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短編

あやかし夫(予定)の溺愛~真夏の雪

作者: 澤谷弥

 ばっちりと出た赤い二本の線を見て、いつもより大きく瞬きをしてしまったのは、信じたくないという気持ちがあったからだろう。


「マジか……」


 自宅の洋式トイレに座っているけれど、妊娠検査薬を片手に、大きくため息をついてしまった。


 心当たりは、ある。

 間違いなく、あの日。あの時のあの男。


 だからこそ、つい「マジか……」と声が漏れてしまうのだ。


 ――産む? ()ろす?


 中絶するにしても、相手の同意が欲しいと聞いたことがある。となればもう一度、あの男と話をしなければならないだろう。


「マジかぁ~」


 もう、何度口にしたかわからない。いや、だってもう、信じたくないから。


 やっと重い腰をあげトイレから出ると、くっきり二本線が出ている検査薬を、ぽいっとごみ箱へと投げ捨てた。

 それから、スマホを手にして、あの男に連絡をした。


◇◆◇◆ ◇◆◇◆


 テレビの天気予報では、昨年より三日早い梅雨入りだと言っていた。


 このバンザイ測量機器メーカーの品質管理部で働く私は、畑中(はたなか)珠美(たまみ)、25歳。大学卒業後、ここで働き始めてやっと3年目。まだ、ぎりぎり第二新卒と呼べるので、転職するならいまのうち。

 壁にかかっている時計を見上げて、小さく息を吐く。


 ――あと、十分。


 あと十分で、定時のチャイムが鳴る。就業時間終了のお知らせのチャイム。


 今日の定時後、私は彼と会う約束をしていた。

 会社近くのコーヒーショップでも良かったのだけれど、知り合いに見られると面倒くさいなという思いもあった。すると、機転を利かせた彼が、個室の居酒屋を予約してくれた。

 居酒屋であれば、知り合いに見られたとしても、なんとでも言い訳ができる。


 キーンコーン、カーンコーン――。


 チャイムって、どうしてこのような音なのだろう。小学校から同じようなチャイム音を何年も耳にしている。

 その音と同時にパソコンの電源を落とし、机の中から鞄を取り出すと、急いで席を立つ。


「お先に失礼します」

「お疲れ~」


 嫌味が飛んでこなかったことに、ほっと胸を撫でおろして、更衣室へと向かう。


「おつかれさまです」

「お疲れ様です」


 定時で帰る人間はこれだけいるというのに、定時で帰ろうとすると文句が飛んでくるのはなぜなのか。

 急いで着替えた私は、あの男との約束の居酒屋へと足を向けた。

 梅雨に入ったというのは、あながち間違いではないのだろう。外へ出た瞬間、湿気の多い空気が肌にまとわりついた。少し早歩きをしただけで、じっとりと汗ばむような気温だ。

 外がまだ明るいのは、これから夏至がやってくるからだ。反対方向から歩いてくる人にぶつからないよう、人込みの中を歩く。


 ――あった……。


 彼が予約したという居酒屋は、職場からも少し離れた場所にあった。

 ちょっと小洒落た料亭のような外観で、明るい店内が印象的だった。


 割烹着姿の年配の女性に、予約をした彼の名を告げると、奥の個室へと案内された。

 掘りごたつ式になっていて、足が伸ばせるのがありがたい。

 障子戸も趣があり、どこか懐かしい気持ちになる。


 私は定時ダッシュでここに来たけれど、きっとあの人は、部下に仕事を割り振ってから来るのだろう。

 そう思い、鞄から文庫本を取り出して、彼が来るまでそれを読み始めた。


 どうやら、どっぷりと本の世界に浸っていたようだ。


「待たせて、悪かった」


 ふっと現実に引き戻されて顔をあげると、黒い髪を後ろに撫でつけた、ちょっと見目のいい男――黒須(くろす)健太郎(けんたろう)が、そこには立っていた。


「君は、また本を読んでいたのか?」

「時間は有限ですから」

 言いながら、読んでいた文庫本を鞄にしまった。


 健太郎さんは上着を脱ぎ、私の目の前に座る。

「お腹、空いただろう? 好きな物を頼んでくれ」

「好きな物って……」


 どうせなら、おフランスのコース料理とか、くるくる回る中華のコースとか。一人では食べることができないようなメニューが良かったけれど、知り合いに見つからないよう会うことが目的なので、食べたい物についてはあきらめることにしてみた。


「飲み物は……ウーロン茶でいいか?」


 健太郎さんがそう尋ねてきたことに、私はぎょっと目を見開く。

 彼は、私が「まずは、生で乾杯」の女であることを知っているはず。


「あー、ジンジャーエールで」

「だったら、俺もそれにしよう。食べ物は、適当に選んでもいいか? ここの料理は全てが手作りだから、君の口にも合うと思うのだが」

 まるで、以前からこの店を知っているかのような口ぶりである。

「おまかせします」


 すると彼は、嬉しそうに口元を緩めた。


 ――だめだめだめ。この笑顔に絆されては駄目。


 そう。今日は彼にあのことを伝えにきたのだ。そして、同意書にしっかりとサインをもらわなければならない。

 店員を呼んだ健太郎さんは、慣れた口調でメニューを伝えた。相手の店員も、彼のことを知っているかのような口ぶりで答えている。

 少しだけ、心の中がもやっとした。


「それで、今日は何かあったのか?」


 健太郎さんは、同じ会社の部署違いだ。資材部門の部門長を務めている。年も三十代前半だったと思うけれど、この部品入手難の時代に、どこからともなく伝手を使って、部品をかき集めてくることから、神の手(ゴッドハンド)とも呼ばれている。


「何かなかったら、わざわざ会おうとはしませんよね」

「俺は、君に会いたいと思っていたが?」

「またまた~」


 こういうことをしれっと言いきっちゃう辺りが、大人なのだろうか。第二新卒の私には、わからない世界だ。


「あのですね。こちらにサインをいただきたく……」


 鞄から取り出した二つ折りの書類。料理や飲み物が届く前のこのテーブルなら、書類を広げても汚れることはない。


「何だ、この書類は。婚姻届けか?」


 この顔で、この手の冗談は面白くない。


「何でもいいですから、ここにちゃちゃっと名前を書いてください」

「何でもいいわけはないだろう? 契約をするときは、きちんと契約内容を確認すべきだ」

「契約ではありませんから」


 だけど健太郎さんは、契約をするときにはきちんと契約内容を確認する男のようだった。じっと渡した書類に視線を落としては、その顔色を変える。


 ――あ、バレたかな。


「俺は、サインをしない」

「え?」

「責任はとる」

「いやいやいや。とらなくていいです」

「だから、俺の子どもを産んで欲しい」

「いやいやいや。責任で結婚とかされても困りますし」

「お待たせしました」


 割烹着姿の年配の女性が、飲み物と食べ物を手にして部屋に入ってきた。だから、私たちの話は中断。

 だけど、その女性は食べ物をテーブルの上に並べていくときに、あの書類を見てしまったらしい。


「ケンちゃん……。あなた、何をやっているの」


 ――ケンちゃんって……健太郎さんのことよね?


「せっかくあなたの子を授かってくださったこの子に、中絶をすすめているの? ホント、男の風上にもおけない男ね。お母さん、そのような子に育てた覚えはありませんよ」


 ――お母さん? お母さんってママ? え? 健太郎さんのお母さま?


「今、彼女と大事な話をしているのです。いいから、それを置いたらさっさと出て行ってください」

 こんな健太郎さんを初めて見た。


「あなた、お名前は?」

 健太郎さんのお母さまが、いきなりそんなことを尋ねてきた。


「母さん」

「あ、はい。畑中珠美です」

「タマちゃんね。可愛いお名前。年は?」

「25になったところです」

「ケンちゃんが32だから……。ちょうどいいかしらね? それに、素敵な髪の毛。黒くて真っすぐで、力を感じるわ」

「母さん。あなたが間に入るとややこしくなる。用が済んだなら、さっさと出て行ってください」

 こんなに声を荒げる健太郎さんも初めて見た。


「はいはい。ケンちゃん。きちんと自分の気持ちを伝えないと、彼女に逃げられるわよ」

 おほほほと、お上品に笑いながら、健太郎さんのお母さまは部屋を出ていった。


 パタン――。


 障子戸が閉められる。


「ここって……。健太郎さんのご実家なのですか?」

「実家ではないが、母の店だ」

「あぁ、なるほど」


 私は納得したような声をあげて、とりあえず目の前のジンジャーエールに手を伸ばす。

「とりあえず、乾杯しません?」

「何に乾杯する? 新しい命を授かったことか?」

「違います。今日一日、お疲れさまでした。乾杯」


 勢いよくジンジャーエールを飲んだ。空腹だったから、お腹の中で炭酸がしゅわしゅわ言っている。


「健太郎さんは、ビールじゃなくてよかったんですか?」

「君が飲めないのに、俺だけ飲むのは気が引ける」


 こういうところは律儀らしい。


「ま、とりあえず食べろ。料理は美味しい」

「見るからに美味しそうですもんね」


 私が褒めると、健太郎さんは目尻を下げた。身内を褒められるのは、やはり嬉しいのだろう。

 腹が減っては戦ができぬ、ということもあり、とりあえず私は食べた。


 だけど、食べ過ぎた。食べ過ぎるくらい、美味しかったのだ。

 後ろの壁に寄り掛かり、お腹をさする。


 そんな私を見ていた健太郎さんは、鞄の中から何かをゴソゴソと取り出していた。


「タマ。俺と結婚して欲しい」

「は?」

 開いた口がふさがらないとは、まさしくこのことを言うのだろう。彼の手の中には、何やら石が煌めく指輪がある。


「やはり君は、俺が見込んだ女性だった。俺の子を授かってくれて、ありがとう」

 あまりにもの展開の早さに、私は、ふがっと鼻を鳴らしてしまった。


「ちょっと待ってください。私たち、お付き合いも何もしていませんよね? 同じ会社で働く人。という認識なのですが」

「だが、それはあの夜までの話だろう? 俺はあのとき、君が気になっていたから、君を誘った。俺は後悔していない。まして、こうやって子を授かってくれたことには感謝しかない」


 もちろん、記憶がない。あの夜だって、気が付いたら朝だったのだ。朝チュン以上の朝チュンである。まったく記憶がないというのに、何が起こったかわかるような事後ではあった。

 だから私はあの朝、健太郎さんの目が覚める前に、あそこから逃げ出したのだ――。


「では。お付き合いから始めましょう」

「結婚を前提のお付き合いということでいいか?」

 普通のお付き合いと、結婚前提のお付き合いの違いがわかるほど、異性とのお付き合いが豊富なわけではない。


「まぁ……。そうですね。何事も無ければ、そのまま結婚で」

 ヒューっと、部屋の気温が三℃程下がったような気がした。ふるりと鳥肌が立つ。


「あ、すまない。舞い上がってしまい、霊力(ちから)が暴走した」

「はぁ……」


 何が暴走したのかよくわからないけれど、じめっとした空気の中でひんやりと吹き抜ける風は、少しだけ心地よかった。


「そういえば。なぜ、健太郎さんは、今日の私はビールを飲まないってわかっていたんですか?」

「君のお腹の中に、新しい命が宿っていることに気が付いたからだ」


 事前に妊娠したことを告げていたわけではない。にも関わらず、知っていた? なんで?

 その気持ちが、恐らく顔に出ていたのだろう。健太郎さんは、ふっと鼻で笑った。


「君のお腹の中から、俺と同じ霊力(ちから)を感じたからね。間違いなくその子は俺の子だ」

「はぁ」


 お腹がいっぱいで苦しい私は、といにかく健太郎さんの話を「うん」か「はぁ」で聞き流していた。


「タマ。手を出して。左手」

 仕方なく、黙って彼の前に左手を差し出すと、その薬指に指輪をはめた。


「俺の子だからね。君は狙われる可能性がある」

 ――何にだよ。


 そう、ツッコミを入れたかったけれど、お腹がいっぱいで何の返事もできなかった。


◇◆◇◆ ◇◆◇◆


 その日を境に、私と健太郎さんの結婚を前提としたお付き合いが始まった。ようするに、婚約だ。

 だけど、今、激しく後悔をしている。いや、今だけじゃない。彼から指輪を受け取って、すぐに後悔したのだ。

 だって、わけがわからない。

 健太郎さんが、『雪男』だなんて。



 この世には、人間と似て異なる生き物がいる。人間のように見えて、人間とは異なる力を持つ者。昔は妖怪とひとくくりにされていたようだが、現代の今は、彼らを『あやかし』と呼ぶ――。



「って。物語の世界の話じゃないんですか? ほら『キャラ文芸』とか、そういうジャンルの」

「本当にタマは、本が好きだな。まあ、そういう君が好きなわけだが。残念ながら、俺はそのキャラ文芸を読んだことないから、わからない」

 そう言って、健太郎さんが私に手渡してくれたのは、ルイボスティー。妊娠中にカフェインの取り過ぎは良くないという情報をお義母さまから仕入れたらしく、私の飲み物は珈琲からハーブティーに代わっていた。


 そして私はというと、一人暮らしのおんぼろアパートを引き払って、健太郎さんの豪華マンションへと引っ越してきた、というわけ。

 というのも、健太郎さんの子を妊娠している私は、いろいろと危険らしい。厳密に言えば、私ではなくお腹の子が。


 普通の人間とあやかしの間に産まれた子は、霊力(ちから)が大きいと言われているようだ。というのも、本来であれば、人間とあやかしでは子を授かることができないから。子を授かったことそのものが奇跡であり、その奇跡の先にあるのが霊力(ちから)の強い子なのだとか。


 そんなキャラ文芸に出てくるようなあやかしの健太郎さんは、『雪男』と呼ばれる種族とのこと。

 雪男って、イエティしかわからん。と言ったら、似たようなものだと笑われた。ようするに、健太郎さんのお母さまが『雪女』なのだとか。


 まったくもって、この世のあやかし業界についてわからない私だけれど、健太郎さんとお義母(かあ)さまの話を聞く限り、財政界を牛耳っているほとんどがあやかしなのだそうだ。

 彼らは、人間とは異なる霊力(ちから)があるため、商売やら何やらに才能を発揮する。スポーツ選手の中にもあやかしはいるらしい。そうやって、普通の人間の世界に溶け込んでいる。


 基本的には、普通の人間とあやかしは交わることはない。つまり、異種婚と呼ばれるものはない。

 そもそも、二つの種族の間では子を授かることができないのだから。つまり、今回の私は異例中の異例。

 異例中の異例だから、それを面白く思わないあやかしから狙われる可能性がある、というのが健太郎さんとお義母さまの話だった。

 本当に、本の中の世界かと思った。もしかしたら、本の中の世界の方が現実なのか。真実は小説より奇なりとは、まさしくこのことか。と、何度も思った。



 健太郎さんが淹れてくれたルイボスティーが、鼻腔を撫でていく。落ち着く香りだ。


 熊さんの顔型のクッションを抱きかかえるようにして、ふかふかのソファに座っていた私は、ここのところ悪阻が酷い。


 先ほども、お義母さまに付き添われて、病院で点滴を打ってきたところ。そして、健太郎さんは午後になって慌てて会社から戻ってきたところだった。

 点滴のおかげで大分気分は良くなった。だから健太郎さんから、あやかし講義を受けていたのだが。


「なんか、私だけ普通の人間とベクトルの方向が間違っていたんですね。交わることのない世界だったのに、方向を間違えたから交わっちゃった、みたいな」

「タマのそういう発想は嫌いじゃない」

 そんな私も、健太郎さんのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないからあの日、記憶を失った日、彼の誘いにのってしまったのだ。


 元カレとヒートアップしたやりとりをしていた日――。


「で? あやかしって何をやってるんですか? っていうか、健太郎さんなんて、しがないサラリーマンじゃないですか」

「ああ。あの会社に行っているのは、タマだいるからだよ。君が辞めるなら、俺も辞める」

 頭が痛くなってきたような気がする。

 健太郎さんのような優秀な人材を失ったら、間違いなくあの会社は、生産減に陥る。


「健太郎さん。そういうことを言うのはやめましょう。一応、仕事は仕事と割り切っている私ですが、愛着はあります。まぁ、あの就職活動で失敗続きだった私を拾ってくれた感謝の気持ちですね」

「そうやって、社畜は増産されていくんだけどね。もっと効率よく物事をすすめれば、半分の時間で仕事が終わることに、彼らは気づいていない」

「普通の人間に、あやかしの常識を押し付けないでください。気づかないのであれば、気づかせてあげればいいんですよ」


 ふぅとカップの中身のお茶に息を吹き付けると、もわんと湯気が襲い掛かってきた。また、ルイボスティーの香りが漂う。

「だから。タマのそういうところが好きなんだ」


 健太郎さんがこんな甘い男であるとは知らなかった。だって、仕事中にはほとんど接点はなかったのだから。


 あの日、健太郎さんに抱かれることになったのも、同じフロアの元カレが原因で。そこにたまたま健太郎さんがいたわけで――って。


「健太郎さんって、いつから私のことが好きだったんですか?」

「ん? 君を一目見た時から」

 甘くないルイボスティーが、一気に砂糖水に化けるようなセリフだった。


 これもあやかしの特徴らしい。とにかく、運命の女性を溺愛するとか。お義母さまから仕入れた情報である。


「はいはい、わかりました。私、少しベッドで横になりますから」

「添い寝、しようか?」

「残念ながら、間に合ってます」


 私は、熊さんの顔型クッションを指さした。健太郎さんは、悔しそうに顔を歪ませた。

 熊さんを抱き締めながら、キングサイズのベッドに横になる。


 朝は、水を飲んでも吐きそうになる勢いだったのに、今なら、何でも食べられるような気がするから不思議だった。

 あやかしでも人間でも、家族が増えることは嬉しい。私は、素直にそう思っている。


 というのも、大学入学してすぐに父親を事故で亡くし、その事故の保険金でなんとか大学を卒業したものの、就職と同時に母親を病気で失った。兄弟はいない。親戚はよくわからない。いるだけ、という表現の存在。


 私はお腹にそっと手を当てた。写真は見せてもらったけれど、まだ豆粒にも満たないような存在。


 この子がいなかったら、健太郎さんと結婚をする気持ちは起こらなかっただろう。


 何しろ彼は、私にはもったいないような雲の上の存在の人間だったのだから。


 だから、あの夜の過ちは、過ちではなく運命だったのかもしれない――。


◇◆◇◆ ◇◆◇◆


 入社して一か月後。私は同じフロアの品質保証部の佐藤(ゆう)と付き合い始めた。同期入社、同い年、ということもあって意気投合したのだ。

 初めての彼氏に浮かれていたのは認める。だから、彼の側にいたくて、仕事から帰ると何度も何度も電話をかけたり、メッセージを送ったりしていたことも認める。


 その結果、半年後に別れた。


 私の頭の中では、彼との結婚生活を思い描いていた矢先だった。


『お前、重いから』


 そんな理由で別れを告げられた。


 ま、別れた後の一か月は、魂が抜けたような状態だったけれど。同じフロアというだけで職場は違うし、次第に仕事も忙しくなれば、そんなことも考える余裕もなくなるわけで。

 そうやって、元カレのことは次第に頭からはなれていったのだ。


 だけど、今年の四月下旬。ちょっと遅い新人歓迎会をやっていたときに、元カレが絡んできた。


 やられたらやり返す。目には目を、歯には歯を――。


 がモットーな私は、酒の勢いもあって、反論していた。元カレも自尊心を傷つけられたのだろう。私みたい小娘にケチョンケチョンに言われていたのだから。


 口で負けそうになれば、手が出てくる。それがあの人の悪い癖でもあった。

 そして、その間に入ったのが健太郎さんなのだ。

 憧れの健太郎さんに助けてもらったという気持ちが、私の心を解放したらしい。解放した結果、記憶を失った。



 悪阻も落ちついた私は、なんとか会社に行くことができるようになった。


 健太郎さんと婚約したことは、部長には伝えてあるし、妊娠していることも伝えてある。籍を入れないのは、記念日に籍を入れたいから。そんな変な理由がまかり通っていた。

だから私はまだ、『畑中』のまま。


 そうなると、皆、私のことを遠回しに見つめてくるようになった。


 姓はかわっていないのに、妊娠している――。

 相手は――?

 ま、言いたい奴には言わせておけ。

 そんな気持ちで仕事をしていたんだけど――。


「おい。珠美」

 まだ太陽が沈み切る前。外にいるだけでもじっとりと汗ばんでくるような気温の中、会社を出た私に声をかけてきたのは、元カレの悠だった。


「なに? もう、あんたの彼女でもなんでもないんだから、呼び捨てにするの、やめてくれない?」

「お前、結婚したのか?」

「は? なんであんたにそんなことを教えなきゃならないわけ?」

「誰の子だよ」

「あんたの子じゃないから、安心しなよ」


 ちっ、と悠は舌打ちをする。


「あんたにとって、私は重い女なんでしょ? 私と正反対の、軽い女と付き合ってんじゃなかったの?」


 噂によると、彼は営業部の海外マーケティングの英語ペラペラ才女の美人さんと付き合っているとか。だからといって、彼女が軽い女性というわけではないのだが、言葉の駆け引きのようなものだ。


「お前さ。誰でもいいんだろ? やらせてもらえれば」


 ――は? 何、言ってんの、こいつ……。


 だだでさえ暑くてくらくらしているのに、こいつの言葉を聞いているだけで、余計にくらくらしてくる。


「しかも、妊娠してるなら、孕む心配も無いよな?」


 ――ちょ、ちょ、ちょっと待って。本当になんなの、こいつ。


 私の怒りが沸点に達しそうになっていた。付き合っていたときから、ちょっとなところはあったけれど、そういうのは片目をつぶれ、とよく言うから、片目と半分くらいつぶっていたけれど。


 もう、彼とは付き合っていない。だから今、両目をきっちりと開く。


「あのね。私とあんたは、もう終わったの。誰でもいいわけではないから。用がないなら、帰るから」

 くるりと元カレに背中を向けた。


 本当に、こんな会社の目の前でやめて欲しい。同じフロアの人間はいなくても、他部署の定時で帰る人たちは、ばっちりと私たちのやり取りを見られている。


 だからって、誰かが助けてくれるわけでもない、遠目から、パンダでも見るような視線を投げかけてくるだけ。


 本当にいろんなことに頭にきた。


 健太郎さんじゃないけれど、「辞めてもいいかな」と思えるほどに。


「おい、待てよ」


 元カレに肩を掴まれた瞬間、世界が一変した。夏の日の長い夕方が、一気にセピア色の世界に染まり、何かしら動いていた人たちは、静止画のようにぴたりと止まっていた。


「は? 何、これ」

 身近にいた女性に触れようとしても、触れることができない。見えるのに、触れない。実態がない。


()()()より、()()()に連れてきた方が早いと思ってね」


 あっちもこっちも、違いがわからない。


 私は目の前の元カレをじろっと睨んだ。

「お前さ。知らないの? お前って、人間のわりには霊力(ちから)が高いんだよ」

 ドキリとした。身体が震えた。

「特に、そこから霊力(ちから)を感じる」


 元カレが指を差したのは、私の下腹部。つまり、新しい命が宿っている場所。


 ――健太郎さんが言っていたのって、こういう意味なの?


 私は唇を噛みしめて、元カレを睨む。

 ここには、私を助けてくれるような人はいない。野次馬もいない。そもそも、私と元カレ以外、誰もいない。見えるあの人たちは、ただのお飾りのようなものだ。


「今のお前と交われば、オレも霊力(ちから)を分けてもらえるというわけだ。お前に、あやかしの子を妊娠するような力があるとは思わなかったよ」


 ここでもあやかし。まさかのあやかし。となれば、もしかして、もしかしなくても、この男もあやかし?


「そうやって、驚きもしないってことは……。やはり、その子は『あやかし』の子か。すごいな、お前。まさか、普通の人間のくせに『あやかし』の子を孕む力があるなんて。やっぱり、あの時、手放すんじゃなかった。そうすれば今頃、オレの霊力(ちから)も高まったのになぁ? だけど、その子は邪魔なんだよね。存在してはいけない赤ん坊だ」


 唇の周りを舐めながら、元カレが言う。もう、気持ち悪い。悪阻で気持ち悪いんじゃなくて、この男の存在が気持ち悪い。


 だけど、このよくわからない場所から、家に帰る方法がわからない。


「おいで、珠美。()()()はオレとお前しかいないから。誰にも邪魔される必要はないよ? いや、邪魔してるのはその子か」

「ごめん、あんたの言ってる意味が、さっぱりもってわからない」


 だから、これから彼がどこで何をしようとしているのかが、わからない。だけど、彼に捕まってはいけないという、そんな気持ちだけはあるし、お腹の子が危ないということだけはわかった。


 あいつが私に一歩近付けば、私は一歩下がる。また、一歩、また一歩……。


 私の隣には、動かない人の顔があるけれど、その人は私が見えていないかのように、どこか違う場所を見つめている。


 そもそも、こうやって相手に触れることができないのだ。助けを求めたって無理だってわかっているけれど――。

 これだけの人がいたら、いくら動かないセピア色の人間であっても、だれか一人くらいは私に気づいてくれるんじゃないかって期待してしまう。


「珠美。みんなに見られながら犯されたいの?」


 いやいやいやいや。だから、先ほどから言っていることがおかしいから。

 私は元カレを睨みつけたまま、一歩ずつ後退するものの、背中に何かが触れた。驚いて後ろを振り向けば、セピア色の人間の群れ。

 触れることができないはずの、セピア色の人間たち。


「オレから逃げようとするから。お前たち、珠美を捕まえろ」


 無数のセピア色の腕が伸びてくる、私はその手から逃げるように走った。

 走っていい時期かどうかもわからないけれど、走って逃げた方がまだマシだと思えた。だけど、セピア色の人間が私を追いかけてくる。


「珠美、あきらめなよ。そういうところも可愛くていいんだけどね」


 元カレがどうでもいいことを、言っているけれど、この腕の群れとかに捕まることを想像したら怖いし、その後、何をされるかわかったもんじゃない。


 日頃の運動不足というものがたたって、少ししか走っていないにも関わらず息はあがり、足が重くなってきた。

 身体中に十分な酸素も行き渡らず、目の前がくらくらしてきた。


「鬼ごっこはもう終わり?」


 テレビ番組のように、たくさんの鬼が私一人を追いかけてくる。私が一体、何をしたというのか。


 ――もう、無理……。


 息も苦しくて、足も痛くて、頭も白んで。

 前に倒れそうになった。それでもお腹に手を当てたのは無意識だった。絶対にこの子だけは守りたい――。


 だけど、いつまでたっても身体は無事で、追いかけてきた腕の群れにとらわれることもない。ただ、一本の腕がしっかりと私の身体を支えてくれていただけで。


「タマ。無事か?」

「健太郎さん……」

 ヒロインのピンチに駆けつけた救世主(ヒーロー)って、本当に実在するんだ。

 なんて、最近読んだ、ロマンス小説を思い出していた。たいてい、ヒロインが攫われて、やられるっていうときに登場するのがヒーロー。お約束のパターンだけど、このお約束がなければ、物語は成立しない。


「さて、と。俺の花嫁とその子に手を出した覚悟はできているんだろうな? 佐藤悠くん……」

 悠の顔色が、さっと変わった。血の気が引く、という表現が適切なのかもしれない。


「まさか……。珠美の相手は黒須部門長?」

「その、まさかだったらどうする?」


 ふわっと、また周囲の温度が三℃くらい下がったような気がした。ほのかに冷たい風が心地よいのだ。

 健太郎さんの右手には、ソフトボールくらいの大きさの金色の光の玉がほわほわと浮いていた。

「佐藤悠くんは、何のあやかしかな? あやかしであることは知っていたけどね。特に、関りもないし、害もないし放っておいたのだが。そうやってタマにちょっかいを出すようなら、お仕置きが必要かな」


 健太郎さんが手にしていた光の玉は、ほわほわと揺れながら悠のほうに向かっていく。

「や、やめろ」


 今度は悠が逃げる番だった。追いかける光の玉から走って逃げている。

 逃げる姿って、あんなに滑稽なのか。そして、それが先ほどまでの私。きっと悠は、こんな滑稽な私の姿を見て、心の中で笑っていたのだろう。

 光の玉の速度は次第に速まり、悠に追いつくと彼の全身を光で覆った。


 人間の姿であった元カレは、その姿を狐の姿に変えた。


 ――あら、かわいい。


管狐(くだきつね)か。となれば、主人は別にいるな」

 管狐。妖怪の名前。聞いたことがある。とにかく、狐だ狐。


「あやかしって、妖怪?」

「のような力を持つ、人間のような者」

「てことは、人間?」

「とも、違う。けれど、こうやって人間界に潜んでいる。だが、とにかく君は、あやかしに好かれる体質のようだな。前もって指輪を渡しておいてよかった」


 指輪と言われ、左手の薬指の控えめな石が煌めく指輪を見つめた。石は指輪のリングの部分に埋め込まれていて、邪魔にならないようなデザインであるところが気に入っている。


「その指輪には、俺の霊力(ちから)が込められている。だから、君に何かあれば、その指輪が俺に教えてくれる」

「てことは、GPSみたいなもん?」

「と思ってもらってもかまわない」


 そんなことを言われて、素直に指輪をつけ続けようとも思わない。ようするに、私の居場所が健太郎さんに筒抜けってことでしょ?


 指輪を外そうとしてみたけれど、全然外れなかった。


「なんで?」

「やはり。指輪に認められたということは、君は私の運命の女性に間違いないということだ」


 健太郎さんが私の腰を抱き寄せる。

「助けにくるのが遅れて悪かった。走ったようだが、体調は問題ないか?」

 優しく私の下腹部に触れる。


「大丈夫。大丈夫だけど、健太郎さんが近すぎるから、大丈夫じゃない」

 セピア色の人間たちがたくさんいるのに、恥ずかしいったらありゃしない。


「俺の嫁は、可愛いな」

「うん。まだ嫁じゃないけどね」


 クゥン、と犬のような鳴き声が聞こえてきた。

 悠だ。いや、狐だ。


「どうすんの? これ。今は狐だけど、悠なんだよね?」

「君が、他の男を呼び捨てにするのは、いい気持ちはしないが」


 健太郎さんの言葉で、はっとする。私も付き合ってもいない男のことを呼び捨てにしてしまった。人のことを言えたもんじゃない。


「とりあえず、主人の元に帰そう。そうすれば、君を襲った黒幕がわかる」

 健太郎さんが、狐の首根っこを掴み、何やらお経のような言葉を口にすると、狐はぱっと消えた。

「さて、俺たちも帰ろう」


 また、世界が一変した。セピア色の世界が、色のある世界に戻った。肌に感じる空気は、湿気が多くじめっとしているし、何よりも周りの人たちが動いていた。


「ねえ、さっきの雪だったよね?」

「雪?」

「降った、降った」

「こんなに暑いのに?」

「あ~、でも、暑いから少しくらい雪が降ってくれてもいいかもって思うわ」


 そんな会話が聞こえてきた。地面を見ると、雨が降ったかのように濡れていて、それがすでに蒸気になってもやを作っていた。


 隣の健太郎さんを見上げると、彼は困った様に笑っていた。


 きっと彼を問い詰めても、答えてくれないだろうから、あとでこっそりとお義母さまに聞くことにしよう。


◇◆◇◆ ◇◆◇◆


 テレビのニュースでは、今日の夕方、雪が降ったという話題で持ちきりだった。


「本日、午後六時半ごろ……。雪が降るという現象が……。雪は、一分ほどでやみましたが……、気象庁では……」


 熊さんの顔型クッションを抱きかかえながら、ソファに座りテレビを見ていた。私の手には、スマホが握られている。

『ケンちゃん、暴走したのね』と、大笑いのスタンプと共に、メッセージが届いていた。メッセージの差出人は、もちろんお義母さまだ。


 今日のことの顛末は、後日、お義母さまとのティータイムで話すことになっている。


 まだ、あやかしについてよくわからない私。お義母さまとも、良い関係を築けている。と思っているのは私だけではないはず。


「では、次のニュースです……」

 ぱっと画面が切り替わって、よく見る国会の映像に切り替わった。


「あっ……」

 私は見つけてしまった。テレビの画面の向こう側にいる、狐姿の元カレを。なんか、偉い人の肩の上に乗っているのだ。それはもう、ちょこんと可愛らしく。


「……ホールディングスの黒須会長は……」

 くろす、黒須? まさかね。


「健太郎さん。狐、狐の佐藤がいました。あ、佐藤の狐だ」

「なんだ、それは」


 キッチンでお茶を淹れていた健太郎さんは、二つのマグカップを持って私のところへやってきた。

 目元を緩めていた健太郎さんの顔が、ニュースを見た瞬間に引き締まったことに、もちろん私も気が付いた。


「ほら。エアコンの風、冷たくないか? あまり身体を冷やさないように」

「それ。雪男の健太郎さんに言われても、説得力ないんですけどね」

 マグカップを受け取り、ふうふうと息を吹き付ける。


「そうだ、健太郎さん。お義母さまも、あいつも。私にも力があるって言ってたんですけど」

「そうだな」


 健太郎さんが私の隣に座ると、彼の重みによってソファが沈んだ。


「他の人よりは、霊力(ちから)が高い。だから、子を授かることができたんだと思う」

「てことは。やはり、こう。練習すれば、健太郎さんみたいに、その力を使うことはできるんですかね?」

 私の言葉に、健太郎さんは大きく目を見開いた。


「どうしたんだ? 急に」

「ん、と……。今日のようなことが、これからも起こるのかなと思うと。やはり母親としてはこの子を守ってあげたいと言いますか……。まあ、そんな感じです」


 急にエアコンの設定が変わったのかと思えるくらい、部屋の温度が下がった。


「ああ、すまない。寒かったか?」


 お義母さまが言うには、感情が昂ったりすると、健太郎さんの霊力(ちから)が暴走するらしい。今日の真夏の雪も、健太郎さんが暴走した結果なのだ。


「いえ、一瞬でしたし。それに、エアコンの風に当たらないようにって、完全防備ですからね」


 足首を冷やさないように、夏でも長ズボンとゆるっとした靴下。そして、上も薄いカーディガンを羽織っている。


「そうだな。タマのそういう前向きな考えは嫌いじゃない。適当な人材を見繕っておくよ」

「あれ? 健太郎さんが教えてくれるんじゃないんですか?」

「もちろん、俺も付き合うが。君は人間だからね。指導者としては人間の方が適している。もちろん、女性だから安心しなさい」


 私の指導者が女性で安心するのは、健太郎さんの方なんじゃないかな、と思うんだけど。

 それはあえて口にしない。


「ありがとうございます。まだ、あやかしについてはよくわからないけれど。とにかく、この子は大事なので」


 私が微笑んで、健太郎さんを見上げると、彼も温かな笑みを浮かべ、そして私に口づけを落とした。


【完】


お読みいただきありがとうございました。

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それでは、また次の作品で!!

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