信頼
それは2年前の話――ラグリファル王国に不穏な空気が流れたのは、王ガラハルトが倒れたという知らせが広がった日だった。
動揺する王都。その隙を突くように、隣国ヴァルハルゼンの王グラウベルトは密かに動き出していた。
地方領主たちの不満を焚きつけ、王太子に不信を抱かせ、王国を内側から瓦解させる。
その計画の一端が、外交文書の不正操作と地方巡察の混乱だった。
だが、そこに予想外の存在が立ちはだかった。
王太子の婚約者、リディア。
王宮の中ではまだ若い娘としてしか見られていなかった彼女は、与えられた任務――文書管理や使者の調整、民心への気遣い――を黙々と、誠実に果たしていた。
その地道な働きが、ヴァルハルゼンの策略をいくつも無効化することになった。
政府の(そのほとんどはリディアの)誠実な対応によって地方領主の不信感は静まり、外交混乱は未然に防がれた。
「偶然だとは思いますが、あの小娘は邪魔ですな」
ヴァルハルゼン王国の一部の側近はそう言って肩をすくめた。
だが、王グラウベルトの目は鋭かった。
「侮れん」
彼は静かにそう言い放つと、新たな策略を講じた。
王太子とエリザベートの接近、そしてリディアの婚約破棄。
すべては、この有能すぎる小娘を王宮から遠ざけるため。
狙い通り、リディアは追われるように辺境の地・ミルファーレ村へと送られた。
策略が成功したことを報告されたグラウベルトは、椅子の背にもたれながら満足げに呟く。
「うまく追い出せたようだな……」
*
それから数ヶ月が過ぎた。
春の終わりを迎えたミルファーレ村で、異変が起こった。
子どもたちが次々に発熱し、咳をこぼし始め、大人たちも食欲を失っていった。
リディアはすぐに村の広場に駆けつけた。
既にゼノが現場を把握し、手際よく隔離区域を設け、水源を確認し、感染の拡大を抑える手を打っていた。
「水場が汚染されてる。川の上流に獣の死骸でも流れ込んだか……」
ゼノは低く呟くと、村の若者に簡易の浄化装置を作らせ始める。
しかし問題は物資だった。
消毒用の布も、保存食も、薬草も足りない。
「ゼノ、これを使って」
リディアは自分の倉庫を開け、貯めていた薬草や布、防疫用品を持ち出した。
この村に来てから、万一のためにと用意していた備蓄だ。
「リディア……こんな事態を想定してたのか?」
ゼノが驚いたように問うと、リディアは少し恥ずかしそうに目をそらした。
「私は、私にできることをやっておきたかっただけです」
「……リディアにはいつも助けられてばかりだな」
小さく笑ったゼノの顔に、いつになく穏やかな表情が浮かんでいた。
感染は早期対応により抑えられ、村は平穏を取り戻す。
村人たちは自然と、2人を信頼するようになっていた。
「リディア様がいれば、もう安心だ」
「ゼノ様も、一晩で隔離区作ったんだってさ」
夕暮れの畑で、村人たちのそんな声が風に乗って流れてくる。
その日の夜。
リディアは、村の高台にひとり立って夜空を見上げていた。
そこへ、背後から足音が近づく。
「ここにいたのか」
振り返ると、ゼノが立っていた。
どちらからともなく、肩を並べて夜空を眺める。
「……あなたがいてくれて、本当によかった」
「それは、こっちの台詞だ」
静かな時間が流れた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
リディアは、自分の中に芽生えた感情に気づき始めていた。
ゼノのほうは、もうとっくにそれを自覚していた――
*
その夜、ミルファーレ村の森の奥。
暮れかけの空の下、猟師・ガロは焚き火の煙を追っていた。
猟犬が唸り声を上げたのは、その時だった。
気配に気づいたガロが立ち上がると、そこには黒衣の密使が一人。
何も言わず、封書を差し出し、闇に紛れて去っていく。
ガロは封を切り、中の書状に目を通す。
「また、面倒な話が動き出したか……」
焚き火の火が、ゆらりと揺れた。
ガロの背にある影が、獣のように不穏にうねった。