テオと「をばさん」
〈目にさやか靑みを踏んで通り行く 涙次〉
【ⅰ】
安保さんが、* ボンド・スクーターを點検してくれた。バッテリー部分の改良により、大分遠方への運轉が可能になつた。テオはちよつと杵塚になつた氣分。
* テオと安保さんの共同開發による、「秘密兵器」。猫操縦の超小型スクーター(電池式)。武器に、毒針銃、撒き菱装置を搭載。
中野區野方から、北に向けてスクーターを進めると、池袋。西口前の公園で、テオは一つの出逢ひをする。「あら猫が運轉してるよ、わたしやまたラジコンかと思つた」ショッピングバッグ・レイディーの「をばさん」が、テオが風防を上げると、仰天してゐる。「をばさん、僕を知らないのかい?」
「あら今度は喋つた」テレパシーが通じる人だ。大體、(本人にその氣はなくとも)テレパスなら信用置ける。
【ⅱ】
「をばさん」新聞を拡げると、「なになに、カンテラ一味の天才猫・テオが... あこりやあんたの事かい? 随分有名なんだね」「だうでもいゝけどをばさん、それいつの新聞よ?」
「をばさん」とテオは、すぐに仲良くなつた。「をばさん」は、往年の市原悦子さん似だつた。
「あんたこれ食べるかい」お團子を何処からか持つてきて「これは拾つたもんぢやないよ。ちやんと買つたもんだよ」小錢くらゐなら、持つてゐるらしい。
二人、お團子をくちやくちややりつゝ、語らつた。「あ、3時だ。藥、藥」「をばさん」が藥と云ふのは、目藥の事だ。點眼しないと、目がしよぼしよぼする、と云ふ。(氣で病んでるんだな)とテオは思ふが、口には出さない。
【ⅲ】
その日は、二人そこら邊で別れた。だが、事務所が閑(珍しい事に)なのをいゝ事に、テオは每日のやうに、池袋に通つた。テオが、母性的なものに飢ゑてゐる事は、説明したよね? テオは母なる者の顔を覺えてゐない。「をばさん」にその幻影を見たのかも知れない。
その度に、3時、目藥の時間が來た。それで今日は散會、と云ふ合圖のやうだつた。だが...
「あいた、痛い痛い」と「をばさん」が云ふ。目、だ。目藥のせゐ? すぐに公園の水飲み場で、流水を使つて洗浄させたが、時既に遅し。「をばさん」の目は白濁してゐた。「をばさん」は國民健康保険証は持つてゐた。テオが診察料を出し、眼醫者に通つたが、醫師は、「強力な酸でやられてゐる」と云ふ。
「をばさん、落胆するのは分かるけど、僕が着いてゐるからね」「あらあんた、忙しい身なんだろ? をばさんの事はいゝから、仕事に戻りなさい」「をばさん...」テオは半泣きの體。
「一體、だう云ふ事なんだ? 本当に目藥に強力な酸が混ざつてたつて...?」絶句するテオ。
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〈團子花醤油のたれを掛けたしと 涙次〉
【ⅳ】
「をばさん」の目は、テオの盡力があつても、良くはならなかつた。「運命、なのかねえ」「をばさん」首を傾げてゐる。テオは、事務所に帰ると(本当は夜も着いてゐてあげなくては、と思つてゐたのだけれど)PCに向かひ、「『盲目になる』『はぐれ【魔】』」と、取り敢へず惰性で、入力した。だが徒らに、惰性、などゝ云ふべきではない。ちやんとPC、愛機、と云つて良かつた、は答へを出してくれた。
「魔坐頭」-この【魔】は、目明きを憎む盲目の人たち(彼らに他意はなくとも)の怨念が寄り集まり、誕生した。そして、「をばさん」が寢てゐる間に、彼女の目藥に化學藥品を混ぜて、自分の「坐頭團」の配下にしてしまはう、と画策したのだ。
だが誰が、仕事料を出してくれる譯ぢやなし。かと云つて「私闘」は事務所ではご法度だ。だうすれば、いゝ?
【ⅴ】
思ひ余つてカンテラに相談した。すると...「テオ、幾ら出せる?」「取り敢へず五百萬ぐらいなら、印税から」あゝ、谷澤景六!! 人氣作家である事が、こんなに身に沁みて、良かつたと思へる事はない。然も「その内、四百萬、『をばさん』の施設入りに出してやんな、俺一人で濟むから、百(萬)、でいゝよ」。
「をばさん」の公園の仲間たちに協力を仰ひだ。目藥を彼らの荷物に、入れて置いて貰ふ。謂はゞ、餌、である。
夜、公園に「ちりん、ちりん」と鈴の音が。「魔坐頭」だ。目藥に化學藥品を混ぜに來たのだ。
「餌にかゝつたな、魔坐頭よ」見れば、杖が仕込み刀になつてゐる。坐頭市宜しく、剣を揮ふつて寸法。だが、カンテラに刀術で敵ふ者など、ゐはしない。「あんたも大變なんだらうが、人の目を何だと思つてる!?」カンテラ「しええええええいつ!!」
「をばさん」はテオの出した四百萬圓を元金に、生活保護も受けて、施設に入つた。「テオちやん、會ひに來るんぢやない、よ」「な、何を云ふ『をばさん』?」「會ひに來たら、居留守使ふからね、え~ん」「をばさん」別れの涙。テオは結局、面會はやめなかつた、つてさ。お母さん、誰しも慾しいものね。
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〈目の昏き母は母なれ夜明かし子に手袋を編む日々なりや 平手みき〉
手袋、は時期的に合はないか。まあいゝ。お仕舞ひ。