エピソード2:「境界の向こう側の化粧部屋」
麗華に案内された奥の部屋は、「楽屋」と呼ぶにふさわしい空間だった。大きな化粧台と鏡がいくつも並び、壁にはドレスやウィッグがかけられている。華やかな衣装の隣には、普通のカジュアルな女性服も用意されていた。
「さて、お二人とも座って」
麗華は二人を化粧台の前の椅子に座らせると、棚から化粧品を取り出し始めた。
「ちょっと待ってくれ」
有樹は慌てて手を上げた。
「俺、髭は剃りたくないんだが...」
有樹は無精ひげをなでながら言った。理由は単純で、面倒くさいからだ。それに、明日からの日常生活で「なんで髭がない?」と誰かに聞かれるのも嫌だった。
麗華は一瞬有樹を見つめ、それから意外な反応を示した。
「ならそれはそれで...」
「え?いいの?」
「ええ、最近はね、『ひげ美人』なんて言葉もあるくらいよ。個性があって悪くないわ」
麗華はウインクした。
「それに、初めての人には無理強いしないのがうちのポリシー。楽しんでもらうのが一番大事なの」
有樹は少し安心したように肩の力を抜いた。一方、ミカは黙って座ったまま、鏡に映る自分の顔をじっと見つめていた。
「で、あなたはミカさん?」
麗華がミカに声をかける。
「...そう。名付けられた」
「名付けられた?...まあいいわ。とにかく、あなたの場合は簡単よ。元の素材が良すぎるもの」
麗華はミカの顔に手を添え、あらゆる角度から眺めた。
「これはね、天から授かった顔立ちというやつよ。化粧が必要ないくらい...」
麗華は感嘆の声を上げながら、それでも手際よくミカの化粧道具を選び始めた。
「あの、ちょっといいですか」
有樹が遠慮がちに尋ねる。
「この店、どんな感じなんですか?接客とか...その、何をすればいいんでしょう?」
麗華は化粧品を選びながら答えた。
「うちはね、普通の喫茶店と基本は同じよ。お客様にドリンクを出して、時々会話を楽しむ。ただ、接客するのが女装した美しい『娘たち』っていうだけ」
「特別なサービスとかは...?」
有樹は少し警戒気味に尋ねた。
「あら、そういうお店だと思ったの?」
麗華は笑いながら首を振った。
「ここは健全なカフェよ。確かに一部のお客様は『女装した美しい人』に接客されること自体を楽しみにしてるけど、それ以上のことはないわ。ただ、愛想良くしてくれれば十分」
「そうですか...」
有樹はほっとした様子だった。
麗華は有樹の顔にも手を伸ばし、無精ひげを確認した。
「あなたの場合、髭はそのままで...でも肌の手入れと、軽いファンデーション、それから目元のメイクはさせてもらうわね」
「あ、はい...」
有樹は少し戸惑いながらも、従った。麗華の手つきは確かなもので、さすがプロだという印象を受けた。
「で、二人の名前はどうする?」
「名前?」
「そう、女装名よ。お店では本名じゃなく、女の子としての名前で呼ばれるの」
有樹は考え込んだ。そんなことまで考えていなかった。
「う〜ん、そうですね...」
「あなたは『有紀子』はどう?土田有紀子さん」
「有紀子...まあ、いいですけど」
「髭のある有紀子さん、面白いじゃない?」
麗華は楽しげに言った。
「じゃあ、ミカさんは...」
麗華はミカを見た。
「...このまま『ミカ』でいいわ。元々中性的な名前だし、そのままでピッタリよ」
ミカは無言で頷いた。彼にとって、名前はただの記号に過ぎないようだった。
麗華は二人の化粧をしながら、様々な話をした。この店を始めたきっかけや、常連客の話、女装文化についての知識など。有樹はそれに相槌を打ちつつ、どこか緊張している様子だったが、ミカは相変わらず静かに座っていた。
「もう長年、この世界にいるからね。色んな人を見てきたわ。美しさって、本当に不思議なものなのよ」
麗華は化粧ブラシを持ちながら語った。
「男性も女性も、境界線を越えた瞬間、何か違うものが見えてくる。自分自身の中にある別の側面が」
「境界線...」
ミカがポツリと言った。その声に、麗華は動きを止めた。
「そう、境界線。ジェンダーの境界、見た目と本質の境界...この世界は境界線だらけだけど、時にそれを超えてみると、思わぬ発見があるものよ」
ミカの目が、一瞬だけ輝いたように見えた。
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一時間後、二人の変身は完了した。
有樹は鏡の前に立ち、自分の姿に呆気にとられていた。無精ひげはそのままだったが、目元が強調され、薄くファンデーションを塗られた肌は自然な艶を放っている。ブロンドのセミロングのウィッグをつけ、シックな黒のワンピースを着た姿は、確かに「女装した男性」だが、不思議と違和感がなかった。
「これが...俺?」
「いいじゃない?スタイルもいいし、髭があるのもかえって個性的で素敵よ」
麗華は満足げに言った。
「今日からあなたは『有紀子』よ。男の土田さんは、いったん忘れて」
一方、ミカの変身は驚くべきものだった。
もともと中性的で整った顔立ちだったが、麗華の技術によって見事な「美少女」へと変貌していた。淡いシルバーブロンドのロングヘアが肩に流れ、薄いブルーのワンピースは彼の神秘的な雰囲気をさらに高めていた。
「...これが私?」
ミカは鏡の中の自分を見つめ、珍しく疑問を口にした。
「ええ、素晴らしいわ。生まれながらの美しさがあるから、ほんの少し手を加えただけなのに...」
麗華の目には、明らかな感嘆の色があった。
「まるで本物の天使みたい...」
有樹も思わずミカを見つめていた。普段から綺麗な顔立ちだとは思っていたが、女装した姿は予想をはるかに超えていた。
「お前、どんな格好でも様になるな...天使だからか?」
そう言って、有樹は自分でも気づかぬうちに苦笑していた。
「...人間は外見で中身まで変わるのか?」
ミカは不思議そうに尋ねた。
「いや、そういうわけじゃないけど...」
「でも、ある意味では変わるのよ」
麗華が割って入った。
「見た目が変われば、周りの反応が変わる。周りの反応が変われば、自分の振る舞いも少しずつ変わってくる。そして気づけば、内側の何かも少しだけ変化している...」
麗華は遠い目をして言った。まるで自分自身の経験を振り返るかのように。
「さて、準備もできたことだし、そろそろお店に出ましょうか。今日はそんなに混んでないけど、常連さんが何人か来てるわ」
麗華がドアを開けると、かすかに音楽と会話の声が聞こえてきた。
「...人間の姿形変化の習慣。観察する価値がある」
ミカは淡々と言いながら立ち上がった。女装した姿でも、その無表情は変わらない。けれど、どこか好奇心に満ちた様子が見て取れた。
有樹は深呼吸し、ドアの向こうへと踏み出した。
「まあ、バイトだからな...」
そう自分に言い聞かせながら、もう一人の自分——有紀子として、初めての接客に臨もうとしていた。
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