帰郷の扉
修道院を出てから数日、険しい山道を越えた先に、広々とした平野と城壁の影が見えてきた。
陽光を受けて輝く白亜の壁、その内側から響く喧噪のざわめき――王都である。
かつて生まれ育ち、そして追放された場所が目前に迫ると、リディアの胸は強く締めつけられた。
彼女はフードを深くかぶり、顔を隠す。ガロが横目で見やり、低く言った。
「油断するな。お前はまだ罪人だと記録されているはずだ。目立つ真似はするなよ」
「わかっています……」
声を落としながらも、リディアの指先は震えていた。
ガロは一歩前に出て、周囲の視線から自然に彼女を庇うように歩く。
その姿勢に心強さを覚えつつも、リディアは鼓動が速まるのを止められなかった。
城門をくぐると、王都の空気が一気に流れ込んできた。
石畳の大通りには人々が行き交い、露店には果物や香辛料が並び、子供たちの笑い声が響いている。
兵士たちも雑談を交えながら見回りをしており、その表情には緊張感のかけらもない。
「……こんなに、平和そうに」
リディアは思わず呟いた。辺境での疫病や刺客の襲来がまるで夢だったかのように思えてしまう。
だが、胸の奥では「これは嵐の前の静けさだ」と直感していた。
一行は王都中央にそびえる塔へと向かった。
天空に突き刺さるような白い尖塔――中央図書塔。
王国のすべての記録が集まるとされる、リディアも昔はよく通っていた場所だ。
それを見上げながら、リディアは逡巡していた。
貴重な本もたくさん置かれている中央図書館には、当然誰でも簡単には入れるわけではない。王都貴族の認証がなければ入れないのだ。
そして、今のリディアにはそれがない。
子供の頃は普通に入れたのに、今は入れないのだ。
ここに来たのは、図書館の出入りを管理している者がリディアを知っているかどうかを見定めるためだった。
もしもリディアの顔を知っていたら、辺境にいるべき罪人に対してどのような態度を取るかわからない。
その場合は、ガロに1人でルナのことを調べてもらうしかない。
だが、遠くから管理者を見たところ知らない顔のようだ。
図書館の管理者は身分の低い者の仕事なので、直接顔見知りでなければまずバレることはないだろう。
ここに入るための条件の一つはクリアした。
残る一つ、王都貴族の認証は、もちろんリディアの実家からもらうことになる。
久しぶりの我が家。
挨拶も許されずに追放された自分を、両親はどのように迎えるのだろう。
両親はとても優しかったが、自分は家名に泥を塗った身だ。
勘当されていてもおかしくはない。
だが、いつまでも迷っているわけにはいかない。ルナのためなら、土下座でも何でもする。
そう決意を固めようとしたリディアの背に、大きな手が添えられる。
ガロが無言で押した。
「行け。お前は帰るんだ。逃げる理由なんかない」
その声に背を押されるように、リディアは小さく頷いた。
夕暮れの光が街並みに差し込む中、彼女は生家の屋敷の門へと歩を進める。
重厚な門扉を前に立ち尽くし、しばらく拳を握ったまま動けなかった。
だが意を決して門を叩く。
しばしの沈黙ののち、扉が軋みを上げて開き、中から現れたのは年を重ねたが気品を保つ女性――母クラリスだった。
「……リディア?」
最初は信じられないように目を見開き、次の瞬間には涙を浮かべて娘を抱きしめた。
「ああ、リディア……戻ってきたのね……!」
その温もりに、リディアの視界も滲む。追放の日以来の言葉と抱擁が、ようやく取り戻されたのだ。
さらに後ろからの足音に気づいて振り向くと、父ギルベルト・フォン・マクレイン伯爵がゆっくりと歩み寄ってきた。
厳格な顔立ちは変わらずとも、その瞳には安堵の光が宿っていた。
「よく……戻ったな、リディア」
短い一言に、すべてが込められていた。リディアの心配は杞憂だった。
リディアは嗚咽を堪えきれず、膝を折って涙をこぼす。
父は無言でその肩に手を置いた。
その様子を、ガロは優しい目で見つめていた。
その夜、暖かな灯火の下で家族とガロは共に食卓を囲んだ。
母は涙ぐみながら料理を勧め、父はガロに杯を勧める。
やがて、リディアは静かに切り出した。
「私が戻ってきたのは、聖獣ルナの記録を探すためです。中央図書塔に、それがあるはずだと」
父と母は一瞬驚いたように視線を交わしたが、やがて真剣な眼差しで娘を見つめた。
「聖獣……噂には聞いたことがあるが、なぜおまえがそれを調べているのだ?」
それからリディアは、今までに起こったことを話した。
そうなると、どうしても刺客に襲われたことも話さなくてはならない。さらにヴァルハルゼンの陰謀も。
刺客に襲われたと聞いた時は顔を青くしていたギルベルト伯だが、すぐにガロの方に向き直り
「娘を助けてくださってありがとうございます」
と感謝の意を述べた。
「いや、こいつがいなかったら危なかったんです」
そう言って、ガロはルナを伯爵に見せる。
「娘の命の恩人のためだ。もちろん私にできることなら何でも協力しよう」
父の言葉に、リディアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
翌朝、マクレイン伯は自らの紋章を刻んだ指輪をリディアに託した。
「これがあれば、図書塔に入れる。だが、くれぐれも他の貴族に見つからないよう気を付けるんだぞ」
リディアは深く頭を下げ、指輪を胸に抱いた。
再び街を歩き、中央図書塔の前に立つ。
ルナを救いたい。そしてルナのことをもっと深く知りたい。
その決意を胸に秘め、リディアはゆっくりと扉へと歩み寄った。




