氷の守護
敵兵が弓を引き絞る。
リディアは、息を荒くしながらルナの前から退こうとはしない。
そんなリディアに、ルナは慈しみの目を向けた。
その瞬間、リディアの背後で淡い光が広がった。
ルナの瞳が青白く輝き、風が唸りを上げる。
遠くの山肌から黒雲が湧き、たちまち空を覆い尽くした。
――ひゅう、と風が鳴き、次の瞬間、氷の粒が大地を打った。
乾いた音が斜面を埋め尽くし、弓兵たちが悲鳴を上げる。
「な、なんだ!? 空が――」
「雹だ! 退け、馬を抑えろ!」
雹は、山賊の拠点の外側だけを正確に打ち据えた。
山賊の本陣には一片の氷も落ちてこない。
まるで空が敵と味方を選び分けているかのようだった。
ルナの毛並みに小さな氷片が散る。
その身は微かに震えていたが、瞳はまだ力強く輝いている。
リディアは思わずその背に手を伸ばした。
「ルナ……あなたが……?」
返事の代わりに、ルナは低く喉を鳴らした。
その音は、戦場の喧噪の中で不思議と温かく響いた。
前線では、ガロとヴォルドがすでに動いていた。
「今だ! 行け、押し返せ!」
ガロの声に呼応し、山賊たちが突撃する。
混戦状態の前線には、雹は降っていない。
だが、後ろで起こっている異変は伝わってきている。
侯爵の兵は浮足立ち、混乱は一気に広がった。
「深追いする必要はない!向かってくる敵だけを突け!」
ヴォルドの命令で、仲間たちは武器を構えて油断なく敵を見据えた。
雹に怯える敵兵もその言葉を聞き、逃げ出すものが増えていった。
リディアは辺りを見回し、怪我をしている者の様子を見ていった。
リディア自身も血を滲ませているが、大した傷ではない。
「大丈夫、もう少し……もう少しで終わるわ」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
その頃には、敵の半数がすでに退き始めていた。
「くっ!やむを得ん!撤退だ!」
指揮官が叫び、隊列は雪崩のように撤退を始める。
その背を追うように、ガロが剣を肩に担ぎながら息をついた。
「ふん……逃げ足だけは早ぇな」
ヴォルドが悔しそうに言う。
「あの指揮官は倒しておきたかったが……」
「無理をすると犠牲が増えるぜ」
「それもそうだな」
二人が話している間も、ルナは雹を降らせている。
その雹は、今度は山を燃やそうとする火の勢い弱めていき、やがて完全に鎮火した。
雹が降りやんだ時、リディアはルナのもとへ駆け寄った。
ルナはまだ目を開けており、荒い呼吸をしていたが、意識は確かだった。
「ありがとう、ルナ。結局頼ってしまったわね……」
リディアが少し申し訳なさそうに言う。
すると、一緒に裏で戦っていた山賊が
「姐さんもその子を守ってたじゃないっすか。随分強くなったっすねえ」
と言ってくれた。
ルナもそれに同意するように小さく喉を鳴らし、その山賊に近づいて顔を舐める。
「わわ!かわいいっすねえ、こいつ」
山賊は、そう言いながらルナの頭を撫でる。
ルナはわずかに目を細めて、今度はリディアの顔を舐めた。
リディアも、心からの感謝と愛情をこめてルナの頭を撫でてやった。
「やっぱり姐さんに撫でられるのが一番気持ち良さそうっすねえ」
その山賊が、少し悔しそうに言う。
その言葉を聞いて、リディアの胸に温かなものがこみ上げた。
「あなたがいてくれてよかった。本当に」
白い吐息が重なり、空にはまだ薄い雲の名残が漂っていた。
***
――そして翌朝。
戦の報告を、グリモー・ハルデン侯爵が聞いていた。
「雹が一点にだけ降った……?」
指揮官の報告を聞きながら、ハルデン侯爵は眉をひそめた。
「山賊どもを避けるように降る雹?そんなバカな!」
失敗するはずのない兵力を与えたのだから、侯爵の苛立ちも当然だろう。
背後に控える執事が静かに言葉を添える。
「人間業とも天の仕業とも思えませんが……銀毛の獣と言うともしや聖獣かもしれませんな」
侯爵は口の端を歪めた。
「聖獣?何だそれは。負けた言い訳ではないのか」
指揮官は何も言い返せずうなだれているが、執事が助け舟を出す。
「その加護を得た者は国を守る盾となり、幾度もの戦乱から人々を救ったという言い伝えがございます。もしその銀毛の獣が聖獣なら……」
「ふ、国を守る……か。つまり我々の邪魔になるかもしれんのだな」
「ヴァルハルゼン王にお伝えしたほうが良いかと」
「隠し砦も移動させておこう。決起の時も近いことだし、もっと街道に近い方が良い。長くいるわけではないから兵糧とテントの移動くらいで良かろう。お主、敗戦の咎は追わぬ故責任を持って移動を遂行せよ」
「ははっ!」
指揮官は、赤い絨毯にひざまずいて誓った。
その赤が、まるで新たな血の幕開けを暗示しているようだった。




