢だったのだろう。
嫌、この男がそうさせたのだ。
この日から本格的に始まったのだと思う、今の私が。
「あげたいけどあかんよ。堪忍してぇな楓ちゃん」
「やだ」
「しゃーないなー。ほなお兄ちゃん消えなあかんわ」
「消える?」
「そうや。それはお兄ちゃんの身体の一部みたいなもんやねん。それを失くすとお兄ちゃんこの世から消えてしまうねん」
「私が持ってるよ」
「お兄ちゃんが持ってなあかんねん。楓ちゃんが返してくれたらお兄ちゃん消えんですむのになー」
「消えちゃうとどうなるの?」
「もう会えへんなぁ。お兄ちゃん楓ちゃんにまた会いたいねんけど会えへんようになるなぁ」
「返す」
「ありがとう楓ちゃん。ホンマ楓ちゃんは優しなぁ」
「お風呂つけなきゃ」
「偉い偉い、ちゃんと忘れてないんやなぁ。冷静やね楓ちゃん。しっかりしとるわ」
「ほんとに又会える?」
「会えるよ」
あえるよ、それは私の知らないあえるよだった。
まるで魔法の呪文だった。
いや、呪文じゃなくて呪縛だ。
「お風呂あがるまでいてくれる?」
「楓ちゃんのお父さんが帰ってくるまでいるよ」
「お父さんに会うの?」
「嫌、挨拶はせぇへんよ。こっそり帰るわ」
「うん」
「楓ちゃんはお風呂一人で入れるん?」
「うん」
「身体も髪も洗えるん?」
「うん」
「偉いなぁ。楓ちゃんは。何でも一人でできるんやね」
「うん。できる」
「ほなお兄ちゃんテレビ見ながら待ってるさかい、ゆっくり浸かってき」
「うん。帰らないでね。待っててね」
「待ってるよ。大丈夫」
お風呂から上がると男は私の髪をドライヤーで乾かしてくれた。
「楓ちゃん綺麗な髪やねぇ」
「ありがとう」
「ずっと伸ばしてるん?」
「うん。お母さんが長い髪の方が似合うって」
「楓ちゃんは可愛から長いのも短いのも似合う思うでぇ」
「長い方が好き」
「毎日自分で髪結ってるん?」
「うん」
「楓ちゃん器用やねぇ」
「二つに分けてくくるだけだから」
「それでも上手やでぇ」
「お母さんみたいに三つ編みできないけど」
「三つ編みしたいん?」
「うん」
「じゃあ明日お兄ちゃんやったるよ」
「ほんと?」
「こう見えてもお兄ちゃん器用なんやで」
「うん。じゃあ明日してね」
「うん」
九時になると私はベッドにもぐりこまねばならなかったが、男の落し物を離せないでいた。
「楓ちゃん寝るん?」
「うん」
「偉いなぁ。お父さんの言うことちゃんときいてるんやね。夜更かししても誰にもばれへんのに」
「ちゃんとしてないと駄目。ちゃんとしてなきゃお母さん帰ってこなくなっちゃう」
私はその頃母が帰ってくると信じていた。
だって父はそのうち帰ってくると言っていたのだ。
結局そのうちなど一生来なかったが。
「そうなん?」
「うん。ちゃんとしなきゃ」
「そやね。寝る子は育つから、ちゃんといっぱい寝るんよ。睡眠大事やで」
「うん」
「でも楓ちゃん、それどないする気や?」
私は男の落し物をベッドに寝かせた。
隣で眠るつもりだった。
「一緒に寝る」
「あかんて」
「だって尖ってるけど痛くないよ」
「そりゃそうや。それお兄ちゃん以外使えへんもん」
「じゃあ危なくない」
「でも、もう、ああ、今日だけやで。明日には返してな」
「うん」
「じゃあお休み楓ちゃん。ええ夢見るんやで」
「おやすみなさい」
男は電気を消した。
ベッドの傍に気配がある。
私は手を伸ばす。
男が私の手を取るのがわかる。
楓ちゃん、お兄ちゃんはなぁ。死神なんよ。
楓ちゃんが拾ってくれたそれなぁ、死神の鎌でなぁ、それでお兄ちゃん死んだ人の魂狩ってるんよ。
人間てなぁ、死んだらそのままあの世へ行けるわけやのうてお兄ちゃんみたいのが仰山おってな、そいつらに魂狩ってもらわんとあの世へは行けんのよ。
めんどくさいやろ?
ああ、そうや、お兄ちゃん楓ちゃんの魂狩りに来たわけやないからな。
楓ちゃんはもっと長生きするよ。
ほんで幸せになる。
そう決まってるねん、安心しぃ。
この時男が眠る私に話しかけていたのか、夢の中にまで出てきたのかはもうわからない。
ただ私は起きた時に男はもういないだろうなと思っていた。