出て行けと追い出されたが、そもそも私の家ではなかった
――雷轟く暴風雨の中、私を追い出して地面に転ばせたその人は、獣のようにぎらついた目をしていた。
「これで二度とお前の顔を見ないで済むな。さっさとこうしていれば良かったんだ、この家にお前なんて元々必要ないし、俺のクラリスが毎日毎日嫌がらせばかりされて本当に可哀想だったよ」
「エド、そんなこと言わないで……お姉様も、きっと悪気があったわけじゃないのよ」
「あぁクラリス、おまえはなんて優しいんだ……。実の姉にあれだけいじめられていたというのに……。それに比べてこいつは本当に醜悪だ、あだ名通りの悪女だよ――、『醜いお人形』!」
「だめよ、エド……!」
何の、茶番だろうか。
突き飛ばされて転んだ時に、捻った足が痛い。体に打ち付ける雨と、吹き荒れる風で体の芯からの震えが止まらない。体中はとっくに泥だらけな上に、追い出されるというのに荷物の一つも持たせてもらえなかった。
そんな見るも無残な私を見下ろして、妹のクラリスと私の婚約者のエドワードが愛をささやき合っている。
二人は煌びやかな服を着て、安全な馬車の中から、私を見下ろしていた。
「じゃあな、二度と会わないことを願ってるよ。まあ、この魔物うろつく森の中で、生き残れればの話だけどな!」
「エド、もう行きましょう、なんだか怖いわ……」
「あぁごめんクラリス。こんなところに居たくないよな。早く帰ろう、屋敷の中に入って温まるんだ」
「うんっ」
一方的に色々話したかと思うと、二人は馬車の扉を閉めて去っていった。当然、私はひとり取り残されたまま。
二人がここまで私を恨んでいただなんて、知らなかった。
痛む足を引きずって、しかし立ち上がれずに、這うように森の中を進む。エドワードの言う通り、魔物が蠢く夜の森の中で、無力な私が生き残れる確率はあまりにも低い。
だが、何もしないわけにはいかない。死にたくは、なかった。
「あっ」
不意に、手首に付けていたブレスレットがなくなっているのに気づく。
思わず顔を青くしてから、もう気にする必要はないのだと思い直した。
あのブレスレットは、記憶が薄いほど幼いころに父に常時付けていろと厳命されていたもの。
あれを付けている時は、私の髪と目の色が変わるということしか私には分からない。
本来の私は紺色の髪と紫色の瞳。……だった、と、思う。
それなら今の私は、もとに戻っているのだろうか。どうなのか、分かるはずもない。
喉が焼けるように熱い。もう声も出ない。頭がくらくらする。雨に打たれて高熱でも出たのだろうか。
腕にも足にも力が入らない。視界もぼやけてきた。
魔物か動物か分からないが、何かの鳴き声がずっと耳に響いている。もう、駄目なのかもしれない。
――どんな時も、生きる希望を失ってはいけないわ。
ずっと、ずっと昔に聞いたそんな言葉が、蘇る。
美しい声。多分、女性だと思う。それほどに薄い記憶の中で語られたその言葉が、どうしてか私がここまで生きてきた原動力だった。
そうよ。生きたい。死にたくない。
でも――、このままでは、もう。
「――! 居たぞ!! あの子だ!! 保護するんだ!」
「なんてことだ! セレンティア!」
意識が朦朧とする中で、大勢の人間の話し声がぼんやりと耳に届く。
完全に力が抜けるその前。
私は、焦燥感と心配に溢れた表情で私に手を伸ばす一人の青年を見た。
その青年は――、私と同じ、髪色をしていたと思う。
〇
「――なんてことをしたんだ、おまえたちは!!」
「お、お父様、どうして怒るのよ……」
父が帰宅して、エドワードとクラリスが姉のエリーゼを追い出したと聞くと、彼は激昂してクラリスの頬を打って怒声を上げた。
地面にへたり込むクラリスに駆け寄ったエドワードも、何が何だか分からないという表情で義父を見上げる。
良いことをしたのだと思っていた。
エリーゼはクラリスに嫌がらせしかしないと聞くし、婚約者である自分と共に居ても何一つ面白みがない女だ。あの茶色の髪と瞳は無個性で、大して美人でもなく、陰湿で、陰険で、無表情で、冷酷で、まさしく『醜いお人形』という言葉の相応しい女。
侯爵家という身分と金と鉱山の取引がなければ、エドワードが婚約を了承することもなかっただろう。もちろん、そこでクラリスと出会えたのは最高の僥倖だったわけだが。
そもそも、ローデンゼン侯爵家だって、誰一人彼女を良く思っていなかったではないか。
父親も母親もエリーゼを疎んでいたようだし、社交界でも同じだ。
だからそんな女が消えてしまえば、全てが平和で幸福に満ちるものだと思っていたのだ。
「勝手なことをしやがって!! なんのためにあいつを手に入れたと思ってんだ!! わざわざ十数年も育ててやったのはこの時の為なんだぞ!! クラリス、お前のためにしてやったことだというのに!!」
「あ、あたしのため? どういうことなのよお父様! あたしは何にも知らないわ!」
「馬鹿者が! この国は魔力だ、魔力さえあれば出世できる! あいつの魔力さえあれば、俺たちは侯爵家どころじゃない、公爵家にだってなれる! そうしたら憎いあの男の尊大な態度をへし折ってやれたのに……!! お前というやつは!」
クラリスとその父親の舌戦を、エドワードはぽかんとしながら眺めている。仲睦まじく穏やかな家族だと思っていたのに、こんな一面があるのだとは。
――そういえば、エリーゼが家族と一緒に居るところを一度も見たことがない。
エドワードを伴わなければ、社交界に出ることもないようだった。
加えて、エリーゼの魔力とはどういうことなのか。彼女は魔力を持たない劣等生だと噂になっていたはずだ。
逆に、クラリスは魔力を大量に持ち、治癒魔術師として優れた才能を開花させた優等生のはずだ。その力はエドワードも目にしたことがあるし、奇跡の少女だと誇らしく思っていたのも記憶に新しい。
「まっ、ち、違うのよお父様、これは全部エドの考えたことなのよ? ねえ、そうでしょうエド!」
「はっ……? いや、俺たちはちゃんと相談をして……」
「誰が考えたなどと関係あるか!! 二人とも今すぐあいつを連れ戻して来い!! 連れ戻したらいつものところに閉じ込めておくんだ!! 絶対に出られないようにな! 分かったな!?」
「わ、分かったけど、お父様、ちょっとどこに行くのよ、あたし達でそんなことできるわけないじゃない! ねえお父様ったら――」
「と、閉じ込めるってなんだ? いつものところって、どういうことだよ? 聞いてた話では……」
激昂しながら部屋を出て行く父。喚くばかりで何も行動を起こさないクラリス。呆けて思考が追いつかないエドワード。
エリーゼという悪役令嬢を失ったその瞬間に――、ローデンゼン侯爵家という砂でできた城は、もう崩れ去ろうとしていた。
〇
綺麗な洋服。温かなスープ。煌びやかな部屋。そして、暖かい表情で迎えてくれる人々。
知らない言葉。知らない雰囲気。知らない感情。
カルデンシア公爵家に連れてこられた私は、戸惑ってばかりだった。
そして今、私の対面には公爵家当主とその家族たちが座っている。
その表情からは私を傷つけようとする心が一切読み取れず、だからこそより恐ろしかった。
私にとって光とはいつも、より深い絶望に叩き落される序章に過ぎないから。
あの暗い暗い部屋で、暴力と暴言に耐えながら暮らす日々。
その中に差し込んだ光が、エドワード・ヘーデル伯爵令息だった。彼は優しくて、そんな彼に会うことは私が唯一外に出られる術だったから、嬉しくて。
だけれど彼も、クラリスと出会って変わってしまった。
エドワードに恋をしたクラリスは、地下に閉じ込められている私に「あんたはエドに不釣り合い」だと言って、拷問をしたり暴言を繰り返した。彼女は治癒魔術を使えるから、露見することはなかった。
私がエドワードに会うたびに、彼女は癇癪を起こして酷いことをする。だから、光を、ずっと恐れていた。
公爵家当主が、口を開く。
思わずびくりと肩を震わせて、両目を固く閉じてしまったが――、
「すまなかった、セレンティア……いや、今はエリーゼと呼んだ方が、いいのかな」
「!? あ……ぇ」
意外にも、当主様は深々と頭を下げてひどく申し訳なさそうな表情でそう語った。
答えなくては、応えなくてはと思うが、喉から声が出てこない。
何と答えたら、殴られないだろうか。どう答えたら、ご飯を貰えるだろうか。
そんな考えばかりが頭をめぐって、体がガタガタと震える。
まともな会話もできない私が焦っていると、ソファーからひとりの青年が立ち上がって、私の前に跪き、そっと手を握った。
「怖がらないで。僕たちは君を傷つけたりはしない。……こんなことが贖罪にはならないと、分かっているんだ。だけど今度こそどうか、君を世界で一番幸せな子にしてあげたい。大変だったね、ごめんね、よく頑張ったね……!」
「っ……!」
ぽろぽろと涙を流してそう訴える青年の言葉は、あまりにも真摯で。
十数年にわたる私の苦しみへの足掻きを、労ってくれているようで。はしたないと分かっているのに、私も思わず涙を流してしまった。
しばらく二人で泣いてから、ふと、気が付いた。
目の前の青年も、家族たちも皆、同じ髪と同じ目をしている。紺色の髪、深い紫の目。そして瞳に灯る宝石のような光。
勘違いするなと父には口酸っぱく言われていたため、もう二度と考えることはなかったが、最初に見た時は「自分の元の髪と目と似ているな」と考えたこともあった。
最も公爵家も自分も社交界にはあまり出ないので、会ったのはそれっきりだったのだが。
でも、どうして。
どうして彼らは自分を拾ってきたのだろう。
どうして、別の名前で呼ぶのだろう。
これは本当に、偶然だろうか。
私の戸惑いに気が付いた、凛とした空気を纏うポニーテールの女性が、口を開いた。
「ずっと前に起きた、カルデンシア公爵家で赤子が失踪したという事件を知っているかしら?」
「ぁ……少し、だけ。父が、それらしい、ことを」
「――そうねえ。この件を話してから、訂正してもらいましょうか。率直に言うと、あの事件で失踪した赤子がセレンティア、貴女なのよ。貴女は正真正銘、我がカルデンシア公爵家の子であり、生まれを祝福され愛されるべきだった末っ子なのよ、私の愛しい妹」
「――!? わ、私、が……!?」
断定の口調でそう宣言した女性の唐突で膨大な情報に、私は頭が真っ白になってしまう。
だって、私は侯爵家の嫌われ者で。魔力もない劣等生で。妹のような愛嬌も才能もなくて。食べ物を貰えているだけ有難いと思えと、そういつも言われていて。
髪色と瞳が一緒だと言うだけで、本当に、そんなことが――、
「間違えはしない」
「え?」
冷静沈着な声で、公爵様がそう言い切った。
「我がカルデンシア公爵家には、秘められた能力があるんだ。この目に宿る光は、我が一族が唯一の祝福を受けて国家を護る力を与えられた証。ゆえにカルデンシア公爵家はこの国一番の重鎮であり、必要不可欠な存在だ。その魔力は膨大であり、それ以上に……我々の魔力には、共鳴という力があるんだ。血を分けた互いのことが、分かるんだよ」
「共鳴、ですか……」
「例のブレスレットを解析したが、あれは君の魔力を封じたうえで吸収する魔道具だ。今まで共鳴が通じなかったのはそれが原因で、またローデンゼン侯爵家の近年の繁栄は、君から吸収した魔力に支えられていたんだろう。そのブレスレットは、定期的に補強、更新しないと君の魔力に耐えられずに破砕してしまう。当主がその周期を見誤ったか、あるいは君の魔力が成長したことで、効果を失い外れたと思われる」
「そんな……! で、では……私がここにいては、侯爵領に生きる人々が……大変になりはしませんか?」
「「「――!」」」
沈痛な面持ちでそう語る公爵様だったが、私が何よりも心配なのは領地に生きる人々だった。
たとえ父が多くの財を横領していても、ローデンゼン領の生活の質は恐らく相対的に少しは向上したはずだ。私がローデンゼンを離れてしまったら、彼らはどうなってしまうのだろう。
少し驚いた顔をした青年だったが、彼はすぐに微笑みを浮かべた。
「――さすがだね。でも心配しないで、君を利用して作られた繁栄は長続きしないし、過酷な税やずさんな管理は既に報告に上がってきている。ローデンゼンを潰してやり直した方がいい。例えば、君のような素晴らしい人に管理してもらえば、人々はより良い生活を手に入れられるよ」
「私が、ですか?」
「そうだ。君の名前はセレンティア。セレンティア・カルデンシア。僕の可愛くて優しい妹……。僕の名はギルバート・カルデンシア。君の兄だ。君に二度とあんな苦しみは味わわせない。公爵家の名をかけて約束する。――どうか、カルデンシア公爵家に戻ってきてくれないかい?」
真摯に訴えかける、青年の瞳。揺れるギルバートの瞳を見て、私はふと思った。
――あの時、私に語り掛けてくれたのは。
ずっと私の希望になっていたあの言葉を、口にしたのは。私の本当のお母様だったのではないか、と。
私に嫌味を言わない、ご飯を抜いたりしない、私を愛してくれるお母様。
もしも、ここに私の幸せがあるのなら。
こんなにも真剣に、私を求めてくれる人が居るのなら。
まだ生きる希望を、捨てなくてもいいのなら。
私は。
もう一度、この人生を歩きだしてみたかった。年相応に。普通の子みたいに。
「――はい」
そうして、私はエリーゼ・ローデンゼンという名前を捨てて。
セレンティア・カルデンシアとして生まれ変わった。
〇
楽器隊が奏でる優美な曲を背景に、豪奢な宴会会場は華やかな様相を呈していた。
――何よりも、中心で輝く二人の美男美女によって、会場全体がまるで天に昇ったかのような幻想的な雰囲気を纏っている。
「セレンティア様と皇太子殿下だわ……本日も本当に美しい!」
「本当に! よくぞ不幸を乗り越えられて……ぐすっ」
「なんてロマンスなのかしら。まるで絵、いや、劇のようだわ!」
「ううっ、公爵家の皆さまと殿下がいらっしゃるところだけ輝きが違う!」
会場の中心で談笑するセレンティアと皇太子レクシードの二人、そして公爵家の面々を見て、人々が歓声を上げる。
数々の苦難を乗り越えてようやく結ばれた二人は今や、社交界全体の憧れの的だった。崇拝している人さえいる。
その物語は多くの劇や歌、小説などに描かれ、知らぬ人の方が珍しいまでだ。
誰もがうっとりと彼らを見つめる中、ハンカチを噛みしめてわなわなと震える少女がひとり。
みすぼらしくなったドレスを引きずって、少女は群衆を押しのけてセレンティアを指さして吠えた。
「――何なのよ! あんたばっかり! こっちがどれだけひどい目に遭ったか知ってるの!? 十数年も面倒を見てやったのに、この恩知らず! 妹が手紙を送ってるのに返しもしないで――、わあ!」
「――僕の妹に近づかないでくれるかい? 君の姉ではないんだけど」
「悪臭がするしそれ以上に心が汚い。ちなみに手紙は私が毎回燃やしてるのよ、本当に手間で面倒だからもうやめてくれる?」
髪を振り乱して、クラリスがセレンティアを指さしてわあわあと喚く。その指が彼女に伸びようとするかというところで、ギルバートと姉のアルデリカが前に立って妹を守る。
皇太子と婚約をし、愛する家族に守られる。まさしく幸せの只中にいるセレンティアを見て、クラリスが言語にならない叫び声を上げる。
そもそも、どうやって宴会に入ったのか。
ため息をついてクラリスを追い出そうとした皇太子だったが、その前にセレンティアにやんわりと止められた。
姉と兄の壁の向こうから、セレンティアはクラリスと目を合わせた。
久しぶりだけれども、少しとして怖くはなかった。
「……クラリス」
にこりと微笑んだセレンティアの表情に、恐れは一片たりともない。毅然とした決意だけが読み取れる。
鬼の形相でセレンティアを睨むクラリスに、彼女は『優しく』語り掛けた。
「私は、セレンティア・カルデンシア。カルデンシア公爵家の末娘。最初から最後まで、ローデンゼンとは何の関係もないの。あ、だけれど……追い出してくれてありがとう、クラリス。おかげで、私は自分の家を見つけることができたわ」
「ふっざ、けるなぁあぁあぁ―――――――!! お前のせいで! お前の――!!」
貴族たちの引いたような目線の中で、かつての偽りの才女、社交界の華、絶世の美女クラリスは引きずられていく。
それを見送るセレンティアの目が、ふとレクシードの手に塞がれた。
「あとは彼らが処理してくれる。ティア、もうあんなものを見ないで。僕と踊ろうよ」
「……ええ。でも本当に、大変な生活をしているようね」
「同情しているの? やめなよ、因果応報だよ。何せ侯爵は赤子を盗んだ罪と他余罪を問われて死刑、娘と母親はその直前に父と縁を切り罪を逃れようとしたものの母方の男爵家の経営はまるで成っておらず、家計は傾く一方。婚約者は当然婚約破棄され、貴族位を奪われて平民になった……うん。僕としてはまだまだ足りないと思うんだけどね」
「リュークったら……」
ローデンゼン侯爵家一味とエドワードのその後の処遇を並び連ねたレクシード――リュークは、少し首を傾げてうんうんと頷いている。
私の婚約者は、優しくて時に厳しくて――、そしてたまに、少しだけ腹黒いところがあると思う。
ただ、今回のことは私も反論ができない。
悪事ばかり働いていた彼らが成敗されたことで、救われた人は私も含めてたくさんいるはずだ。
ちなみに例の男爵家も、家族会議やリュークの反応を見るにゆっくり潰される予定のようだ。
これ以上考えないで、とでも言うように、リュークは私の前に立って一礼をしてみせる。
ぱち、とウィンクをした彼が、優雅に私に手を差し出した。
「さ、ティア。僕に、君と踊る幸福を与えてくれますか?」
「ふふ、もちろんですわ」
――そうだ。
私はあの時、セレンティア・カルデンシアとして新たな人生を生き直した。
だから、限りある人生とこのようやく手に入れた幸福を、精一杯謳歌しよう。
帰る家があって、愛する人がいて、そして愛されている、この場所で。
そういう意味では本当に感謝しているのよ、クラリス。
出て行けと言って追い出されたけれど、あそこはそもそも私の家では、なかったのだもの。
それを知る機会をくれて、本当に、ありがとうね。