3・聖女と強面騎士団長の距離〔物理的〕
翌日。
私は屋敷の玄関先でラインフェルド様の見送りを受けていた。
「フェリシア、南はさらに暑い。道中、けっして無理はするな」
「はい、分かりました」
実は昨日の夕方、なんとか離婚を決断してもらおうと意気込む私のもとに浄化要請が入った。
王国最南端の町アレッポスが魔獣に水源を汚染され深刻な状況とのこと。さらに詳細を聞けば、河川を堰き止めて造った貯水湖が使い物にならず、住民は生活用水や飲料水の確保に困り切っているという。現地の緊急性を鑑み、翌早朝、現地に向けて出発することになった。
ちなみに私は、魔獣が出現したすべての場所を浄化して回っているわけではない。自然界には自浄作用があり、ほとんどの場合は自然の流れに任せている。私の浄化を必要とする重度の汚染は年二、三回といったところ。アレッポスの被害は、その重度に該当した。
そんなわけで急遽決まった旅の支度に追われ、結局昨日の夜は彼を説得するどころではなくなってしまった。朝も早いし、このまま彼と顔を合わせることも、会話することもなく、出立することになるだろうと思っていたのだが……。
「移動中は水分を多くとり、体調に気をつけろ。そうだ、革水筒は忘れず持っているな?」
「こまめに水を飲むようにします。革水筒は既に車内に運び入れています」
ところがひと晩明けてみると私の予想に反し、彼は日の出前にもかかわらず、当たり前のように見送りに立ってくれていた。正直、驚いた。
しかも彼は心配そうに眉尻を下げ、しきりに気遣う言葉をかけてくる。私を見下ろすブルーの瞳も真剣そのもので、その熱量に少し戸惑う。だって、これまでそんなふうに熱い眼差しを向けてきたことがあっただろうか。
この扱いの違いはなんなのか? ひと晩で生じた変化に、考えが追いつかない。
「そうか。それとフェリシア、よかったら日よけに被るといい」
彼は玄関ポーチから包みを取り上げると中から少し年代を感じさせるボンネットを取り出し、私に向かって差し出した。
「……それは!」
ボンネットは型こそやや古めかしいが繊細なレースで縁どられた洒落た意匠で、変色や型崩れもなく美しい。丁寧に保管されていたことが窺える。
私は以前、そのボンネットを王城に展示された国王一家の肖像画の中で見たことがあった。今は亡き王太后様──ラインフェルド様のお母様が被っていた物だった。
「どうした?」
なかなか受け取ろうとしない私に、ラインフェルド様が首を傾げる。
「いえ、大切なお品とお見受けします。私などがお借りするわけには……」
「おかしなことを言う。俺が君に使ってほしいから渡している。持っておけ。邪魔なら車内に置いておけばいいだけだ」
彼は淡々と答え、私の手にボンネットを握らせた。
「邪魔だなんてとんでもない! 大事にします」
嬉しくて、思わず手の中に飛び込んできたボンネットを抱きしめた。
そんな私の様子を見て彼は一瞬驚いたように目を瞠り、次いで蕩けるように微笑んだ。その瞳の甘さに、ドクンと胸が大きく跳ねた。
「それでフェリシア、昨日の件だが──」
──ヒヒィイン。
ラインフェルド様がなにか言いかけた。その声に馬の嘶きが重なる。
一瞬、ふたりの間を沈黙が支配する。
「フェリシア様、全隊員準備完了しています。馬車も万端で、いつでも出発できます」
「ありがとう! 今行くわ」
騎士団の第三部隊隊長で、私の浄化の旅の警護責任者を務めるレックスさんからの報告に頷いて答え、ラインフェルド様を見上げた。
「ラインフェルド様、すみませんがもう行かなくちゃ」
ラインフェルド様はなにかを堪えるように一度グッと唇を引き結び、ひとつ息を吐きだしてから口を開いた。
「……そうか。道中、体をいとうようにな。気をつけていってこい」
「はい、いってきます」
私は笑顔で答え、ラインフェルド様に背中を向けて馬車へと踏み出す。その時にほんの一瞬、視界の端を掠めた彼の表情にドキリとした。
「出立ー!」
私が馬車に乗り込むと、レックスさんの声を合図に部隊が動きだす。
あっという間にラインフェルド様が遠くなる。だけど実際の姿が見えなくなっても、私の脳裏には最後に見た彼の姿が鮮烈に焼き付いて離れない。
なんでだろう? ラインフェルド様はまるで置いてけぼりにされた幼子みたいに心細そうに見えた。彼が私に向けていたどこか不安げで、縋るような眼差しが、ひどく落ち着かない思いにさせた。
出発から七日目。
今も別れ際に見たラインフェルド様の表情が頭から離れない。
……彼は今頃、なにをしてるのかな。もしかしたら私が彼のことを考えている百分の一くらいでも、私のことを思ったりしてくれているかしら。
時間ばかり潤沢な移動中の車内。私はこんなふうに彼のことばかり思い返して過ごしていた。
おもむろに膝の上に視線を落とすと、彼から渡されたボンネットに目が留まる。
大事なお母様の形見をわざわざ貸してくれたのはどうしてだろう? ラインフェルド様の心が分からない。離婚目前の今になって、私のことをこうも気にかけるのはなぜだろう……いや、違う。
ここではたと自分自身の思い違いに気づく。……『今になって』というのは正しくない。彼は結婚当初から、ずっと私を気遣ってくれていた。
ただラインフェルド様はもともと職務柄多忙であった上に、結婚直後には陛下の指示で半年も諸外国の外交に出かけて屋敷を空けていた。やっと帰ってきたかと思えば、今度はすれ違うように私が浄化の依頼で屋敷を留守にする。私たち夫婦はそんなことの繰り返しだった。
振り返れば、私たちは一年間の結婚生活をほとんどすれ違いで過ごしている。夫婦として共に過ごす時間が圧倒的に少なかっただけで、けっして蔑ろにされていたわけではないのだ。むしろ帰宅後は必ず留守中に不便はなかったか聞いてくれたし、予定があえば彼から夕食に誘ってくれた。彼は十分に私を尊重してくれていたのだ。
それに、彼の熱い瞳もそう。見送りに立った彼の目に籠もった熱量に戸惑ったけれど、よくよく思い返してみると今までも熱量はあったのかもしれない。私自身、政略で娶らせてしまった後ろめたさがあって、彼を真正面から見返すことが難しかったのだから。
彼としっかり向き合うことから逃げていた……うん、これは私の反省点だ。
「……でも、やっぱりおかしいわ」
ボンネットのつばをそっと撫でながら独り言ちる。
ラインフェルド様が私を尊重してくれていたのは間違いないけど、なら政略で押し付けられただけの私をそこまで気にかけてくれたのはなぜなのか。大切な形見の品を渡すのは、お飾りの妻に対する行動としては明らかにやり過ぎだ。
「うぅーん、ラインフェルド様の考えが分からない」
結局のところ彼が私を妻として求めていなかったのは事実なので、思考はどこまでも堂々巡り。ぐるり回って、最終的には何度だって同じ疑問に行きつくのだ。
その時。
「フェリシア様、間もなくアレッポスの町長館に到着いたします」
騎馬で並走するレックスさんに車窓越しに声をかられて、居住まいを正して答える。
「はい。いつでも降りる準備はできてます」
物思いを中断し、差し迫る浄化へと意識を集中させた。
個人的な事情はさておき、聖女としての役目を蔑ろにする気はない。一刻も早くを浄化して、アレッポスの人たちを安心させてあげたかった。