1・強面騎士団長、最愛の妻から離婚を切り出される
──コンコン。
俺が書斎で不在中に届いた手紙や報告書の確認をしていると、小さく扉が叩かれた。
「ラインフェルド様、フェリシアでございます。お話がございまして、少々お時間よろしいでしょうか」
扉越しに、鈴を鳴らしたような可愛らしい声が響く。
耳にした瞬間、十日間に渡る魔獣討伐の遠征で疲弊した心がふわりと綻び、疲れが一気に吹き飛んでいく。
「入ってくれ」
ゆっくり扉が開き、ひょっこりと姿を現したのは、俺の掌中の珠。
聖女の特徴である月光を紡いだような銀髪とエメラルドの瞳を持つ妖精もかくやという可憐な妻、フェリシアだ。
「失礼します」
フェリシアは足もとでドレープを描いてふわりと広がるシフォン地のドレスを翻し、腰まである艶やかな銀髪を揺らしながら俺のいる窓辺の執務机までやって来る。
反射的に立ち上がりかけたが、俺たちの身長差は五十センチと大きい。このまま座ったままでいた方が彼女と目線の高さが近いことに気づき、あえて席は立たずに先を促す。俺に頭ふたつ分も高い位置から見下ろされるより、この方がフェリシアも話しやすいに違いない。
「それで、話というのは?」
愛しい妻の一言一句を聞き逃さぬよう、しっかりとその目を見つめた。
緊張からだろうか、フェリシアが喉をひとつ鳴らす。嚥下の動きで細い首が小さく上下するのが分かった。真っ白な喉もとが妙に艶めかしく思えてしまい、体の内にぞくりとした焦燥と熱が溜まる。
……いかんな。色を覚えたてのほんの若造でもあるまいに。
湧きあがる衝動を内心で自嘲気味に笑う。俺は一年間の結婚生活の中で、何度この衝動をなけなしの理性で押さえつけてきたか知れない。
二十九歳の俺よりひと回り年下の妻は折れてしまいそうに華奢で、身長は俺の胸ほどまでしかない。対して俺は二メートルを超す身長で、筋肉の化け物のようないかつい体躯だ。さらに額から頬にかけて走る刀傷が凶悪さに拍車をかけていて、子供と目が合えば高確率で泣かれる。性格も長く軍事畑にあったせいで無骨で、けっして女性に好まれる質ではない。
そんな俺が無理に触れたら、彼女を壊してしまいそうで怖かった。だから、せめて彼女が俺への心の壁を無くし、受け入れてくれるまでは白い結婚を貫こうと己に誓っていた。
「その。実は私、そろそろ実家に戻らせていただこうと思っております」
遠慮がちに口にするフェリシアの顔色があまりよくない。もしかすると、王都の蒸し暑さが彼女の体力を削ぎ、健康を損ねているのかもしれない。華奢で繊細な彼女には無理もないことだ。
「ああ。そろそろ夏も盛りだからな。王都より涼しいお義父上の領地に避暑に行き、そちらでゆっくり過ごすのもいいだろう」
「いえ、避暑ではなく……」
俺の切り返しに、なぜかフェリシアが言い淀む。その唇が僅かに震えていた。
「どうした?」
フェリシアは俺の視線から逃げるように俯き、しばしの間を置いて顔を上げる。悲壮なほどの決意を湛えたエメラルドの瞳が、ひたと俺を見据えた。
「ラインフェルド様。どうか私と離婚してくださいませ」
鈍器で頭を打たれたかのような衝撃が走り抜ける。すぐには理解が追いつかず……いや、頭が理解するのを拒否しているのか、まるで思考が纏まらない。
「……離婚、だと?」
低く唸るように、彼女の言葉を反復するのがやっとだった。
「はい。一年前、愚かな行いによって、私はあなたを結婚という制約で縛り付けてしまいました。あれから一年。これをひとつの区切りとし、私という重荷を下ろしてあなたに自由になっていただきたいのです」
必死に言い募る彼女の声がどこか遠い。
俺の胸に絶望が暗雲のように広がっていく。
恥も外聞もかなぐり捨てて「そんなのは容認できん!」と叫びそうになる。「俺を捨てる気なのか!?」と問い詰め、その細い体に縋りつきたい衝動に駆られる。
それをギリリと拳を握りしめて抑え、なけなしの理性でもって告げる。
「……君の気持ちは分かった。少し時間がほしい」
彼女はずいぶんと俺に配慮した言い回しをしていたが、ひと回りも年上のむさ苦しい男とひとつ屋根の下結婚生活を送るのは、心休まらぬものであったのだろう。本音では一刻も早く離婚して自由になりたかったのを、心優しい人だから俺の体面を考慮して一年間凌いでくれたに違いない。
その献身に応える意味でも、早急に彼女を解放してやるべきだと理性の部分が訴える。だが、俺の心が到底了承できないと軋みをあげる。
結果的に無様な時間稼ぎだと承知しつつ、『時間がほしい』とそう口にするのがやっとだった。
「承知しました。お疲れのところ、お邪魔して申し訳ありませんでした。失礼いたします」
彼女はしずしずと頭を下げ、逃げるように書斎を後にする。
扉がパタンと閉まった瞬間、俺は歯噛みして天を仰いだ。
……どうしてこうなってしまったんだ。
尊い〝浄化の聖女〟でもある彼女のことは以前から見知っていた。そして二年前、町娘に扮したフェリシアと予想外の場所で会い、初めて言葉を交わした。
あの日、あの時。俺は、彼女の花が綻ぶような可憐な笑みと清らかな心根に、無性に惹かれた。
俺もマントを被って容色が分らぬようにしていたから、彼女はあの場所で俺と会い、話したことを認識すらしていないはず。しかしあれ以降、俺の心の奥深くには大切な記憶としてずっと彼女が居ついていた。
そんな彼女との結婚は、俺にとって人生最大の幸運であり、一生分の運でもって掴み取った僥倖だった。だが、彼女にとっては一年で解消を願いでるほど耐えがたく辛いもので……。
突きつけられたその落差が、俺の心を打ちのめした。