7・強面騎士団長、愛妻の窮地を救う
ボンネットは馬車の中にあった。
「あったわ!」
馬車は四人乗りの広めの造りなので、扉から手を伸ばしただけでは奥の座席まで手が届かない。
私は奥の座席に置かれたボンネットを取ろうと、ステップを踏んで車内に乗り込んだ。
その時。
──バタン!
なにっ!?
背後で物音がしたと思ったら、頭上にヌッと影がかかる。
「聖女様。あんた、なんてことしてくれたんだよ」
ガバッと振り返ると車内に乗り込んできたアンディノールが後ろ手に扉を閉め、ジリジリと私に迫っていた。
「っ、アンディノールさん!? ……どうしてここに!?」
「どうして? むしろ、僕が自分の家にいてなにが悪いのさ……いや、そういえばあんたのせいでここはもう僕の家じゃなくなっちゃたんだっけか」
「うそ。横領等へ関与が疑われる町長の親類縁者は連行されたんじゃ……?」
いくら広めとはいえ、ここは車内。アンディノールが二歩足を進め、私も二歩後退する。それだけで私は容易に壁際に追いやられ、背中が壁にぶつかた。
「僕は関与してないもの」
っ! なんてこと。
私は息子のアンディノールも連行されたものと疑っていなかった。そしてそれはレックスさんも同じだろう。彼もアンディノールの不在を同様に理解していたはず……。
どうしよう。少しマズいかもしれない。
「僕さ、あんたのこと可愛くて、いいなって思ってたんだ。それなのにこの仕打ちはあんまりだよ。僕はこれから、いったいどうやって暮らしていったらいいのさ」
アンディノールは直接犯罪には手を染めておらず、法的には罪に問われないのかもしれない。だけど私は、両親が不当に得た金銭で甘えきった生活をしていた彼もまた、一定の責任を負うべきだと思う。
これまで搾取してきた分、町の人たちのために尽くしてほしいと考えるのは傲慢なのだろうか。
「そんなのは、まっとうに働いたら──きゃあっ!?」
言葉の途中でアンディノールに体をグッと押し付けるようにして圧し掛かられ、思わず座席にへたり込む。
「ちょっ、やめてください! これ以上は人を呼びますよ!? 離れてください!」
「ねぇ、そのボンネットはお気に入りなの?」
「……え?」
突飛な質問に、一瞬虚をつかれて固まる。
「ここに来た時、大事そうに膝に抱いていたのが車窓越しに見えたよ。へへっ、それにそれ、ずいぶん使い込んでるだろう」
ハァハァと荒いアンディノールの鼻息が顔にかかり、咄嗟に顔を背ける。
「ちょっ!? 嫌ですってば!」
「頭部の当て布からさ、すごくいい匂いがしたよ。甘くって少し酸っぱいあんたの匂いに、僕は感動したよ。鼻を押し付けてそれ嗅いでたら、今までにないくらい滾って大変だったよ」
ヒィッ!! マズい! 真正の変態だ!!
これは助けを呼ばないと……! なんとか穏便にこの場をおさめられないかと思ったが、これはもうその段階を越えている!
現在、屋敷にいる護衛騎士はレックスさんを含めて三人。ここに来るまでにその姿は見えなかったけど、屋敷内を巡回しているはずだ。声さえ届けば、すぐに来てくれるはず。
私が意を決し大声を出そうとした瞬間、アンディノールにガバッと口を塞がれた。
「ッ!?」
一見細身に見えるのにアンディノールも男で、覆い被さって抑え込まれてしまうと身動きが取れない。
……ヤバい。
一気に恐怖で身が縮む。
私を見下ろすアンディノールの目が、獲物を見つけた肉食獣みたいにギラリと光る。
「あんたの匂いが染み込んだそれをおかずに何度も何度もシながらさ、ふと思ったんだ。本物のあんたはどれだけいい匂いがするんだろうって」
アンディノールが自分の体重で私を座面に押さえつけたまま、口を塞ぐのと逆の手をドレスの襟もとに伸ばす。
──ビィイイッ。
絹を裂く高く鋭い音が響く。ふわりと胸もとが緩み、肌に感じる外気の冷たさに震えた。
「っ!!」
恐怖で肌が粟立ち、ガチガチと歯の根が鳴る。
「わぁ、真っ白だ。こんなん見せられたら僕、ますます興奮しちゃうなぁ。なんだか新雪を踏みつける時みたいにゾクゾクする」
嫌だ、嫌だっ!! こんな奴に指一本だって触られたくない!
「へへっ、それじゃあさっそく」
アンディノールが舌なめずりしながら、胸もとに顔を寄せる。
っ!! ……怖い! 助けて、ラインフェルド様っ!!
生温い息が肌を撫で、ついにアンディノールのぬるついた舌先が──。
──バタンッ!!
肌に触れる直前、外から扉が開く。
「やめろ──っ!!」
ラインフェルド様の声が響き、直後、アンディノールが文字通り私の上から消える。
「ァガッ!!」
ラインフェルド様に車外へと投げ飛ばされ、地面にしたたかに体を打ち付けたアンディノールが呻きをあげる。
「フェリシア! 無事か!?」
ラインフェルド様が私に向き直る。
彼はドレスを破かれ、胸もとを露わにした私を見て一瞬悲痛に表情を歪めたが、すぐにマントを脱いで私の体を包んでくれる。
「もう大丈夫だ!」
「ラインフェルド様ぁ……っ!」
慎重に抱き起されながら、私は考えるよりも先、彼の胸の中に飛び込んでいた。彼は私をしっかりと抱きとめて、宝物を扱うみたいな丁寧さでマント越しの肩を撫でてくれる。
「安心していい、俺がいる。俺が来たからには、もう誰にも指一本たりと触れさせはしない。なにも怖いことはない」
「ぅううっ……」
低い声が、温かな手が、優しい眼差しが、彼が私に向ける全部全部が優しさと包容力に満ちていて。
絶対的な安堵に包まれながら、不安と恐怖に強張っていた心と体が溶けていく。堪えようと思うのに、嗚咽の声が漏れてしまう。
ひっくひっくと泣きながら縋りつく私の肩や背中を、ラインフェルド様はずっとあやすみたいに撫でてくれた。
……大きくて、温かい手。なんだか、すごく安心する。優しい手つきに身を委ねていたら、いつしか涙は止まっていた。
昂った心が落ち着いてくると、ふいに昔の出来事が思い出された。
……そういえば、前にも一度こんなふうに大きくて温かい手で励まされたことがあったっけ。
当時と今では状況がまるで違うし、あの時私たちを助けてくれた人は流れの旅人で誰とも知れない。なぜこのタイミングで思い出したのかは謎だけれど、もしかすると不安な心に圧倒的な安心感を与えてくれたという点が共通していたからかもしれない。それにあの時の旅の人も、ラインフェルド様と同じくらい大きくて温かい手をしていたから、きっとそのせいだろう。
「フェリシア様、ご無事ですか!?」
ここで、物音を聞き付けたレックスさんと他の護衛騎士が駆けてきた。
「き、騎士団長!?」
彼らは地面に転がるアンディノールと車内のラインフェルド様、そして彼の腕に抱かれた私の姿を見て目を丸くした。
「あやつはフェリシアに狼藉を働こうとした! 拘束し、屯所に突き出しておけ!!」
「ハッ!」
即座に護衛騎士ふたりがアンディノールを拘束し、私の目に触れぬよう配慮しながら引っ立てていく。
「っ、申し訳ございません! 護衛責任者として面目もございません」
私の護衛責任者のレックスさんはその場に片膝を突き、私たちに向けて深く頭を垂れた。
えっ!? 予想外の展開にびっくりして、思わず涙も止まる。
「ち、ちがっ──あっ!?」
咄嗟に「レックスさんは悪くないのだ」と声をあげかけたけれど、同じタイミングでラインフェルド様にひょいと抱き上げられて、驚いて口を噤んでしまう。
その隙にラインフェルド様は私を片腕に抱いたまま馬車を降り、レックスさんの前を素通りし館へと歩きだす。
「其方の責任の追及は王都に戻ってからだ。今は引き続き、館の警護にあたれ」
「ハッ!」
騎士団の最敬礼で低頭するレックスさんを残し、ラインフェルド様は振り返ることもなく、さっさと館に入っていった。
◇◇◇
男に口を塞がれて押さえつけられたフェリシアを視界に捉えた瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
犯人の男を殴り殺さずに耐えたことはほとんど奇跡といっていい。荒ぶる激情は今も胸に燻り、少しでも理性の箍を緩めれば犯人のもとに取って返し、縊り殺してしまい衝動に駆られる。
しかし、そんな怒りの感情と同じくらい、俺は恐怖も覚えていた。
己の命より大切な俺の宝……フェリシアが脅かされる光景は紛れもない恐怖であり、俺を震え上がらせた。いくつもの死闘を制し、生半可なことでは動じない俺の心臓が凍りついた。二十九年生きてきて初めてのことだった。
今も僅かにでも油断すると、フェリシアを抱き上げた腕が震えてしまいそうになる。それを意思の力で抑えつけ、ガラス細工を扱うより丁寧に抱えて客間がある二階に続く階段を上る。
「待ってください、ラインフェルド様! レックスさんは悪くないんです。なにかあれば声をかけてくれと言われていたのに、私が勝手な判断でひとりで庭に出てしまってっ」
必死に言い募るフェリシアを宥めるように、彼女の体重を支えているのと反対の手でポンポンと頭を撫でる。
「……分かっている」
彼女が不安げに俺を見る。涙は止まっていたけれど今も目は赤く、目尻には痛々しく泣いた痕が残っていた。
無意識に眉間に皺が寄った。
「君は、こんな時でも人の心配ばかりなのだな」
ついさっきあんな目に遭ったばかりだというのに、当たり前のように自分のことより他者を気にかける。そんな彼女に切ないような、歯がゆいような、なんともいえない思いが広がった。
「っ、ごめんなさい」
俺の表情になにを勘違いしたのか、彼女が腕の中で身を固くする。
……いかん。俺がフェリシアを怯えさせてどうする!
どうやら俺自身いまだ先ほどの衝撃を引き摺ってしまっているらしい。普段のように感情のコントロールがうまくいかない。
「違うんだ、俺は怒っているんじゃない。どうやら、俺もまだ動揺しているようだ。レックスの件は、悪いようにはしないから安心していい」
温和な表情を心がけ、できるだけ穏やかな声で伝える。
「よかった」
彼女は俺の言葉にホッとしたように、体の力みを解いた。
フェリシアにあてがわれた客間に入り、長ソファにそっと下ろす。
きっと彼女は肌を清めたいはずだ。まずは湯と着替えの用意。それと、なにか温かい飲み物を淹れてこよう。
今後の算段をつけた俺が、長ソファに身を凭れさせた彼女から離れようとしたら、騎士服の胸のあたりをキュッと掴んで引き止められた。
「フェリシア?」
俺は少し迷い、彼女の横に浅めに腰を下ろした。
「私はあの時、心の中であなたを呼んでいたんです。……だからあなたの声が聞こえた時は、一瞬、夢じゃないかって。……でも、あなたは本当に助けに来てくれてて……」
俯き加減で、フェリシアがぽつりぽつりと話しだす。途切れ途切れの心の吐露を痛ましく思いつつ、そっと彼女の背中をさすりながら、急かさず静かに耳を傾けた。
「……離婚したいだなんて伝えた後だから、捨て置かれてしまったって仕方ないのに。なのに、まさか本当に来てくれるなんて」
ここでフェリシアはバッと顔を上げ、真っ直ぐに俺の目を見て震える唇を開く。
「ラインフェルド様、私、あなたが助けに来てくれて嬉しかった!! 本当に、ありがとうございます……っ」
彼女のエメラルドの瞳から、珠を結んだ雫がホロホロとこぼれ落ちる。
透き通った宝石のようなそれを一滴だって無駄にするのが惜しく、気づいた時には眦に唇を寄せていた。
彼女は一瞬ビクンと肩を跳ねさせたが、特に嫌がる素振りはない。その反応を少し意外に思いつつ、内心の喜びは隠せなかった。背中を押されるように反対側も同じように啄んだ。
彼女はされるがままにしていたけれど、俺の唇が離れるや自分から俺の胸の中に飛び込んできた。
この瞬間。ここまで必死に取り繕ってきた平静の仮面が、無残にも剥がれ落ちた。
彼女の背中に回した手も無様に震えだした。湧き上がる感情は、もう隠すことが出来そうになかった。
「君が無事で本当によかった。君が男に押さえつけられていたあの光景は、俺にとって恐怖だった。そして俺は大切な君が傷つけられる恐怖に、今も震えが止まらないんだ」
腕の中でフェリシアが息をのむ。
「フェリシア、君は俺の大切な宝物だ。俺は君がなによりも愛おしい。君を離したくない……いや、君を手放すことなどできるはずがない。たとえ、どんなに君がそれを望んでも……俺はひどい男だな」
「待ってください! 今、私のことを宝物と、私を離したくないと、そうおっしゃいましたか? それは本当ですか!?」
彼女はひどく驚き、慌てている様子だった。
「本当だとも。白状すると、初めて言葉を交わした二年前から俺はずっと君に惹かれていたんだ」
「……二年前?」
もしかすると、これ以上浅ましく想いを告げることで、彼女の心が一層俺から離れていってしまうかもしれない。だが、想いを伝えずに後悔することだけはもう、したくなかった。
俺は覚悟を決めて口を開いた。