恐怖
ヴァルハルゼンに寝返った領主軍が引き上げた後、リディアはその惨状を見て回った。
落とし穴には、多くの敵兵が横たわっている。
もううめき声も聞こえない。
涙を流しながら、リディアはそこから目を逸らさない。
手を握り合っている死体が見える。励まし合っていたのだろうか。
生きたかっただろうに……。
雹を降らせて森の火事を収めたルナが、そんなリディアの頬を舐める。
「もういいじゃないか」と言わんばかりに。
「……私は、これからこういうのに慣れていかないといけないの」
そう言うと、リディアはルナにこの落とし穴の前方に同じものを作るよう頼んだ。
グラウベルトがこれで諦めるとは限らない。
むしろ、これで罠の正体が見えたと思ってもう一度攻めてくる恐れもある。
だから、落とし穴を作っておくのだ。
「フルルゥ」
ルナは優しい鳴き声を発しながら、地面を掘る。
その強靭な力は一かきで大量の砂をすくい上げ、瞬く間に前と同じような穴が完成した。
その上にざっと棒を渡して前と同じように偽装する。
そうして、リディアは弓隊を率いて砦に引き上げた。
弓隊には一人の犠牲も出ていない。
「リディア、よく無事で……」
ゼノが満面の笑みで迎えるが、リディアは硬い顔で
「ただいま戻りました」
と言うのみだった。
リディアは、この勝利を喜んでいいのかわからない。
ラグリファル王国を守るための戦。
ゼノもエルバーン伯爵も、そのために迷いなく戦っている。
でも、——リディアはラグリファル王国から追放された身だ。
私はラグリファル王国の味方なのか。本当にヴァルハルゼンの敵なのか。
家族・恋人・友人のいるヴァルハルゼンの兵士を殺していいのか。
——私は、ガロ様やヴォルド様やエルバーン伯爵や、……ゼノ。私に良くしてくれた人を守りたい。
リディアは、揺れる心の中でその決意を固めた。
***
「何……じゃと」
ヴァルハルゼン王グラウベルトは、言葉を失った。
意気揚々と出陣していった7千の領主軍だが、主将のバルノア子爵は戦死、そして、無事に戻ってきた者の数はわずか2千。
もちろんその全てが死んだわけではなく、逃げ散った者も多い。
ヴァルハルゼンの兵士と違い、近隣領主の兵はこの戦場から逃げ帰ることも可能なのだ。
どちらにしても、惨憺たる敗戦だった。
2万いた兵が、バルツ将軍の失った千も含めて今では1万4千。
いや、砦の正面からの攻撃による被害も増え続けているから、もっと少なくなっているだろう。
それでも1万4千対3千なのだが、砦を攻める際は全ての兵が攻撃に参加できるわけではない。
交代しながら常に元気な兵が攻撃を行い、敵を疲れさせるというのが基本戦略だ。
しかし、ゼノの守備は鉄壁で全く手が出ない。
このままでは益々被害が拡大するだけだ。
「ここまでの敵だったとは」
国境を守っていた男の強さを、グラウベルトは改めて思い知った。
しかし、ここで引き上げるわけにはいかない。
ここまでの準備が無駄になるだけではなく、これによってラグリファル王国とヴァルハルゼン王国の関係は最悪になるだろう。
そうなると、国力の劣るヴァルハルゼンはじわじわと潰されてしまう恐れがあるのだ。
「もう一度、その抜け道を攻めよ!そのような大掛かりな罠は、二度も通用せん!今度は慎重に進むのだ!」
砦の裏に回ることができれば、それだけで有利になる。
グラウベルトは、領主軍2千に自分の配下の将と千の兵をつけて再び西の森に向かわせた。
グラウベルトの考えを、リディアは読み切っていた。
そのうえでこちらにはルナという隠し玉がある。
確かに普通なら大掛かりな落とし穴を再び作ることは難しい。
だから、再度の攻撃は決して愚かな戦術とは言えない。
しかし、ルナはその落とし穴をまた作ってしまえるのだ。
それを知らないグラウベルトは、まんまとリディアの策に乗ってしまった。
ただ、今度軍を率いる将はバルノア子爵のように功に逸ってはいない。
慎重に進むように軍に命じた。
しばらく進むと木の燃えた跡があり、前方に落とし穴が見える。
「あそこに多くの兵が……」
この軍を率いる将は、怒りに震えた。
しかし、領主たちの兵には怯えが見える。
さっきの敗戦で逃げなかったとはいえ、せっかく拾った命を無駄にしたくないという思いが強い。
その時だった。前方で「うわっ!」という叫びが聞こえた。
「何が起こった!」
「兵が1人、落とし穴に落ちました!」
領主たちは、信じられないと言った顔を浮かべる。
ここら辺りは、さっきまで戦っていた場所のはずだ。
それにあの火事が収まっているのもおかしい。
「もしやこれが聖獣の力……?」
戦の前にリディアがルナに乗って高々と叫んだ「我に刃向かうものは、聖獣の怒りに触れ滅びを迎えるであろう!」という言葉が皆の脳裏に蘇った。
落とし穴に落ちた兵は、打ち所が悪かったのかもう動かない。
領主とその兵の頭に、先程の惨劇が浮かぶ。
その時、森の中から鬨の声が上がった。
敵が西の森に向かったのを見て、今度はリディアが200だけの兵を連れて出たのだ。
心配するゼノに、
「今度はこれで十分」
と笑った。
リディアは兵に大声を出させながら火矢を射かけさせる。
その火を見た途端、ついさっきの恐怖が頭をよぎる。
「うわー!」
「逃げろ!」
「聖獣の怒りだ!」
領主たちの兵が、我先に逃げ始めた。
「待て!止まれ!逃げる者は切るぞ!」
とヴァルハルゼンの将が叫ぶが、兵の勢いは止まらない。
こうなると、引き上げざるを得ない。
将は歯を食いしばった。
「恐怖に取り付かれた兵など役に立たん……」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、撤退の号令を出した。
ほうほうの体で逃げ帰ってみると、3千いた兵が1千に減っていた。
その報を聞いたグラウベルトは、歯ぎしりをしながら拳を握り締めるのだった。
お読みいただきありがとうございます!
戦の前にリディアがルナに乗って高々と叫んだ「我に刃向かうものは、聖獣の怒りに触れ滅びを迎えるであろう!」56話での描写ですね。結構長くなってきましたが、私自身細かいことは忘れてしまっているところがあります……。前半部分は書き直したいところも多いです。




