夏のゆきおんな、冬への帰り道
「あぢぃ……」
大学からの帰り道だった。家まで近いので徒歩だが、暑すぎて何度も途中で喫茶店にでも入りたくなってしまう。
髪が額や頬に汗で貼りついて気持ち悪い。ウォータープルーフのファンデーションがいとも容易く汗で流れ落ちるほどの暑さだった。真夏の女の子は薄着になるからいいとか言うやつに、このみっともないあたしを見せつけてやりたいほどの不快指数だ。
「あの……」
ふいに地面のほうから女の人の声がした。
「ちょっと……いいでしょうか」
キョロキョロしたが、周りには誰もいない。アスファルトの上にドライアイスか何かの小さなかたまりが落ちてるだけだ。
空耳かな? と思いながらあたしが再び歩き出そうとすると、また地面のほうから声がした。
「わたくし、ここにおります。雪女なんです。こんなに小さくなってしまいましたが……」
見るとドライアイスの小さなかけらみたいなものに鎌倉の穴みたいなものが開いていて、それが口のように動き、言葉を発していた。
あたし暑さで頭がおかしくなっちゃったかな? そう考えながらみたび歩き出そうとすると、切実な声で引き止められた。
「お願いです! このままではわたくし、暑さに溶かされて消えてしまいます! 助けてください!」
そう言われるとほっとくわけにもいかない気がした。
蹴ったらすぐにバラバラになって溶けてしまいそうな小さなかたまりだったけど、どうやら生きているようだ。雪女に対する愛も義理もないけど、命あるものは大切にしなきゃ。しかも言葉を喋る。人格があるんだ。
「雪女なんですか?」
あたしはしゃがみ込み、ドライアイスさんと会話した。
「なんでこんな真夏の人間の町に?」
「ずっと住んでいた冷凍倉庫が倒産して、路頭に迷ってしまったんです。倉庫の冷凍装置が止まってしまって……」
「それは大変ですね……」
あたしは目の前にいるものの話を信じざるをえなかった。
「……で、どう助けましょう?」
「冬はどちらでしょうか?」
ドライアイスさんは、言った。
「冬への帰り道を探しているのです」
「冬は方角ではありませんよ。季節です」
そう言って、あたしは北を指さした。
「でもあっちのほうへ行けば、だんだんとは涼しくなるとは思いますよ」
「もう……歩けないのです。身体が溶けてしまって……」
「この暑さですからね。むしろまだ溶けきってないのが不思議です」
「最後の妖力を使って溶けきるのを防いでいるのです。でも……、もう、もたない……」
「とりあえずウチ来ます?」
あたしは『ぴえピタシート』を取り出しながら、提案した。
「ウチ、スーパーマーケットなんで」
ウチのスーパーマーケットの売り場裏に大型の冷凍庫がある。人間一人が軽々入れるほどの容量がある。カチカチに凍ったマグロやブリが入ったその中に、あたしは『ぴえピタシート』に乗せて持って帰った、小さなドライアイスさんを入れた。
「ありがとうございます! これで……ああ……! 生き返る気持ちがします!」
カッチカチのマグロの頭に乗って、口みたいな穴だけ動かして礼を言う雪女さんに、あたしはにっこり笑ってあげた。
「ここに住みます? お父さんに見つかったらなんて言われるかだけど……隅っこのほうにいたら大丈夫かもですよ。たまに霜取りをしますけど、その時は教えますから、冷凍マグロの口の中にでも退避してください」
しかし、そうは行かなかった……。
あたしがレジを手伝ってると、大型冷凍庫のある店舗裏のほうから、お父さんの大きな声がした。
「だ……、誰だアンタ!? なんでこんなところに寝てんだ!?」
急いで行ってみると、雪女さんが随分と大きくなっていた。もうドライアイスの一かけらじゃなく、完全にその姿を取り戻していた。
白い着物姿の美人な女の人だった。彼女は冷凍庫の中からゆっくりと立ち上がると、ぺこりとお父さんに向かってお辞儀をした。
「どうも。娘さんに助けていただいた雪女です」
「なるほど……。事情はわかった」
さすがはあたしのお父さん。娘に似て、雪女の存在を怖がるよりも、命あるものを大切にすることを優先した。
「だが……、見ての通り、ウチの大型冷凍庫はアンタには狭い。残念だが、ウチで養ってあげることは出来ねぇな」
「ご迷惑はおかけしません」
雪女さんが何度目かのお辞儀をぺこりとした。
「この姿を取り戻せたので、また数刻は動くことが出来ます。自分で冬への帰り道を探してみます。ありがとうございました」
「いや……、外の暑さ、知ってるでしょ?」
出て行こうとする彼女を、あたしは止めた。
「一瞬で溶けちゃうよ?」
「おい、夏菜子」
お父さんがあたしの名前を呼んだ。
「おまえ、友達に冷凍倉庫持ってるやつがいるとか話してたことなかったか?」
「あっ、そうだ!」
なぜすぐに思い出さなかったんだろう。あたしはぽん!とてのひらを拳で叩いた。
「雪女だと?」
雄太郎がいつも険しいその顔の眉間にさらに険しいシワを寄せた。
「うん。日本の夏が暑くなりすぎちゃって、外にいたらあっという間に溶けちゃうの。雄太郎のお父さんの冷凍倉庫に住まわせてあげてくれない?」
木陰だらけの公園でも暑かった。あたしは雄太郎にカルピスウォーターのペットボトルを持たせると、手を合わせた。
「ねっ? お願い!」
「その雪女とやらは……」
雄太郎が黒ぶちメガネをクイッと指で上げながら、言う。
「おまえが義理のある相手なのか?」
「ううん? なんにもないよ?」
「なら、なぜ助ける?」
「だって命あるものは大切にしなきゃ」
あたしは力説した。
「しかも最初はドライアイスだったけど、今じゃ人間の姿をしてるんだよ? 助けてあげたいじゃん」
「ウム……。それでこそ俺が惚れた女だ」
「なんて?」
「いやなんでもない。ところでそれは本物の雪女なのか?」
「会いに来てよ」
雄太郎の頼もしいシャツの袖をあたしは摘んだ。
「ウチの裏のお魚入れる大型冷凍庫の中にいるから」
「お初にお目にかかります」
雪女さんは冷凍庫の中からむっくりと起き上がると、綺麗に正座して、雄太郎に挨拶をした。
「雪女の『ゆきこ』と申します」
「夏菜子の学友の黒田雄太郎です」
雄太郎もぺこりとお辞儀を返す。
「このたびは……大変な目に遭われたそうで」
「あっ。あたしも自己紹介してなかった」
思い至って、名乗った。
「千田夏菜子です。よろしく、ゆきこさん」
「大変お綺麗な雪女さんで、びっくりしました」
雄太郎が真顔で言った。
「夏菜子の前ではその美しさも霞んでしまいますが……」
「なんて?」
「いや、なんでもない」
「仲がおよろしいんですね」
ゆきこさんが綺麗な顔を笑わせた。
「その熱でわたくし、溶けてしまいそう」
ゆきこさんは雄太郎のお父さんの経営する冷凍倉庫で働き出した。雪に姿を変えれば気づかれずに住み着けるそうなんだけど、あたしと雄太郎にお礼がしたいと言って、アルバイトをする形になったのだった。
「ゆきこさん!」
冬用のジャンパーを着て倉庫の中に入るとすぐに彼女の姿を見つけ、あたしは手を振った。
「お弁当持ってきましたよ。一緒に食べましょ!」
「俺のもあるか?」
寒さで赤い顔をした雄太郎が、横から出てきて聞いた。
「ないけど……よかったらあたしのぶん、一緒に分けて食べる?」
「願ったり叶ったりだ」
険しい顔を笑わせる雄太郎がちょっと怖かった。
三人でクーラーの効いた休憩室で、あたしが作ってきたお弁当を食べた。
ゆきこさんはところてんが大好きなので、ところてん弁当。あたしは唐揚げ弁当を雄太郎と分けて食べた。
「それにしても、雪女というのは、人間を驚かせたり、あるいは凍らせて殺すものではないのですか?」
雄太郎がゆきこさんに聞いた。
「いつから人間社会に馴染まれたので?」
「人間の愛を知ったからですわ」
夏用の作業着姿のゆきこさんが懐かしそうに微笑む。
「初めてわたくしが人間の愛を知ったのはおよそ三百年前……。茂平さんという方と愛し合い、娘まで儲けたのですよ」
あたしは身を乗り出した。
「わあっ! 人間と妖怪、種族を越えた恋バナ聞きたい!」
「ところが人間の寿命は短く、茂平さんはわたくしより先にあの世へ行ってしまいました」
遠いところを見つめながら、ゆきこさんは語った。
「あの方を失ってからというもの……娘がその夫と始めた氷店で暮らしておりましたが……半妖の娘は百年しか生きられず、娘の子孫が昭和の世に冷凍倉庫を始めた折に、そこにひっそりと、孤独に身を潜めて生きていたのですが……」
「冷凍倉庫……潰れちゃったんですね?」
雄太郎に残りの唐揚げ弁当を渡しながら、労るように、あたしは言った。
「ええ……。異常なほどの夏の暑さに、電気代がとんでもなく増えてしまったとかで」
ゆきこさんはそう言って、首を傾げた。
「それにしてもなぜ、近年ここまで夏が暑くなってしまったのでしょう?」
あたしも雄太郎も黙り込んでしまった。人間が自然を破壊して、温室効果でこうなったなんて知ったら、ゆきこさんの人間への愛が壊れてしまうかもしれない。
「わたくしの産まれ育った山も、冬にあまり雪も降らなくなってしまいました。わたくしはどこに行けばいいのでしょう? 冬への帰り道はどちらにあるのでしょう?」
「北海道も夏は暑いって……知り合いの一布さんが言ってたし」
あたしは雄太郎に意見を求めた。
「ゆきこさん、どこに行ったら安住できるかな?」
「ウーム……。富士山頂でも20℃近くあるらしいしな」
雄太郎は腕を組み、知識を語った。
「グリーンランドか南極大陸へでも行くしか……」
「外国はだめでしょ。ゆきこさん、日本の妖怪なんだから」
「しかし……もしかしたらゆきこさんの妖力で南極の氷が溶けるのをなんとかしてもらえるかもしれないぞ」
「そんなゆきこさんを地球のための人柱にするような……!」
あたしが睨むと、雄太郎がなんだか悲しそうな顔をした。
「いっ……今のは冗談だ! 俺を嫌いにならないでくれ!」
ぷっ、とゆきこさんが吹き出した。
「やっぱり仲がおよろしいこと。お二人を見ているとますます人間のことが好きになります」
そう言って、あたしが作ってきたところてん弁当をツルッと口に入れた。生姜醤油をかけたところてんにカチカチにした冷ごはん、タッパーには黒蜜をたっぷりかけたところてん。ゆきこさんはこれが大好きだ。
それからしばらくしたある夜、あたしのスマホに雄太郎から電話がかかってきた。
「夏菜子! 大変だ! ゆきこさんが……!」
急いで冷凍倉庫に行ってみると、ゆきこさんがスチール棚の下に入り込んでガチガチ震えていた。
「知ってしまったの? ゆきこさん」
あたしは雄太郎に聞いた。
「地球の温暖化は人間が原因だってこと……」
「ああ。うっかりテレビを見せてしまった」
雄太郎がうなずく。
「森林伐採による二酸化炭素の吸収が減ったことや、工場からの排出ガスが主な原因だと、丁寧に池上彰さんが解説してくれたよ」
「人間は……やはり……愛してはいけないものなの?」
ガチガチと歯を合わせながら、ゆきこさんが呟いていた。
「わたくしから冬を奪ったのは人間……。にっくき人間なの?」
「ごめんなさい、ゆきこさん」
あたしは土下座して謝った。
「ゆきこさんが知ったらこうなると思って……黙ってました。ゆきこさんから冬を奪い、夏を地獄にしてしまったのは私達人間です。ゆきこさんの気が済むようにしてください」
ゆきこさんがあたしのほうを横目で見た。
その目は産まれたばかりの子猫みたいに曇ってて、今にもシャアッ!と威嚇しそうで──でもあたしを見るなりそれが晴れていった。
エメラルドみたいに綺麗になった瞳をにっこり笑わせると、ゆきこさんは言った。
「でも……そうね。夏菜子ちゃんやお父さん、雄太郎さんにはこんなによくしてもらってるんだから、信じなきゃよね」
「すみません、ゆきこさん」
雄太郎があたしの肩を後ろから抱いて、言った。
「僕ら人間は罪深い。だが、愛の力で必ずなんとかしますんで」
肩に置かれたその手を振り払おうとすると、いきなり抱きしめられた。
「ちょっ……! 雄太郎!?」
「夏菜子、好きだ。結婚してくれ」
寒い倉庫の中で、雄太郎の熱い吐息が首筋にかかった。
「そして二人の愛の力でゆきこさんをなんとかしてあげよう」
雄太郎とはただの大学の友達のつもりだったけど、なんか力技で押し切られて、結婚することになった。
雄太郎はあたしとゆきこさんのために一生懸命勉強して、政治家になった。
「将来俺は絶対に環境大臣になってみせる」
三人で住むマンションの部屋で、雄太郎は拳を握り、あたしとゆきこさんに誓った。
「そしてゆきこさんのために冬への帰り道を拓き、夏菜子には自慢の夫だと笑ってほしいんだ!」
「そうね」
ゆきこさんが笑う。
「わたくしも早くここを出て行って、熱々なお二人の邪魔にならないようにしないと」
「やだよ。ゆきこさんと離れたくなんかない」
あたしは彼女に正面から抱きついた。
「雄太郎と二人きりより、ゆきこさんがいてくれたほうが……つめたっ!」
ゆきこさんの氷点下の体温に思わずのけぞってしまった。
冬だった。
夜空に浮かぶ凛とした三日月を見上げながら、ゆきこさんがベランダに立っていた。
「今はゆきこさんには過ごしやすくていいよね」
声をかけながら、その後ろからあたしは近づいた。
「夏になったらまた大変だけど」
「雄太郎さんって、本当にいい人ね」
三日月を見つめたまま、ゆきこさんは言った。
「わたくし、昔は雪山で、何人もの人間の命を奪ってきたのよ」
その言い方に少しビビったけど、これはあたしの友達のゆきこさんだ。にっこり笑ってあげた。
「昔は昔だよ。昔の人はエッサッサだから……」
「そんな、人間を苦しめてきた厳しい自然現象のようなわたくしのために、地球をなんとかしようなんて……。頭が下がってしまうわ」
「頭を下げるのはあたしたちのほう」
そう言って、あたしは頭を下げた。
「ごめんなさい。ゆきこさんの住みにくい地球にしてしまって……」
「いいのよ。あなたたち人間が地球をこうしたのも自然な行いだったのよ。なんとかしなければ自然はあなたたちを殺していたもの。あなたたち毛のないお猿さんは、自然をなんとか自分たちに適合するものに変えようと頑張ってきたんだわ。そして今は、それを済まなく思ってくれて、わたくしたちを守ろうとしてくれている」
「どうかな……」
あたしも一緒に三日月を見上げながら、言った。
「それもたぶん、人間のためだよ。自然のためじゃない」
「だから雄太郎さんは立派なのよ」
ゆきこさんが、くすっと笑った。
「わたくしのことなんてどうでもいいはずなのに、ただの行きずりの雪女のために頑張ってくれてるでしょ」
「あっ。それも絶対、ゆきこさんのためっていうより、あたしのためだよ。あたしにいいとこ見せて、尊敬できる夫だって思われたいから……」
「それでいいんだと思うわ」
また、くすっと笑われた。
「わたくしたち妖怪にはない力よ、それ。自分の欲しいもののために力を尽くすなんて。わたくしたち妖怪は基本、たまたま何かをするだけだから。たまたまそこに遭難した人間がいたら、冷気を吹き入れて凍らせる。たまたま人間の愛を知ったら、人間を好きになる」
「あたしがゆきこさんを助けたのもたまたまだよ?」
「『命あるものは大切にしなきゃ』って言ってたでしょう? 夏菜ちゃんはたまたまの気まぐれでわたくしを助けたんじゃなくて、自分のその信念が大事だから、そうしたのよ」
なんか褒められた気がしたので、照れくさくて三日月から目が離せなかった。
「わたくし、故郷の山に帰るわ」
ゆきこさんがそう言ったので、急いで振り向くと、そこに彼女の姿はなくなっていた。
冷たい風に乗って彼女の声だけが聞こえた。
「あなたたちの側にいると熱いんだもの。冷たいわたくしがいつまでも一緒に居候しているわけには行かないわ」
「まっ……! 待って! ゆきこさん!」
あたしは必死に引き留めようとした。
「今の季節はいいけど……夏になったらまた冬への帰り道を探さないといけないよ!?」
「昔にも夏はあったもの。大丈夫よ」
「でも……! 現代の夏は……!」
ゆきこさんの気配がなくなった。
ゆきこさんの故郷がどこなのか、知らない。
雄太郎に彼女が帰ってしまったことを伝えると、「そうか」とただ一言呟いて、うなだれた。そして顔を上げると、いつものように拳を握りしめた。
「俺たちを結びつけてくれたゆきこさんのために、引き続き俺は頑張る! 地球の温暖化を止めてみせるぞ!」
「あたしにも手伝えることがあれば言って!」
雄太郎が言う通り、いつの間にかゆきこさんは、あたしたちを強く結びつけていた。
ゆきこさんを救いたい──そんな気持ちで、あたしたち夫婦はひとつになっていた。
「俺が、地球を、幸せにする!」
「あたしも手伝うっ!」