怒り
ラグリファル王国軍1万6千は、何の抵抗にも遭わずに行軍を続けていた。
グリモー侯爵領の残兵も、他の領主たちもこちらが通り過ぎるのをただじっと見ている。
この分だと、国境を取り戻せばエルバーン伯爵の調略も簡単に進むだろう。
そう、必ず国境を取り戻さないといけない。
なぜかはわからないが、援軍の到着が数日遅延してしまった。
その間に、グラウベルトは国境の備えをある程度固めているだろう。
兵力も増強しているはずだ。
この戦は、決して簡単なものではない。
ゼノは、自分の頬を叩いて気を引き締めた。
そこにリディアが声をかける。
「ミルファーレ村の様子を見てきてもいいかしら?」
追放された自分を温かく迎えてくれた村。
王都から戻ってきた時も、当たり前のように「おかえり」と言ってくれた。
あの優しい人たちはどうしているだろう。
国境をヴァルハルゼン軍に取られた時、別れも言えずに逃げ出した。
酷い目に遭っていなければいいけれど。。
「俺もあの村の人たちには世話になった。ぜひ見てきてくれ」
ゼノが、硬い顔でリディアに言う。
リディアは、ルナに乗ってミルファーレ村に向かった。
***
ユリウスは、ガロからの手紙を受け取っていた。
「エリザベートの命令で援軍が5日間足止めを食らったらしい。王都に不穏な動きがあったため、とのことだが心当たりはあるか」
手紙にはその他戦況のことなども書いてあるが、ユリウスにはさっぱりわからなかった。
王都に不穏な動きなどはなく、またその足止めが戦況にほとんど影響していない(本当はその足止めで砦を落とすつもりのグラウベルトだったが、その思惑を潰されたことをユリウスには知る由もない)。
何のためにエリザベートがそんなことをしたのか。
最近のユリウスは、エリザベートのことを再評価するようになっている。
謙虚さや考えの深さはリディアに敵わないと思うが、一生懸命国を良くしようと働いているのだ。
王太子妃の座を狙うわがまま公爵令嬢だと思っていたが、レオン王太子などと比べるとずっと実直に働いている。
プライドの高さ故の取っ付きづらさがあるのでまだ直接献策などをしたことはないが、レオン王太子よりきちんと話を聞いてくれそうに思える。
だからこそわからない。
国境を取り返すことは、今国にとって最も重要なことのはずだ。
それなのに、なぜ大した理由もなく足止めを?
ユリウスは、様々な可能性を考えなくてはいけないと思った。
***
その疑惑の主、エリザベート・ド・セルヴァも少し困惑していた。
突然父の羽振りが良くなったのだ。
父ハロルド・エドモン・セルヴァ公爵は家格こそ高いが大した功績を上げられず、焦って投機に手を出して家を傾けた。
その穴埋めのためにヴァルハルゼンに情報を渡して小銭稼ぎをしていたのは知っている。
それでも、家族に優しい父がエリザベートは好きだった。
ヴァルハルゼンに情報を流すこと自体、褒められたことではない。
だがヴァルハルゼンは友好国であったし、一度覗いてみたが渡す情報も大したものではない。
国家の中枢から外されている父は、そんなに大事なことを知らないのだ。
その父が急に大盤振る舞いを始めた。
「まさかヴァルハルゼンに何か……」
既にヴァルハルゼンは、国境に攻め寄せてきた純然たる敵である。
その敵に便宜を図り、代わりに大金をもらったとなれば——。
「まさか、そんな……ね」
エリザベートの胸の中に、不安が影を落とした。
***
「こ、これは……」
リディアがミルファーレ村についてみると、以前ののどかで温かい雰囲気は消え去っていた。
外には誰もおらず、畑も荒れ放題。
リディアの住んでいた家に行ってみると、そこもずいぶん荒らされていた。
「誰もいないの?」
そう声を上げながら、長老の家に向かう。
扉を叩いて名前を名乗ると、長老のセリナがゆっくりと出てきた。
その横から子供たちが飛び出してきて、リディアに抱きつく。
そして、大きな泣き声を上げた。
「セリナ様……」
「これが戦の定めってもんだ。ヴァルハルゼンの連中がやってきて全部持って行っちまった。しばらくしてまた戻ってきたと思ったら、男衆が兵隊として連れて行かれた。一人でいるのが心細いから、みんなここに集まってるんだ」
ゼノが硬い顔をしていたのは、この可能性を考えていたからだろう。
国境を捨てて逃げ出した結果が、これなのだ。
「あんたがここにいなくて良かったよ」
とセリナがリディアに言う。
リディアが家の中に目を向けると、若い女がみな目を逸らした。
年老いた女は、それに不憫な目を向けている。
略奪にやってきた荒くれ兵どもは恐らく……。
リディアの目から、涙が溢れる。
悲しみや哀れみではなく、後悔の涙が。
自分が、軽々しく撤退を進言した結果だ。
あの時はそれしか方法がないと思ったが、ここまで考えが及ばなかった。
いや、こんなことをする必要はないはずだ。
この村にそんなに大量の備蓄があるわけでもなし、兵を取るにも人数もたいしたことはない。
ましてや女を……。
何が戦の定めか。こんなものはただの弱い者いじめ、鬱憤晴らしだ。
リディアの涙が、怒りに色を変える。
「ヴァルハルゼン、絶対に許さない……!」
リディアは、血が出るほどこぶしを握り締めた。




