2・聖女の秘密と強面騎士団長との結婚の経緯
書斎を出て、扉が閉まった瞬間、特大のため息が漏れた。
彼の為を思えばこそ、なけなしの勇気で離婚を切り出した。しかし、彼の答えは『時間がほしい』という、いわゆる保留。すんなり私の希望通りとはならなかった。
……真面目な人だから、王命による結婚の解消に踏み切れないのかもしれない。あるいは責任感から、若い私を出戻りにしてしまうことを気にしている可能性もある。
本当に不器用で、この上なく誠実な人……だからこそ私はなんとしたってこの政略結婚から彼を解放し、〝ヒロイン〟と幸せになって欲しいと願うのだ。
廊下の途中でなんとなく足を止め、天地に広がる窓の外に視線を向ける。そこには私の鬱々とした気分とは対照的な、雲ひとつない青空が広がっていた。
「あーあ、神様は意地悪だぁ。どうせなら私をヒロインにしてくれたらよかったのに」
実在するのかも知れぬ神様に向け、恨み節のひとつも出てしまうのは不可抗力。だって、ラインフェルド様は一カ月後の孤児院の創設記念日にヒロインと運命的な出会いを果たすことを私は〝知っている〟。
……そう。私はいわゆる転生者。前世の記憶があるのだ。
前世のことは、生まれた時から覚えていたわけじゃない。思い出したのは、彼と結婚する原因になった大怪我を負った一年前。私を腕に抱き、必死で私の名前を呼びかける〝彼〟を瞳に映しながら、唐突に日本で生きた二十二年間の記憶が蘇った。
ただでさえ生死にかかわる大怪我を負っていた私だが、その瞬間は怪我とは別の理由から心臓が止まりそうになった。私を腕に抱えているのが前世でハマった恋愛小説に登場する最推し、ラインフェルド・デアランブール公爵その人だったから。
ちなみに、小説内のラインフェルド様に既婚者という設定はなかった。ただし離婚歴については触れられていなかったから、離別したか死別したかは知れないがヒロインと出会う前に結婚していた時期があったのだろう。
いずれにせよ、政略妻である私の存在が彼の恋を阻むことなど万が一にもあってはならない。
彼が体面を保つために一年という結婚期間はどうしても必要だったから、残る期限は一カ月。なんとしても彼が運命の出会いを果たすまでに結婚を解消し、身綺麗にしておいてあげなければ。
それが彼に示せる唯一の愛であり、私を娶らせてしまった彼へのせめてもの誠意だから。
晴天を眺めながら、束の間、彼に私を娶らせる原因になった一年前のあの日に思いを馳せた──。
あの日は王家主催の狩猟大会が催されていた。私が狩猟に出た男性たちの成果を待ちながら、森の一角に設えられた観覧席でご婦人方と歓談している時だった。
『魔獣だ!! 魔獣が出たぞ!』
森の奥からあがった声に、周囲は騒然とした。
魔獣の出現は時と場所を選ばない。とはいえ、魔獣が王都──それも王城がある王領地内に出現するなど前代未聞。想定外の事態に狩猟場は大混乱に陥った。
『観覧席の方に向かっているぞ!』
続いてあがった声に、恐怖に駆られた参加者たちが我先に駆けだそうとする。
『落ち着け!』
阿鼻叫喚とかした場に、鋭い一喝が響く。
今日の狩猟大会の安全管理の責任者──王弟であり、王国騎士団の騎士団長を務める国内最強の武人でもあるラインフェルド様の声だった。ラインフェルド様は眼光鋭いブルーの目で参加者らを見渡して続ける。
『王国騎士団がこの場に防衛線を敷く! 散り散りになっては、魔獣が進路を変えた際に守り切れん! この場にあれば、我らが必ず守る! 命が惜しくば、全員この場に留まれ!!』
逃げ出そうとしていた全員の足が止まった。
要人警護を専門とする騎士団第三部隊の騎士たちが速やかに誘導をはじめ、参加者らは彼らの指示に従って一所に集まりだす。同時に、第一部隊が剣を手に観覧席の前に等間隔に立ち、参加者らを守る陣を張る。精鋭の第二部隊は、前方に向け弓を構えて魔獣の訪れに備えた。
組織だった一連の行動を先陣に立って指揮しているのは、もちろんラインフェルド様その人だ。見事な采配に、私は内心で唸った。
『陛下、王太子殿下、聖女様もお早くこちらへ! お三方の安全確保のため、〝防御の盾〟を用います!』
第三部隊隊長のレックスさんが国王陛下とフランソワ殿下、そして私を促す。レックスさんは私が浄化で地方に出向く際、いつも警護責任者として帯同してくれる顔馴染みだった。
そうして私は陛下と王太子殿下と共に、先代の〝防御の聖女〟が生前に加護を込めた〝防御の盾〟の後ろで身を寄せ合った。
この盾の後ろにいる限り、魔獣は私たちに一切手出しが出来ない。最強の守りだった。
もっとも先代聖女様が身罷ってから既に三十年。現存する〝防御の盾〟は片手の指の数ほどしかないと聞く。今回は緊急事態だから、ラインフェルド様の判断で使用されたのだろう。
そうこうしているうちに、ついに魔獣が観覧席の前方に姿を現した。
鋭い鉤爪のついた両前足を振り上げ、咆哮を上げながらこちらに迫るのは、体長三メートルほどのゴリラのような風体の魔獣だった。魔物としては小型だが、全身に赤黒い瘴気を纏わせたその姿は、邪悪のひと言に尽きた。
陣形を組んだ第一部隊の騎士たちが一歩前に進み出て、第二部隊は狙いをつけて弓を引き絞る。
幸いにも、魔獣は一体のみの単独出現。騎士たちの連携した動きを前に、このまま任せておけばきっと大丈夫だと安堵しかけた。
その時。
『ハッ! たった一体ではないか、大騒ぎしおってからに。一体の魔獣ごとき、私が成敗してくれる』
フランソワ殿下が好戦的な笑みを浮かべて、〝防御の盾〟の外へ踏み出す。
『殿下!? なにをなさいますか!?』
レックスさんが慌てて制止しようとするが、殿下はその手をひらりと躱し、腰の剣を抜きながら飛び出していく。
『フランソワ! 戻れ!!』
前衛にいたラインフェルド様が気づき、叫びながら殿下のもとに走る。しかし、ラインフェルド様のいた場所から殿下のところまでは百メートルほどの距離がある。
ラインフェルド様が数秒分の距離を詰めるより前に、不幸にも事態が動いた。
『ハハハッ、たかだか魔獣一体にやられる私ではないぞ! これこそ最高の狩猟だ! 私が一撃で倒し……ぅわぁああああっ!!』
フランソワ殿下の勇ましい声が、途中から恐怖の雄たけびに変わる。
突如、魔獣の纏う瘴気がブワッと何十倍にも膨れ上がったのだ。魔獣は周囲に瘴気をまき散らしながら電光石火の速さで殿下に迫る。
殿下が身につけていた金細工の宝飾品が原因だろうとすぐに分かった。魔獣が金に反応して凶暴化するのは、よく知られている情報だった。
殿下は抜き身の剣を構えることすらできぬまま、魔獣に背中を向けてこちらに駆け戻ろうとする。しかし無情にもその姿は、一瞬のうちに魔獣のまき散らす濃い瘴気に包み込まれて見えなくなってしまう。
目にした瞬間、考えるより先に体が動いていた。殿下のところまで、僅か数メートル。数歩で到達できる距離だった。
フランソワ殿下は、王位継承権第一位の尊い身の上。加えて彼は、私の婚約者でもある。放ってはおけなかった。
『聖女様なにを!? なりませんっ!!』
こういうのを火事場の馬鹿力というのだろうか。私は止めようとするレックスさんの手を振り切って駆け出していた。
霧散する瘴気それ自体が人体を蝕むことはないが、靄のように漂うそれは騎士たちの視界を妨げ、攻撃の手を止めさせる。騎士たちは万が一にもフランソワ殿下の身を損ねるわけにはいかないと、弓や長剣での攻撃を断念せざるを得なかったのだ。
ならば、接近戦で討つしか手はなかった。
『フェリシア!? なにをしている! 止まれ!!』
ラインフェルド様の悲痛な叫びを聞いたような気がしたが、極限に近い緊張状態にあってその声は一枚膜でも隔てているかのように遠い。
〝浄化の聖女〟は、魔獣に汚染された土や水に直接触れて浄化する。……試したことなんてない。だけど魔獣に触れれば、魔獣自体も浄化できるのではないかと、そう思い至った。
やることは単純だ。魔獣と殿下の間に体を滑らせるだけでいい。そうして魔獣が私に触れた瞬間に、ただ祈ればいいのだ。
おそらく浄化は成功する。そんな確信があった。
ただし、私自身がどうなるのかは少し自信がない。瘴気を纏った禍々しい魔獣の爪が私を裂き殺すのが先か、浄化により無に返すのが先か。一か八かの賭け。けれど、迷っている時間はなかった。
『フェリシアーーー!!』
私は瘴気の靄の中に飛び込み、殿下の前に体を割り込ませた。直後、魔獣の鋭い鉤爪が振り下ろされる。
……女神様! どうかご加護を!
右上腕に焼けつくような痛みを感じながら、私は必死に神に祈った。
それから、どれくらいが経っただろう。
きつく閉じていた瞼を開けて、まず視界に飛び込んだのは朧に霞んでいく魔獣の姿。目の前の魔獣は、今にも輪郭が空気に溶けて消えそうに薄くなっている。そんな魔獣の胴部には、陽光を受けてギラりと光る剣が突き刺さっていた。
……え? どういうこと?
剣は寸分のズレもなく腹の瘴気溜まりを貫通していた。
目線をさ迷わせて下に巡らせると、フランソワ殿下が地面に腰を抜かしていた。怪我はなさそうだった。……よかった。
今度は視線をゆるりと斜め上方に向ける。
『すぐに医者がくる!』
ラインフェルド様が横から私の体を支え、もう片方の手で魔獣の鉤爪で裂かれた上腕を強く握って圧迫止血しながら叫んでいた。
……あぁ、そうか。あの剣は、ラインフェルド様が繰り出したのか。
彼の剣は瘴気で視界が悪い中でも、僅かにも殿下を傷つけることなく、的確に魔獣の急所である瘴気溜まりを刺し貫いていた。私が出しゃばらずとも、ラインフェルド様の手によって魔獣は討たれたのだ。
どうやら私は騎士団長の実力を愚かにも読み違え、軽んじてしまったらしい。
なんて馬鹿な行動をしたんだろう。内心で、自分自身の馬鹿さ加減を自嘲した。
瞼がなぜか驚くくらいに重く、目を開けているのが辛い。
『フェリシア!? しっかりしろ!』
ここでふと、彼が聖女という呼称ではなく『フェリシア』と名前で呼んでいることに気づく。しかもその声には悲壮なほどの心痛が滲む。
彼を安心させたい一心で、僅かにでも油断すれば下がりそうになる瞼に力を篭めて目線を上げた。そうして私を覗き込む、彼のサファイアみたいな瞳と目が合った瞬間。
日本で生きた二十二年の記憶が奔流みたいに押し寄せて、私をのみ込んだ。蘇った膨大な記憶はある種の暴力のような衝撃をもって、ここまでなんとか細切れに繋いでいた意識を奪わんとする。
意思とは無関係に瞼が下がる。
『しっかりするんだっ、フェリシア!!』
実際の彼の声は、アニメで聞いたそれよりも重く、お腹の底にまで響く痺れるような低音だ。……ふふっ、こっちの方がずっと素敵。
それにラインフェルド様って、こんなふうに感情を露わにすることもあるのね。意外だわ。
小説の文章からのイメージだと、もっと何事にも動じない巌のような人だと思っていたけど、その熱さもまた素敵……そんな感想を抱いたのが最後。
私の意識はプツリと途切れた。
──意識が今に戻り、現状の理不尽さにグッと拳を握りしめる。
怪我と記憶を取り戻した衝撃から昏睡状態に陥った私が三日後に目覚めた時。婚約者はフランソワ殿下からラインフェルド様に変わっていた。
上腕に醜い傷跡を残した私との結婚を、フランソワ殿下が拒否したそうだ。そのため、殿下に代わってあの日の安全責任者であり、聖女と婚姻を結ぶのに身分的にも支障がない王弟、ラインフェルド様が王命により私の新たな婚約者になったのだ。
まさか私の浅はかな行動が、前世の推しにこんな理不尽を強いることになるなんて思ってもみなかった。いくらラインフェルド様が責任感の強い人だとはいえ、あまりに大きなお荷物を押し付けた恰好だ。
本音を言えば、彼との結婚に際してほんの少し期待して、『もしかしたら小説の展開とは違うルートを辿って、円満な夫婦になれるのではないか』そんな浮かれた気持ちを抱いたのも事実。けれど初夜の晩も一年間の結婚生活の中でも、彼が私を妻として求めてきたことは一度もなかった。押し付けられた政略妻なのだから当然のことで、そのことに落胆も不満もない。ただ私が彼にとって不要の妻だと改めて認識するには十分で……。
彼との離婚は身が千切れるように辛い。それは単に彼が前世の推しというだけじゃない。そもそも私は前世の記憶こそ思い出したけど、記憶はあくまで記憶。私にはフェリシアとして生きた十七年の人生があって、日本で推し活にすべてを捧げていたかつての私とは別の人格なのだ。
共に暮らす中でいろんな表情を見て、予想外の一面や意外な一面を知るにつけ、〝現実のラインフェルド様〟への想いが膨らんでいた。けれど、いつまでもなぁなぁのまま彼の優しさに甘えているわけにはいかない。
「ラインフェルド様、やっぱり大好きなあなたには最愛の人と幸せになって欲しい。だから後一カ月で、なんとしても離婚を了承してもらいます。お覚悟くださいませ……!」
握った拳を晴天の空に向かって突き上げながら、決意表明を叫んだ。