愚か者
「何が聖獣だ、馬鹿々々しい!」
詳しい戦況を知るにつれて、グラウベルトの怒りは増幅していった。
あり得ない場所に落とし穴があり、さらについさっき燃えていた森がすでに鎮火していたという。
それは人の手では不可能なことであり、兵も聖獣を恐れて逃げ散ってしまったとのことだった。
「そう言えば戦の前に空を飛んでおった者、あれもあの伯爵令嬢ではなかったか」
自分の謀略をことごとく邪魔する目障りな女。
だから王太子の婚約者の座から引きずり降ろしてやったというのに、こんなところでも邪魔をしてくるとは。
「あの時暗殺に成功していれば……」
そう愚痴ってみても、今さらどうしようもない。
「砦ひとつ崩せぬ軍に、誰が味方する! この戦で威を示さねば調略も進まぬわ!」
そう吐き捨てるように言ってから、グラウベルトは冷たく笑った。
「よかろう、少々血を流しても構わぬ。落とすのだ、この砦を。ラグリファルを手に入れるのに予定よりも時間はかかるが、こうなっては致し方あるまい」
このまま侵攻を続けたいという思惑が、グラウベルトにはあった。
だから、兵の損耗を恐れて攻めあぐねている部分があったのだ。
ゼノの指揮する砦は守りが堅いが、損害を恐れず時間をかけて力攻めを続ければ落とせないことはない。
問題は、援軍が到着するまでに落とせるかどうかだ。
「5日ほど到着を遅らせれば砦を落とせる。あの男を使うか」
グラウベルトは、不敵に笑った。
***
ハロルド・エルモン・セルヴァ。
リディアはエリザベートによって追放されたが、その父である。
公爵家に生まれたハロルドは、平時であればその家格だけで尊敬を集めていたであろう。
だが、優秀なガラハルト王が国を広げていく際には何の役にも立たなかった。
優秀な王は、大事な場面で無能な者を起用したりしない。
功績のないハロルドは投機に失敗し、小銭を得るためにヴァルハルゼンに情報を流したりしている。
そのハロルドの元に、またヴァルハルゼンからの密使が来た。
ヴァルハルゼンが国境に攻め込み、その城を奪ったという報告があったのは2日前のことである。
昨日は国境を取り戻すための援軍が出発したところだ。
そのヴァルハルゼンからの密使、ハロルドは当然怪しんだ。
しかし、自分を重用しないラグリファル王国に対するハロルドの忠誠心はかなり薄れている。
だから、自分を必要としてくれるヴァルハルゼンの密使に会った。
その密使は、ハロルドに便箋を渡し、
「ここに公爵家の印を押していただきたい。報酬は5千万ディナール」
「!」
5千万ディナールあれば投機で失敗した分を取り戻し、さらに家族に栄華を味わわせることができる。
凡庸ではあっても家族愛に溢れた男は、言われるがままに印を捺した。
その中には、巧妙にエリザベートの文字を真似た文が入っている。
レオン王太子が政治に無関心な今、王太子の婚約者のエリザベートの命は王命の次に重いものとされている。
ガラハルト王が病に伏している今、一番の重みだと言っても良い。
その文字を真似ることは、ハロルドからエリザベートの文を入手しているヴァルハルゼンにとって難しくない。
だが、印は違う。
形だけ真似れば良いというものではない。
簡単に偽造できないよう、様々な細工がしてあるのだ。
その大事な印を、この凡庸な男は軽々しく捺した。
今までそれほど重要な裁決を下したことのない男には、その重さがわからなかった。
その便箋は、援軍を率いる将に宛てられている。
「王都に不穏な動きあり、5日間その場で指示を待つように」
こうしてエルバーン伯爵の砦が首を長くして待っている援軍は、愚か者の娘のエリザベートさえ知らない理由で足止めをされることとなった。
***
「まずいな、かなり兵が疲れている」
エルバーン伯爵が重々しく口にする。
西の森で敵を破ってから、ヴァルハルゼンの攻撃が激しくなったのだ。
犠牲を問わない戦い方で、ひたすら攻めかかってくる。
さらに、夜には鉦や太鼓を鳴らしてこちらの眠りを妨げることさえしてくるのだ。
眠りは浅く、激しい攻撃のために交代で休む時間もあまりない。
兵力に劣る側が一番採って欲しくない戦法を、敵は採ってきた。
「援軍が来るまでの辛抱だ。伯爵の迅速な援軍要請のおかげで、近いうちに到着するはずだ」
ゼノが明るく取り繕って答える。
だが、本当ならもう到着していてもおかしくないはずなのだ。
ゼノは、兵糧が途絶えた時のことを思い出す。
また何かグラウベルトが企んだのではないか……。
ゼノが心の内に秘めている焦りを、リディアは感じ取っていた。
お読みいただきありがとうございます!
本日2話目の更新です。書いてて楽しいです。
エリザベートの父ハロルド・エルモン・セルヴァ公爵。第33話で出てきました。
覚えてる人いるでしょうか。エリザベートは覚えてくれてますよね?ね?
私はハロルドの名前覚えてませんでした……。




