邂逅
ユリウス・グレイは夜明けとともに目を覚ました。
王宮の一室、書簡と報告書が積み上がる机に昨夜の油灯の匂いが残っている。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、彼は自分の役目を思い出す。
王太子付き諜報係。だがその実態は、もはや半ば飼い殺しに近かった。
――リディア様追放事件の際、余計な口を挟まねばよかったのだろうか。
そう思うこともある。けれどあのとき、王太子の処分があまりに早すぎたのは事実だった。
彼女――リディア・グレイス・マクレインが無実である証拠はいくつも見つけられた。
だが耳を貸す者はなく、ユリウスの異議も冷たく退けられた。
それでも職務は終わらない。彼は今日も諜報部を通じて集まる報告に目を通す。
北の国境から届いた報。兵の数が通常より減じているという。
王太子妃となったエリザベートの裁可で、補給費節約の名の下に兵力が削減されていた。
「……愚策だ」
呟きを誰も聞く者はいない。だが、これがただの倹約策でないことは彼には分かっていた。
ヴァルハルゼン王国の動きが不自然すぎる。
密偵の報告では、彼らは国境から兵を退かせる素振りを見せていた。
だが同時に、陰で兵糧を大量に買い集めているという。
退いているふりをしながら、一気に攻め込む準備をしているのではないか――。
「王太子妃は利用されている」
声に出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。証拠はまだ不十分。
だが論理の積み上げはひとつの結論に行き着いている。
エリザベートは知らず知らずのうちにヴァルハルゼンの思惑に絡め取られ、結果として自国の防衛を削いでいる。
このことについて誰かと相談しなくては。
もし事実だったら取り返しのつかないことになる。
だが誰と?
王太子は彼を信用していない。
むしろ耳障りな諫言として処分されるのが関の山だ。
諜報部の同僚たちも、既に新しい妃の寵を得ようと彼女に従順だ。
「孤立無援か……」
それでも彼は自分の考えを書き記す。
言葉を研ぎ澄まし、万が一に備えて。
それが歴史の中でほんの一欠片でも意味を持つことを願って。
窓の外では王都の街が朝を迎えていた。
活気ある市場のざわめき、衛兵の交代を告げる号鐘。
どれも変わらぬ日常に見える。
だがその下に、じわじわと国を侵す毒が流れ込んでいる。ユリウスにはそれが分かる。
――リディア様なら、どうなさるだろう。
ふと浮かんだ名に、自分で驚いた。
彼女はもう宮廷にはいない。
ただの追放者に過ぎない。
けれど、その追放劇はヴァルハルゼンの謀略だとユリウスは睨んでいる
エリザベートの方が扱いやすいと思ったのだろう。
だが、それだけではない。リディアでは都合が悪かったのだ。
そのリディアの冤罪を晴らすために協力することを、ユリウスはリディアの父ギルベルトと誓い合っている。
隣国の王に負けないためにも、それが必要なことだと思えた。
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一方その頃、王都の裏通りをリディアとガロが歩いていた。
それは、聖獣に関する情報を図書館で得たその帰り道。
簡素な外套をまとい、フードを深くかぶっている二人。
追放された身であるリディアは、知人に見つかるわけにはいかなかった。
二人は表通りに出る前に、人通りの少ない路地で足を止める。
ちょうどそのとき、背後から足音が近づいてきた。
リディアは反射的に身構えたが、現れたのは一人の青年だった。
端正な顔立ちに、冷静な光を湛えた瞳。彼女にとっては見覚えの薄い顔。
コソコソし過ぎても怪しまれるので、リディアは普通にすれ違おうとした。
しかし、青年の方は一瞬、目を見開いた。
「……リディア様?」
声は驚きと確信の入り混じったものだった。
ガロが一歩前に出て、さりげなく彼女を庇う。
「あなたは?」
「ユリウス・グレイと申します。王太子付きの調査官です。……あなたが王都に戻られていたとは」
リディアは警戒を解かぬまま、青年を見つめ返した。
だが、ユリウスの方も困惑し、周囲を気にして落ち着かない様子だ。
「ここでは目立ちます。どうか、今宵、少しお時間をいただけませんか。お伝えすべきことがあるのです」
リディアは一瞬ためらったが、隣のガロが小さくうなずいた。
その表情に背を押されるようにして、彼女は静かに答える。
「……分かりました。お話を伺いましょう」
ユリウスの目に、わずかな期待が宿った。
孤独な調査官と追放された元貴族。二人の道が、いま交差した。
久しぶりに登場したユリウスは王太子付き諜報係。リディア追放事件の際、処分の速さに疑問を呈したことで疎まれるようになりました。現在は名目上は任務継続中ですが、王太子からの信頼は薄れており、独自にリディアの件やヴァルハルゼンの動きを調べています。
ユリウスは13~16話、19~23話あたりで出てきています。




