勝利の涙
領主軍7千を率いているバルノア子爵は、ここで大きな手柄を立ててやると意気込んでいた。
前回も子爵が兵を率いてこの抜け道を進んだが、それを面白く思わない者もいた。
家格が低いのにグリモー侯爵に気に入られていた子爵は、妬まれやすいのだ。
そのグリモー侯爵が討ち死にしたことで、さらに子爵の立場は悪くなっている。
だが、ここで大功を立てれば、グラウベルト王は自分を叙爵してくれるかもしれない。
グリモー侯爵にはそんな権限はなかったが、今度自分を引き立ててくれるのは王様なのだ。
バルノア子爵が意気込むのも当然と言えるだろう。
そんな子爵を、他の領主は冷ややかに見ていた。
欲の強い子爵は、他の領主と対立することも多かったのだ。
侯爵に気に入られているからと思い上がっている、子爵はそう思われていた。
特に子爵より家格が上の者は、今日もバルノア子爵の下に入れられて不満だった。
それを感じていたからこそ、子爵は功を焦っていた。
早く森を抜けて裏手に回り、自分が一番に砦に乗り込みたい、と子爵は逸っていた。
だから、子爵は先頭を突っ走っていたのだ。
「急げ!手柄を立てるは今ぞ!」
そう叫びながら、一直線に森を進む。
森を抜けたら左に曲がって一気に砦に攻めかかる。今回はゼノの邪魔もなさそうだ。
そして森の終わりが視界に入った瞬間、森の終わりが視界に入った瞬間、地面が抜けた。
「なっ——」
叫ぶ間もなく、バルノア子爵の体は闇へ吸い込まれる。
続いて兵たちが雪崩のように落ち、重みと悲鳴が穴を満たしていった。
子爵は、何が起こったのかも理解できないままに押し潰されていた。
意気込んで先頭を駆ける子爵に対して、他の領主は冷めた気持ちで後ろからついていった。
「どうせ子爵の手柄になるのだから出来るだけ自分の兵は減らしたくない」と思いながら、進んでいたのである。
すると、前の方で騒ぎが起こった。
その騒ぎの正体もわからないので、おっかなびっくり進んでいく。
その進みですら、落とし穴のすぐ手前にいる者にとっては死の縁で背中を押されるようなものだった。
特に子爵の勢いが凄かったので、後ろの者はなかなか止まれない。
さらに子爵がいなくなった今、全軍に号令をかける者がいないのだ。
組織された軍なら、主将に何かあった時に指揮を執る者が決められているのが普通だ。
しかし、寄せ集めの領主の軍ではそうはいかない。
各々自分の兵をまとめるので精一杯だ。
そうしてかなりの混乱からようやく立ち直ってみると、一千に近い兵が落とし穴の餌食になったことがわかった。
生きている者を引き上げよ!という声が響き渡るなか、少し離れた左手の森の中から火が上がる。
落とし穴から兵を引き上げるのに夢中だった領主軍は、なかなかそれに気付かなかった。
木々を燃やしながら火勢が強くなり、領主軍の兵に襲いかかる。
この火は、もちろんリディアがつけさせたものだ。
周辺の木に松脂を塗り、敵の混乱を見計らって火をつける。
そこにルナが風を吹かせ、敵兵に向けて燃え上がらせた。
始めのうちは「焦るな、慌てず火を消せ」と言っていた領主たちも、意外な火勢の強さに焦り始める。
松脂からの火は黒煙を上げて燃えるため、視界も悪いうえ煙たくて作業が捗らない。
さらにそこに、リディアが率いる弓兵が油壺と火矢を射かける。
それと気付いても、火の強い風上に兵を向かわせることが出来ない。
そこでリディアが合図を送ると、弓兵の半数が混乱している敵陣に潜り込み「敵兵だ!」と叫びながら斬りかかる。
それによって、混乱は最高潮に達した。
彼らが口々に「敵襲!」「囲まれているぞ!」などと叫ぶ度、恐怖心が高まる。
黒煙で周りが見えにくいうえに、領主軍は装備もバラバラなため、ついには同士討ちが始まった。
ルナの風は敵に向かって炎を燃え上がらせながら、味方からは敵の様子を見えやすくする。
混乱から立ち直りそうなところに斬りかかり、また混乱を起こす。
これらは、全てリディアが考えた三段構えの策だった。
――落とし穴で混乱を生み、
――火で士気を奪い、
――兵を潜り込ませ同士討ちを誘う。
こちらに来たのが寄せ集めの領主軍ではなくヴァルハルゼン軍だったら、ここまで混乱しなかったかもしれない。
だが、抜け道の情報源から考えてグラウベルトなら自軍ではなく領主軍を向かわせるだろうと思った。
さらにエルバーン伯爵の森への被害を抑えるために、燃え広がりすぎないよう周辺の木を伐採し、それでも燃えてしまったらルナの雹で火を消すことも考えていた。
この策に、皆が感嘆した。
エルバーン伯爵には「森を燃やして申し訳ないのですが」と頭を下げたが、領地を奪われるよりはずっといい。
それでも被害を最小限に抑えようとしてくれる心遣いに、伯爵は感心した。
リディアが指揮を執ることについてはみな難色を示したが、ルナを理由に押し切った。
だが、リディアが指揮を譲らなかったのには他にも理由がある。
それは、自分の残酷な策の結果を受け入れるためだ。
リディアの目の前で、リディアの策によって、多くの敵兵が命を落としていく。
この兵にも、家族や恋人や友人がいるのだ。
それでも、殺さなければこちらが殺されてしまう。
綺麗事では済まないこと、自分の策で起こること、それを目に焼き付けることが自分の義務だとリディアは思った。
やがて、敵は多くの犠牲を残して退却していった。
それを見て味方が歓声を上げる中、リディアの目からは涙が溢れ続けていた。




