9・心と体で感じ合う夜
アレッポスの浄化を終えた私は、七日間の馬車旅を経て無事に帰宅した。
ちなみに帰路、ラインフェルド様は車内に同乗し、まるでこれまでの空白の時間を埋めるかのように常に寄り添い、片時たりと私の側を離れなかった。私たちはたくさん話をして、時に人目を忍んで口付けをした。そんなふうに過ごしている内に、あっという間に七日間が過ぎていた。
そうして、帰宅したその日の夜。
夕食を食べ終え、湯あみを済ませた後で、ラインフェルド様が私の寝室にやって来た。
この時の彼は、心を通じ合わせた日に宣言していた通り躊躇がなかった。もちろん優しい人だから、私への気遣いは十分にあるのだけれど。
彼の愛は蕩けるように甘く、そして容赦がない──。
私たちの寝室は扉一枚隔てて隣合っていたが、これまで一度としてその扉が開かれたことはなかった。その扉が初めて彼の手で開かれた。そうして彼は寝台の端に腰掛けた私を認めるや、きつく抱きしめて熱い口付けをしかけてきた。
「……んっ、ラインフェルド様」
彼は独占欲を隠さない。そのことが照れくさくも嬉しくて、私は必死になって彼に応えた。
「フェリシア……、愛している。もう二度と離さない」
柔らかさを味わうようにしっとりと重ねられた唇は、何度も角度を変えながら、段々と繋がりを深くしていく。
呼吸ごと奪うような口付けに、あっという間に息があがる。熱に浮かされたみたいに、心と体がふわふわした。縋る物を求め、彼の首に回した手にキュッと力を篭める。
「あ、ごめ……っ」
肌に爪を立ててしまったのに気づき、慌てて手を引っ込めようとしたら、手首を掴んで止められた。
「フッ、気にしなくていい。そのくらい痛くもなんともない、可愛いだけだ」
一旦口付けを解いたラインフェルド様は、それはそれは愛おしそうに笑う。柔らかなその笑顔に、私の目も心も釘付けになった。
「あっ!」
手首を掴んでいるのと逆の手が私の腰に回り、ふわっと体が浮き上がる。えっ?と思った次の瞬間には、私は寝台の上に仰向けに寝かされていた。パチパチと目を瞬いていると、ギシリと寝台が軋む。
気づいた時にはラインフェルド様が私に覆い被さっていて、色情をたたえたブルーの瞳のあまりの近さにドキリとした。
「んっ!?」
ラインフェルド様が私の首筋に顔を埋める。直後に、チリッとした痛みが走る。ビクンと肩を揺らすと、宥めるようにその箇所を舌で舐められた。
そのまま唇で軽く食んだり吸い上げたりしながら、彼は愛撫の位置を首から鎖骨へと徐々に下げていく。普段人に触れられることのない敏感な肌を唇で辿られるのは、ひどくこそばゆい。
そうこうしているうち、彼の手が胸もとから夜着の袷に入り込む。前を寛げて、肩から袖を滑らせる。同時に反対の手で腰の紐をシュルリと引かれれば、夜着は簡単にはだけて寝台に落ちた。
夜間用のランプの光源に照らされた室内に、ショーツ一枚だけを身に着けた自分の体が浮かびあがる。
頭上で息をのむ気配がして、大きな手がささやかな膨らみにに伸びてくる。その手が触れる直前、私は反射的に自分の両手で胸を隠して身を捩っていた。
「や……っ!」
咄嗟に口を衝いて出た否定の言葉に、彼の手がビクンと動きを止める。
「俺に触れられるのは嫌か?」
ラインフェルド様が困ったように、そして少し悲しげに問う。
「っ、ちが……そうじゃなくて、私の体がラインフェルド様をガッカリさせてしまうから……だから、明かりを消してほしくてっ」
私は慌てて首を横に振り、切れ切れに訴える。
「フェリシア? ガッカリとはいったいなにを……ああ、もしかして腕の傷のことを言っているのか?」
彼は怪訝そうに眉根を寄せ、しかし途中ではたと思い至ったように私の右腕に視線を向けた。
たしかに、私の右上腕には傷跡がある。王太子殿下がそれを厭って婚約を破棄するくらいには、醜い痕となって残っている。けれど、私の憂慮はそれではなくて。
「心配するな。君が心と体に負った傷を痛ましく思いこそすれ、傷跡それ自体について思うところはなにもない。この傷跡も含めて、俺は君が愛おしい」
私の憂いとは別の角度からの言葉ではあったが、彼の優しさは心に染みた。
「腕の傷のこと、そんなふうに言っていただけて嬉しいです」
「それはよかった」
彼は露わになっている腕の傷跡に、恭しく口付けた。
「でも、やはり明かりは消していただいた方が……。その方が、あなたを困らせないで済むと思うので」
私は聖女として地方を回る機会も多かった。地方の宿場では、王城内では絶対に聞こえてこない男性たちの明け透けな話を耳にしてしまうこともあった。
その中には、相手の女性が凹凸に乏しくてその気になれなかったというものもあり……。思わず自分の胸もとに目線を落とし、ため息を零してしまうのも不可抗力というものだ。
「俺が困るとはどういう意味だ?」
もちろん、ラインフェルド様の愛を疑ってなどいない。ただ、今世で聞き齧った猥談に加え、私には前世の知識もあるわけで……。
愛情と肉欲とは、きっと別なのだろうなと冷静な部分で思っていたりもする。こんなところばっかり耳年増で嫌になっちゃうけど、仕方ない。
「これまでラインフェルド様が一切触れようとしなかったのは、私に魅力を感じていなかったからですよね……あ。けっしてあなたの愛情を疑っているわけではありませんから、その点は勘違いしないでくださいませ。ただ、事実私は女性らしさとは無縁の貧相な体ですから、わざわざ見る必要がないと──」
「馬鹿な! 俺がどれだけの忍耐と理性でもって、劣情を押さえてきたと思っているんだ!? 君を組み敷いて柔らかな肌を暴き、その細い体に俺を刻みつけたいと何度思ったかしれんぞ」
一瞬でボンッと頬に朱が上る。
「えぇえっ!?」
これまでラインフェルド様は、いっそ完璧なほど紳士的な態度を崩さなかった。そんな彼から初めて突きつけられた生々しい男性の欲望に慄く。
「俺たちの結婚は政略で決まったものだったし、君はまだ年若い。君のペースに合わせようと必死だったんだ。それをまさか、言うに事欠いて『魅力がない』? さらには『見る必要がない』だと?」
ラインフェルド様が、まるで苦虫でも噛み潰したようにギリリと顔を歪める。
「いえ、その……」
ラインフェルド様の強面には十分耐性がある私だが、彼が放つ憤りが前面のオーラにたじたじになる。
「君はもっと自分の価値を知るべきだ。そして君にそれが分からんのなら、夫である俺が君の魅力にどれほど溺れているか教えてやらねばならんな」
「あっ!」
彼はその言葉通りまるで知らしめるかのように、顔と言わず体と言わず私の全身を甘やかに撫で、口付けて愛を伝えていく。私は彼に与えられる愛撫に蕩かされ、すぐにまともに物を考えることができなくなってしまう。
「……フェリシア」
すっかり身も心もとろんとなっていたら、彼の熱の籠もった愛おしげな呼び声が耳を打つ。声の方に目線を向ければ、いつの間にか夜着を脱ぎ払い生まれたままの姿になった彼が、ちょうど私に覆い被さってくるところだった。
鍛え抜かれた彼の体。目にした瞬間、思わず息をのんだ。
彼は私に重さを掛けないように片腕で自重を支え、空いたもう片方の手で汗で額に張り付いた髪を優しく撫でてくれる。
「まだ、痛みますか?」
私の問いかけに、ラインフェルド様は一瞬手を止めて怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに思い至ったようだった。
「ああ、傷のことか。どれも古傷だから痛みはしない。見苦しくてすまない」
彼の肌には刃傷の引き攣れが何本も走っていた。しかも、それらの傷は私の腕のそれよりももっと重傷のものばかりだった。
「体を張って私たち国民を守ってくれた名誉の負傷が見苦しいわけがありません。逞しくて、とても素敵だと思います」
肩口に残る傷跡をそっと指先で辿りながら告げたら、彼は驚いたように目を丸くした。
「素敵、か。初めて言われたな」
「あら。それは皆さん、絶望的に見る目がありませんね。さっきのあなたの言葉をなぞらえるわけではないのですが、私もあなたが『傷跡も含めて愛おしい』です。痛みがないならよかった」
私がわざと悪戯めかして言えば、彼はまろやかに目を細め、私の頬に、額に、そして唇にと顔中に優しいキスを降らせた。
「んっ」
最後に少し深めに唇を合わせ、そっと口付けが解かれた。
「フェリシア……いいか?」
熱を孕んだ瞳で問われ、私はコクンと首を縦に振った。
未知への恐怖と触れ合う肌の温もりに感じる幸せ。この先の行為への期待や興奮も。あらゆる思いがない交ぜになって、胸がバクバクと張り裂けそうな大きさで鳴っていた。
「できるだけゆっくりする。辛かったら言ってくれ」
もしかしたら、彼には私のちょっとの強がりもお見通しなのかもしれない。だけど少しくらい無理を押したって、ふたりでこの先に進みたいと望んでしまったから。
ラインフェルド様に望まれて嬉しくて、私もまた彼の全部がほしいと望んでいる。彼と身も心ももっと深く重なり合って、ひとつになって溶け合ってしまいたい──。
「……あぁっ!」
そこから先は、まるで奔流にのみ込まれてしまったかのようだった。私は彼の肩にしがみ付き、彼がくれるすべての感覚に必死で応えた。
彼の下で揺さぶられ、翻弄され、何度となく爪先でシーツを蹴った。
夜の静寂に、私の唇から漏れるあえかな喘ぎと彼の息づかいがまじり合う。魂までひとつになるように深く重なり合い、全身から愛おしさが迸る。
最後の瞬間は、ひしと抱き合いながら彼が起こした真っ白な波に押し上げられて、これ以上ない高みへと駆け上る。
快感と興奮の残響は一向に引いていく気配がない。私たちは固く抱き合ったまま、同じ頂に上った感動に酔いしれた。
「フェリシア、愛してる」
「私も、愛してます」
どちらからともなく、そっと唇を寄せ合った。
「……フェリシア?」
とろんと瞼を重くする私に気づいた彼が、情交の熱を残す掠れた声で呼びかける。
「ごめんなさい……、なんだか少し……眠く……って」
初めての行為に疲れ切った体は、もう指の一本だって動かすのが億劫な状態になっていて。
「後のことは俺に任せて、このままゆっくりお休み。最後まで受け入れてくれてありがとう。愛しているよ」
少しでも油断すれば目を閉じてしまいそうになるのを堪えていたら、蕩けるように囁かれた。
ラインフェルド様が大きな手で優しく頬を撫で、額にそっと口付ける。
「……ん、私も」
私も彼に愛を囁き返したつもりだけれど、果たしてちゃんと言葉になっていたのかどうか少し自信がない。閉じた瞼の上に、柔らかな温もりを感じたのが記憶の最後。
私の意識は、幸福な微睡みに溶けた──。




