憂いの勝利
朝焼けが世界を彩る時間、ゼノは国境の城壁の上で敵意に満ちた集団を見下ろしていた。
ヴァルハルゼン王国の兵士たち。
ラグリファル王国との関係は決して悪くはないはずだった。
だが、野心に溺れた者は隙を見つけたら問答無用で牙をむいてくる。
現国王のガラハルト・エルネスト・ラグリファルが健在であればこのような暴挙は慎んだであろう。
ラグリファル王国をいまの強盛に導いたガラハルト王は、それだけの威厳と能力を備えていた。
しかし、ガラハルト王が病に伏した今、国はレオン王太子の双肩にかかっている。
実際にはエリザベートや側近が働いていて、レオンは国政に興味などないのだが、現状が大きな隙であることに変わりはない。
「与しやすし」と思われたから攻め込んできたのだろう。
さらに深刻なのは、国内の有力貴族までがヴァルハルゼンについたということだ。
正確にはまだ疑いの段階だが、リディアの言葉を聞く限りかなり精度の高い情報だと思える。
何より兵糧を融通してくれなかったという状況証拠もある。
ゼノは、この城の防御力には自信を持っていた。
ルナのおかげで十分に栄養を取ることができた兵士たちにとって、正面の敵を追い返すことは難しくないだろう。
だが、後ろから攻められたら——
その対策が、どうしてもゼノには浮かばなかった。
そうして日が少し昇った頃、敵軍が猛烈な勢いで攻めてきた。
そこには、多少の驕りも感じられる。
こちらが空腹でまともに動けないと思っているのだろう。
実際、ルナがいなければ相手の思惑どおりだったのだ。
ルナへの感謝を心に刻みながら、ゼノは号令をかけた。
「雨のように矢を放て!壁に取り付いた敵には煮えたぎった油をかけてやれ!国境を死守せよ!」
***
「ど、どうしたことだ、これは!」
ヴァルハルゼン王グラウベルトは、敵の意外な反撃に狼狽した。
飢えた兵士の守る国境など、一押しで落とせると思っていたのだ。
だが、目の前の敵は空腹など感じさせないほどに精彩を放っている。
敵をなめてかかっていた分、自軍の兵士の方が動きが鈍いくらいだ。
グラウベルトは、目を凝らして城壁の上の兵士の動きを見た。
それはどう考えても飢えた者の動きではない。
「どうやって食糧を手に入れたのだ」
国境の城が難攻不落だということはわかっていた。
だから3千の兵が詰めていたところを、エリザベートを動かして2千に減らした。
それでもこの城とゼノの指揮があれば1万や2万の兵は弾き返せるだろう。
だからこそ、敵を飢えさせることを思いついたのだ。
敵が飢えていないとなると、現在の1万3千の兵ではこの城を陥落させるのは難しい。
「退却の合図を出せ!」
機を見るに敏なグラウベルトは、被害が増大する前に退却を決意した。
「一つ目の策がうまくいかなかったというだけじゃ」
初日の攻撃が失敗しても、グラウベルトの不敵な笑みは消えなかった。
***
リディアは、怪我人の看護の準備をしていた。
リディアも多少戦えるが、城壁での戦いに短剣は向いていない。
その細やかな性格も、衛生兵の補助が適任と言えるだろう。
だが、リディアにはやることがなかった。
それだけ戦局が順調だということだ。
実際にゼノも感嘆するほど戦はこちらに有利で、ほとんど被害もなく敵を撃退し続けている。
だから、リディアは少し席を外してルナの様子を見に行った。
ルナは、とても穏やかな顔をしている。
山賊の砦では雹を降らしたルナだったが、ここでは効果がない。
山中を行軍する兵とは違い、ここの敵兵は盾を持っている。
矢を大量に射かけられることが予想されるからだが、雹もそれで防がれるだろう。
戦闘自体危なげないものなので、ルナも大人しくしているのだ。
そうしているうちに、ゼノがやってきた。
「持ち場を離れて良いんですの?」
「敵が退却していった。こちらの被害はほぼゼロだが、敵にも大した損害は与えられなかった」
「戦のことはあまりわかりませんけど、退却が早いような気がしますが」
「うむ、これで諦めるわけはないと思うが、あまりにもあっさりし過ぎている」
「やはりそれは次の手があるから……?」
「そうだろうな。そしてそれは……」
二人の脳裏に浮かんだのは、実現してほしくないがほぼ確実に現実のものになるであろう恐怖。
——背後からの襲撃。
それに備えて多少の仕掛けを施したりはしているが、所詮急ごしらえに過ぎない。
兵を減らされたことも響いている。
初日の戦闘は圧倒的な勝利だったが、ゼノの胸は晴れなかった。
——その頃、グリモー・ハルデン侯爵領に7千の兵が集結していた。




