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私は貴方に恋をし続けている  作者: 青木りよこ
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落し物

もう二度と会えない男をずっと待っている。


男との出会いは小学二年生の時、私は八歳になったばかりで、母が家を出て行って二週間が経っていた。

男は落とし物を取りに来た。

男は私と目が合うと最初に一言言った。

こんばんは、と。

その音は私に馴染みのないものだった。

それがきっと良かったのだ。

だって私は男がもたらした未知のものにわくわくしたのだから。


「有難うなぁ。君が拾ってくれたんやねぇ。おおきになぁ」


ここは私の部屋で二階だった。

家じゅうの鍵は閉められていた、だってさっき確認したばかりだ。

男はとても背が高く黒いスーツに黒いネクタイ、シャツだけが白だった。

髪も目も黒い。

口元にはずっと柔らかな笑みが張り付いている。

優しそうなかっこいいお兄さん。

家の外で出逢っていたら第一印象はそれだったのかもしれない。

そしてきっとすぐ忘れていただろう。

うさんくさいのに美しくて何処か愛嬌があるようで強く拒絶することができない、後年私が忘れられなくなる男はそんな風にして私の心にすんなりと入って来た。


「ごめんなぁ。怖いなぁ。お兄ちゃんすぐ出て行くよって、安心しぃ。大丈夫。明日には全部忘れてるさかい、何にも心配いらへんよ。あ、土足やけどこの靴汚れんさかい気にせんといてな」


私はベッドの上に座って男を見ていた。

突然の侵入者だったが私は少しも怖くはなかった。

両手で男の落し物を握りしめていた。


「ああああ、危ないでぇ。それ刺さったら怪我するよって、お兄ちゃんに返してなぁ。楓ちゃん」


「どうして名前知ってるの?」


私は彼と普通に話せた。

少しも緊張しなかった。

学校の先生と話すときよりも、父と話すときよりもずっと簡単にするすると言葉が出た。

躊躇いなどどこにもなかった、考えるよりも先に私の唇は私より先に彼に親しみを覚え彼に懐き動いていた。


「お兄ちゃんは何でも知ってるよぉ。尾形楓ちゃん。尾形の尾は尾っぽのおぉ」


男は目を細めて笑って見せた。

彼はさっきから一度も私から目を逸らさなかった。

こんな風に私を真っ直ぐに見てくれる大人の男は彼が初めてだった。


「楓ちゃん、それお兄ちゃんに渡して欲しなぁ。それお兄ちゃんの大切な商売道具なんよ」


「私が拾った」


「うん。それは有難うやでぇ。感謝しとるよ。でも返してもらわなお兄ちゃんお仕事行かれへんわ。だからなぁ、楓ちゃん。返して」


「やだ」


私は返したくなかった。

素直に返してしまえばこの男に二度と会えないと思った。

それがとても嫌だった。

この時点で私はもうこの男に決めていたのだきっと。

この鮮やかな世界に導いてくれるわけもない男に私はもうまいっていたのだ、はまっていた、本当にどうしようもない。

一度も明るい光の中を歩いたことなどない男の中に王子様を見出していたのだ、あの時の私は。

そしてそれを永遠に引きずっている、大人になってからもずっと。


「強情さんやねぇ。困ったわぁ」


嘘だ。

少しも困っているようには見えない。

部屋の入口のドアの前に立つ男と自分とは十分な距離がある。

長い腕を伸ばしてもまだ届かないだろう。

男の腕が袖から飛び出してきたりしない限り。


時計の針が六時を指したので私はベッドから降りて男の落し物を両手で握りしめたままドアへ向かう。

今日一番近づいたが男は私を見下ろすだけでその手を伸ばしたりはしない。

それどころか何もしませんよとばかりに両手を上げて見せた。

男は腕を組み、笑った。

一度も視線が外されない。

男が私を見て、私が彼を見ているからだ。


「どないしたん?どっか行くん?」


「六時になったからご飯食べる」


「一人でか?」


「うん」


「お父さんお母さんお仕事なん?」


「お父さんはお仕事、お母さんは出て行った」


「ほうか。じゃあご飯食べよか」


「六時にご飯食べて、八時にお風呂入って九時に寝ないといけないの」


「そうやな、楓ちゃんくらいの時にはそうせなあかんな」


男がドアを開ける。

私は部屋を出て階段を降りる。

男は黙ってついてくる。

私は左手で台所のドアを開ける。


「楓ちゃん、重いやろ、下し」


「やだ」


「心配せんでも、楓ちゃんが飯食い終わるまでお兄ちゃんおるよ」


「やだ」


ふと、私は父にやだと言ったことがあっただろうかと思う。

母には多分言った。

きっと何回も言った。

もうどんな場面で使ったか思い出せないけど。


「楓ちゃん何食べるん?」


「冷凍庫に…」


私は冷凍庫を開ける。

沢山ある冷凍食品の中から冷凍ナポリタンとハンバーグのセットの袋を開け、電子レンジに入れる。


「すごいなぁ。楓ちゃん。電子レンジ使えるん?」


「うん」


「偉いなぁ。お留守番一人でして楓ちゃん、ホンマええ子やね」


「いい子じゃないよ」


「そんなことあらへん。楓ちゃんはええ子や」


テーブルに乗ったホワイトボードには父の字で学校から帰ったら家じゅうの鍵が閉まっていることを確認する。

六時に冷凍庫から好きなものをレンジでチンして食べる、冷蔵庫の野菜ジュースを一本飲む、ヨーグルトを一個食べる。ごみはゴミ箱へ入れる、七時半にお風呂の自動ボタンを押す、お風呂から上がったら水を飲む。髪をドライヤーで乾かす、九時に寝ると書かれている。

父は私がどの程度漢字が読めるかわからなかったのでひらがなとカタカナで毎日仕事に行く前にこれを書いていた。


私は電子レンジの前で男の落し物を両手でぎゅっと握りしめる。


「そうやってると楓ちゃん、可愛らしなぁ。お兄ちゃんに後輩が出来たみたいや」


「こうはい?」


「可愛い可愛いってことや」


「返さないから」


男は声を出して笑った。

私の顔を覗き込み可愛いいなぁと言う。


「七分て長いなぁ。楓ちゃん待ちくたびれてしもうたやろ」


「平気」


「楓ちゃんは我慢強いなぁ。ホンマ偉いでぇ。毎日こうなんか?」


「お母さん出て行ってからずっと、その前もお母さんお父さんいないと家いないこといっぱいあったから大丈夫」


「ほうか。ええ匂いしてきたなぁ」


「うん。あ、食べる?」


「嫌。俺はええよ」


「何か飲む?」


「ええ、ええ、気使わんとき」


「うん」


「あ、出来たでぇ。熱いからお兄ちゃん運ぶわ」


男は椅子も引いてくれた。


「食べる時はそれ下し。ホントに取らんから」


不思議なことに私はもう男の落し物を自分のものだと認識しつつあった。

男の心地いい声音がそうさせたのだと思う。

つまり全ては彼のせいなのだ。


男が私の向かいの椅子に座る。

そこは父の席だった。

私は母が使っていた私の隣の椅子に男の落し物を下す。


「なんやらけったいやなぁ」


「けったい?」


「今のこの楓ちゃんとそれの感じや」


「けったい…」


「暖かいうちに食べ」


「うん」


男は私が食べるのを笑みを浮かべながら見ていた。

私が憶えている限り父が私をこんな風に見ていたことはなかったと思う。


「楓ちゃん美味しい?」


「うん」


「お父さんは何時頃帰ってくるん?」


「わかんない。私が寝てからだから。朝には帰ってる」


「ほうか。ずっと?」


「土日は家にいる」


「じゃあ明日はおるんやね?」


「うん。でもお昼過ぎてもずっと寝てる」


「ほうか。じゃあ楓ちゃん明日、お兄ちゃんと美味いもんでも食いにいこか?」
















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