一度は死んだ公爵令嬢ですが、かつて推しカプを見守っていた記憶が蘇ったので、第二の人生は推しカプを復縁させようと思います
(やだ、わたしってば、一度死んでるじゃない)
公爵令嬢ステラ・マリー・レイノルズは思いだした――頭から盛大に水をかぶった瞬間に。
自分は元々とても病弱だったこと。
だから生死の淵をさまよったこと。
それを救ってくれたのは、ステラがかつて育てていた観葉植物だったこと。
――そして、観葉植物の記憶を受け継いだこと。
まばたきを数回するあいだに蘇った記憶は、ステラの日々の妄想なんかとは比べものにならないくらいに美しくて。最高に、萌えで。
(ああ、このまま死んでもいい……)
膨大な記憶を一気に処理したものだから、頭の回転が追いつかなくなって、ふらりと目の前がかすむ。
「ステラ!!」
夢見心地でよろめくと、背の高い男が必死の形相でこちらに走ってくるのが見えた。自分の婚約者であるクライヴだ。
(ああ、クライヴさま……今日もかっこいい……。なんて隙のない、完璧な、攻め……)
そこでステラの視界は暗転する。
――10年前、嵐の夜のことだった。
病弱だったステラはその日、夕方から咳が止まらず、ベッドでぐったりと横になっていた。
医者はこの悪天候でなかなか屋敷にたどり着かない。
小さな身体は咳をするだけで体力を奪われ、そのうち意識がもうろうとしてくる。
――ステラさま、ステラさま。
はっと目を覚ますと、そこはまるで雲の中にいるような、うっすらと白く靄がかっているだけのなにもない空間だった。
不思議と息苦しさはなく、身体がびっくりするほど楽だ。
ああ、自分は死んでしまったらしい。妙に納得していると、また自分を呼ぶ声がした。
「誰?」
――ここです、ここ。
視線を落とすと、横座りしている自分の膝元から植物が生えていた。
これはモンステラだ。
丸みを帯びた大きな葉が特徴的な観葉植物。自分の名前と似ているから、ステラはこの植物に親近感を覚えて大切に育てていた。
「話しかけてくれたのはあなた?」
――ええ、わたしです。あなたに株分けされたモンステラです。
「まあ! また会えるなんて思わなかったわ」
育てたモンステラの一部は以前慰問で訪れた町に譲っているのだ。死に際に会いに来てくれたということだろうか。
「わたし、死んじゃったのね?」
――いいえ、ここはふたつの世界の境界。ここにいるうちは、まだ死んでいるとも生きているともいえません。
「でもすぐに死ぬわね。自分でもなんとなくわかるもの。身体がこんなに楽なのは久しぶりよ」
薄幸の美少女らしく儚げに笑ったステラは、しかしすぐに拳を腿にたたきつけて悔しがる。
「なんでわたしが死ななきゃいけないのよおぉぉっ!!」
――さっきまでの物わかりの良さはなんだったのですか。
「それはそれよ!! しんどいのはいやだけど、後悔なんて大ありに決まってるじゃない!! わたしまだこんなに若いのよ!!」
菓子が欲しいとねだる子供のようにそのへんをごろごろ転がっているとモンステラが「まあまあ」となだめにかかる。
――わたしの話を少し聞いてくれませんか。残された時間も少ないことですし。
「いいけど……」
――わたしは旦那さまが港町で買った舶来品のモンステラですが、ステラさまにはずいぶん良くしていただきました。欠かすことなく水と日光を与えて、毎夜枕元に置いては楽しい話をしてくれましたね。
「そうね。わたし病弱だったから、あなたしか話し相手がいなかったのよね。人にできる話でもなかったしね」
――株分けしてくださったこともとても感謝しているのです。
「そう……いい町だったものね」
モンステラを株分けした町には貴族令息ばかりが通う女子禁制のパブリックスクールがあった。学生寮が完備され、学生たちは短い青春時代を親元を離れて暮らすのだ。町中には連れだって歩く学生たちがわんさかといた。
ステラが彼らを熱心に眺めているのを、自分が学校に行けないものだから憧れがあるのだろうと、公爵は不憫がった。そしてステラが一生懸命に世話をしているモンステラを町に一部寄贈してはどうかと提案したのだ。
小さなモンステラはそうして、パブリックスクールのほど近くにある宿へと贈られた。
二階の角部屋の出窓に置かれたモンステラは下の道を駆けていく生徒たちを見守ることだろう。
ステラはあのときのことを思いだしてぐへへと公爵令嬢らしからぬ下品な笑い声をあげた。
「下級生の、ショートパンツ」
呼応するようにモンステラもぐへへと笑う。
――上級生になりたての、少し長いジャケットの丈。
「背が伸びるって算段のつもりが、そのまま伸びなかったりして」
――学年が上がっても袖が長いのをまわりの生徒にからかわれたり?
「そう! からかってくるのはスポーツ万能な同級生で。彼のほうはジャケットの前が締まらないくらいに筋肉質だったりして、会うたびに袖を引っ張られてからかわれるんだけど、なんだかだんだんそれが嬉しく感じたりして……」
もう一度、ふたりでぐへへと笑い合う。
ステラの趣味は男性同士の恋愛を妄想すること。
夜な夜なモンステラに語りかけているうちに、その趣味はすっかり受け継がれていたらしい。
ひとしきりそうしていると場をとりなすようにモンステラがこほんと咳払いをした。
――こんなふうに話すのも久しぶりでしたね。本題に戻ります。この妄想は現実だったのです。
「どういうこと?」
――あの宿屋は学生たちの逢い引きの場となっていました。
ステラは口をあんぐりと開ける。
「……ずるい!」
数秒たっぷり間を置いて出てきたのは恨み節だった。
「ずるい、ずるい、ずるい! そんなのわたしが直接見たかった! いいなあ、いいなあぁっ」
――そうでしょう。だから、わたしはもう未練はないのです。
「え?」
――あなたが株分けしてくれて、わたしは生きながら天国のような毎日を過ごしました。だから、後悔はなにもありません。
「な、なんでそんなこと……死ぬみたいな……」
――言ったでしょう。ここはあの世とこの世のはざま。生死の境をさまよっているのはステラさまだけではないのですよ。
「だ、だって、モンステラって寿命はもっと先でしょう!?」
――ええ。ステラさまのように大事に育ててくれれば。けれどあの宿屋の店主、悪い人間ではないのですが、絶望的に植物を育てるのに向いていません。わたしのことは外に出しっぱなしだし、水はたまに思いついたときにやる程度。ずぼらなのです。
「そんな……」
――ここまで生き延びてこられたのは日々の養分のおかげです。心の潤いがあったからです。ある意味わたしは幸せな植物生を送りました。だからステラさま、残りはあなたにあげます。
「え?」
――わたしの少しばかり残った生命力と、幸せだった記憶をあげます。だから、ステラさま、あなたはこれからの人生、どうかお幸せに――。
気がつくと朝になっていた。
そして昨日までの息苦しさが嘘のようにピンピンしていた。おそるおそる走ってみても咳が出ないし、まわりの兄弟と同じくらいの食事の量をとれる。
健康ってなんてすばらしいんだろう。ステラは喜び、家族はそれ以上に歓喜した。
部屋に置いてあったモンステラの鉢はどういうわけか、茶色くかさかさになって枯れてしまっていた。
(なんでそんなこと忘れていたのかしら)
ステラは現在二十二歳。儚げな美しさはそのままに、中身は健康優良児である。
趣味は妄想。それは10年前から変わらない。妄想の中身はもちろん見目麗しい男性同士の恋愛についてだ。
モンステラは宿で目にしたというすべての記憶をくれた。
身分差に年齢差にケンカップル。ツンデレにヤンデレに溺愛。
それらはちょっと筆舌に尽くしがたいくらいに、最高で、最高で、とにかく最高だった。
おそらく忘れてしまっていたのは、ステラの死にかけの身体では激しい高ぶりを受け止めきれるほどの体力が残っていなかったから。命を守るために頭のほうが制限をかけたのだろう。
ステラが夜な夜な妄想を聞かせたからか、モンステラとはとにかく趣味が合う。
モンステラが最高に興奮しているのは、一番最後の記憶だった。
攻めは筋肉質な美丈夫で、受けは一つ年下の華奢な美少年。体格差、果てしなく萌えである。
(モンステラってばわかってるわね!)
心の中で手塩に掛けた観葉植物と硬い握手を交わした。
しかし――。
「ステラ、もう大丈夫なのか?」
自分を心配そうに覗き込むのは、4年前、成人と同時に婚約をした、王立騎士団長のクライヴだ。
成人まではとても生きられないと医者から診断されていたステラだから、健康になったあかつきには両親は本当に張り切って、いい縁談を用意したと胸を張っていた。
クライヴは26歳。伯爵家の長男で、真面目で実直。勤勉で誠実。なにより健康なのが父のお眼鏡にかなった。
さっぱりと整えた黒髪に切れ長の黒い瞳が印象的な端正な顔立ちをしていて、女性たちからの注目を集めている。言ってしまえば、モテる。清廉な性格も相まって、とにかくモテるのだ。
ステラは真っ赤になって口元を両手で覆った。
(なんで、なんで……っ、わたしたちの推しが、わたしの婚約者なのかしら!?)
そう、モンステラが見ていた最後の記憶。ステラたちにドンピシャなカップルの美丈夫が、クライヴなのである。
10年前のクライヴは16歳。そのころからがっしりと筋肉がついて大人顔負けの体格だったけれど、顔立ちにはまだあどけなさが残っていた。
それが今、あどけなさのかわりに大人の男性らしい色気を纏わせてこちらを覗き込んでいる。
(こんなのずるすぎませんか!?)
この成長は完全に正解、だ。解釈一致である。どうもありがとう。ステラは天に感謝する。
「顔が赤い……もう少し休むか?」
「い、いえいえ! 結構ですわ!」
休むなんてとんでもない。10年後クライヴの姿をしっかりとこの目に焼き付けないと。
「それなら……ノエル、正式に謝罪を」
(え、嘘……)
窓際に目をやると、一人がけの椅子には男が座っていた。
ふわふわの金髪に、ぱっちりとつぶらな青い瞳はまるでお人形のよう。中性的な美しい顔はどこかすねたようにしかめられている。
全身がほっそりとしていて、特に肩の線は華奢で頼りない。誰もが守ってあげたくなるような可憐なオーラがにじみ出ている。
「でも、わざとじゃありません」
少し鼻にかかった男性にしては高い声を聞いて、興奮のあまり全身の血が沸き立った。
(ノエルくん……ノエルくんノエルくんノエルくんだ!!)
そこにいたのは推しカップルの美少年の方、ノエルだった。
当時クライヴよりひとつ下の15歳。ということは現在25歳。
あどけなさのなくなったクライヴに対して、ノエルの方は昔とほとんど変わらない。
(ノエルくん、いまだに声変わりしてないの? 筋肉も全然ついてない……! 完っ全なる大正解!!)
ふたたびの解釈の完全一致に、脳内のモンステラと肩をくんで祝杯を挙げる。
「こら、ノエル。わざとじゃないからって謝らなくていいってことはないだろう」
「あ……」
少し厳しいクライヴの声にノエルがしゅんとなる。
(このふたりってパブリックスクール時代は一学年違いの先輩と後輩なのよね。大人になってもその関係性がしみついちゃってる感じ!?)
なにそれ、最高! ステラはにやける口元を隠そうと必死だ。
ノエルは枕元まで近寄ってくると、ちらりとクライヴを見た。
そしてぺこんと頭を下げる。
「すみませんでした。下に人がいるって知らなくて、間違って水を捨ててしまって……」
「気になさらないで!」
ステラは元気いっぱいに答える。
あの水が記憶を取り戻すきっかけになったのは間違いない。水を掛けられる、という行為が植物のそれに近かったからだろうか。
とにかく感謝こそすれ、謝る必要なんてない。
しょげるノエルがかわいいから、それを見られたことはひたすらに眼福だけれど。
「ノエル、今日はもう帰るといい。ステラもこれ以上人がそばにいたら疲れるだろう」
「帰らないとだめですか……?」
「ほら、送っていくから」
その言葉にノエルはぱっと花が咲いたような笑顔になる。
(もう美少女! 美少年すぎて美少女!!)
興奮するステラの耳元に、ノエルはそっと唇を寄せた。
「僕はクライヴに抱かれてるんですから、いい気にならないでくださいね」
「っ……!」
さっきまでのどの態度とも違う、敵対心をむき出しにした冷ややかな声。
ステラはその場に固まったまま動けなかった。
「なにしてるんだ、ノエル。早くしろ」
「今行きまあす」
ふたりが退室してひとりになると、ステラはそのまま上掛けにつっぷした。
「うっ、ぐすっ、ひっく……っ」
大粒の涙が溢れて止まらない。
「わたし、ずっと、ずっと信じてた……っ」
4年前、彼と婚約したときから。
――クライヴさまとノエルくんってデキてるんじゃない?
そうだったらいいな。いや、そうに決まっている。
だって、クライヴの家を訪れるといつもノエルが先にいて、おまけにステラのことを敵対視してくる。クライヴは婚約者というわりにステラにはそっけなくて。
(やっぱり恋人同士なんだ……っ)
ノエル直々の告白によって疑惑は証明された。
「ありがとう、ありがとう……っ!」
ステラは感涙にむせぶ。流した涙で上掛けはびしゃびしゃに濡れていく。
今日は記念日だ。クラノエの日として国の祝祭日にしたほうがいい。
クライヴが自分にそっけないのは、ノエルがいるというのに立場上、公爵家からの縁談を断れなかったから。
ノエルが自分を嫌いなのは、大好きなクライヴにつく悪い虫だから。
(じゃあわたしがこの超萌え萌え尊みカップルに立ちはだかる壁ってこと? わたしを乗り越えてふたりが結ばれるの!? い、いいのかしら、そんなおいしい役回り!!)
当て馬なんて最高だ。
こういう邪魔者がいてこそ、恋はさらに盛り上がるというもの。
(でも、ノエルたんはもう4年も待ったのよね)
いや、正確には10年か。入学からだとしたらもっとかもしれない。
きっとこれまでずっと不安だったに違いない。クライヴはもてもてだから、いつか誰かに取られるかもしれないと。現にステラが現れた。
クライヴ自身がいくらノエル一筋を貫いても、伯爵家の長男という立場ではまわりが結婚しろと放っておかないはずだ。
(かわいそう……ノエルくん……)
そうだわ、とステラは膝を打つ。
だったら、自分があのふたりをくっつけるように立ち回ってあげればいいではないか。
この社交界シーズン、ステラはレイノルズ家の持つタウンハウスではなく、クライヴが住まう屋敷に滞在していた。
タウンハウス付きの料理人が腕を怪我して、代理が来るまでしばらくかかることになったからだ。
両親は叔母の邸宅に部屋を用意してもらったようだったから、一緒についていこうとしたのだが、どうもクライヴとの仲が一向に進展しないことに焦れた互いの両親が、同じ屋敷で過ごしてはどうかと提案したのだった。
クライヴは渋い顔をしていたが、ステラは乗り気である。
「お邪魔にはならないようにしますわ」
と楚々と笑えばとんとん拍子に話が進んだ。
ステラがクライヴの家で過ごしたかったのは、彼の近くにいれば必ずノエルが遊びに来るとわかっていたからだ。
あのカップルを近くで見られるのなら、かじりついてでも泊めてもらう。清楚な表情とは裏腹に心の中では欲望が燃えさかっていた。
案の上、ノエルは来た。それもほとんど毎日。
こんなにふたりの絡みが見られるのなら毎年泊まりたかったものだ。
(でも、わたしはこの目でふたりのあんなところとかこんなところは見られないのよね)
その点、モンステラがうらやましい。観葉植物という立場を駆使して、数々の決定的現場を見てきたのだから。
「昨日は本当に大丈夫だったか?」
朝食をとったあと、クライヴに散歩へ誘われた。手入れの行き届いたバラの生け垣のあいだを隣り合って歩いているとおそるおそるそう聞かれた。
「ええ、全然。もう忘れてしまったくらいですわ」
クライヴはどこかほっとした様子だ。
気づいているのだろう、ノエルがわざと水をぶっかけたことを。
客人であるノエルがひとり二階で花瓶の世話をしているのもおかしいし、ステラのちょうど真上にそれを捨てるのも、なにもかも不自然なことだらけだ。
それらはステラを狙って水を掛けたと考えれば、すべて納得できる。クライヴは、だから心配していたのだろう。
(安心して、クライヴさま。ノエルくんを糾弾するなんてあり得ないから!)
公爵令嬢であるステラにわざと水を掛けたなんて、表沙汰になれば一大事である。
しかし嫉妬ゆえの行動はステラにとってはご褒美のようなもの。むしろもっとくれ! である。
(ノエルくんを心配するクライヴさま萌え! あのあと、ノエルくんをたしなめたりしたのかしら。あんまり目立つ行動はしてはいけないって。でもノエルくんはきっと涙ながらに訴えるのね。あんな泥棒猫にクライヴの隣をとられたくないんです! って。きゃー!)
表情がついにまにまと緩む。
「本当に平気なんだな。顔色がとてもいい。以前は病弱だったと聞いていたのだが」
「え? ええ、そうなんです」
クライヴと婚約したのはモンステラに生命力をもらってしばらくしてからだった。だから彼はステラが死の淵をさまよっていた時期を知らないのだ。
両親はあのころのステラを忘れられないのか、いまもお茶を飲んで少しむせたくらいで医者を呼べだの大騒ぎする。
実家で水なんかかぶろうものなら屋敷中、大混乱になっていたところだ。そういう意味でもクライヴの家に泊まっていてよかったと思う。
「ここのところ、花木の調子がいいそうだ」
クライヴがおもむろに近くのバラの花へそっと触れた。
その姿と言ったら今すぐに画家を呼んでほしいくらい絵になっている。
(クライヴさまってば赤いバラが似合いすぎるんですけど! それになにその植物に向ける優しい顔! ノエルくんにプレゼントしたらきっと喜ぶとか思ってらっしゃる!?)
「ステラ?」
ほう……と見入っていると怪訝そうに振り向かれた。いけない、クライヴを鑑賞しているとすぐに自分の世界に入ってしまう。
「あ、ええ、その、良かったです! 庭師の方もお困りのようでしたから」
「やはりきみが庭師に助言をくれたのだな。植物の手入れについての知識があるとは知らなかった」
「幼い時から植物は好きでしたの」
クライヴの家に住まうようになってから、ノエルが訪ねてきているときは庭で過ごすことも多かった。
本当はふたりの近くにいて、彼らの一挙一動を観察していたかったけれど、ノエルの「邪魔だ、出ていけ」という無言の圧を受けて席を譲ったのだ。
ノエルがクライヴに向ける甘く可愛らしい顔が見たいのに、自分が同席しているとノエルの顔が険しい。
何度、観葉植物になってただただふたりを見守りたいと思ったことか。
ノエルの恋路を邪魔するのもどうかと思って、ふたりきりにしてあげたあとは彼らの組んずほぐれつな様子を想像しつつ、庭を散歩していた。
そのとき、お困りの様子の庭師に会ったのだ。
幼い時の経験と、それからモンステラの記憶。そのときはまだ自分がモンステラから記憶と生命力をもらったことを思い出してはいなかったけれど、深層心理にあったのだろう。
なんだか以前よりも植物の気持ちがわかる気がした。それで肥料を変えたほうがいいだとか、日に当たりすぎているだとかの助言をしたのだ。
その助言のお陰で綺麗なバラが咲き、絵姿に残しておきたい場面殿堂入りなクライヴも見られた。
自分はなんていい仕事をしたのだろう。
「わたしの助言なんかでよければ、これからもどんどん庭の仕事を手伝いますわ! この庭がもっともっと綺麗になったらわたしも嬉しいですもの!」
弾ける笑顔を向けるとクライヴはふいと顔をそらしてしまう。
(あら、ちょっと出しゃばったかしら)
だがその横顔は上気してなんだか怒っているのとも違うような。
「……綺麗だ」
ぽつりと呟かれた言葉は、花に向けて言っているのか、それとも――。
(え、やだ。――今のってノエルくんに!? 絶対そうよね!? 文脈的に!!)
ステラは鼻息を荒くする。
この美しい庭でノエルと過ごすことを想像したのだろう。バラに囲まれたノエルはそれはもう綺麗に決まっている。
バラの咲き乱れる庭園でふたりはなにを話すのか。背の高い生け垣は隠れて手をつなぐのにもぴったりだ。
(待って、月明かりに照らされたバラっていうのもいいわね。そのうち散歩に疲れたふたりが四阿に寝転んで、それから――)
妄想の中に肌色が多くなる。
これは庭師に頼んでさらに見応えのある庭にする必要がある。早急に。クライヴがノエルを臆面もなく誘えるような。
生け垣も今の二倍くらい高くした方がいい。人目を気にせずイチャイチャできるように。これも提案しなければ。
(ああ、でももどかしいわ。ふたりが想い合っていることがわかった今、クライヴさまがノエルくんをどう思っているかその口から聞かせてほしい)
ノエルのどういうところが好きだとか。自分にしか見せない意外な一面があるだとか。そういうことを存分に語ってほしいのに。
残念なのは自分がクライヴの婚約者で、ふたりからすればお邪魔虫ということ。こんな立場じゃ進んで話してはくれないだろう。
「ノエルさまって……すごく綺麗な顔をしてらっしゃいますわよね」
なんとかノロケ話を引き出せないものか。そう考えておそるおそる話を振ってみる。
これで乗ってきてくれればいいのだが。「そんなの当たり前だ」とか「綺麗というよりかわいいだろ」とかとか。
「……ああいう顔立ちが好きなのか?」
返答は、思っていたものとちょっと違っていた。
「いえ、といいますか……ノ、ノエルさまって性格もなんだか可愛らしいところがありますわよね」
「そうか? ステラに対してはあまり感じがよくないと思うのだが」
いまいち乗ってきてくれない。
(わたしに対してとかはどうでもよくて! クライヴさまから見たノエルくんがどうっていうのを聞きたいのに!)
「まさかノエルが好き……なのか?」
「は!?」
まさかすぎる質問に素っ頓狂な声が出た。聞きたいのはこっちである。
クライヴはなんだか不機嫌そうだ。
(えーと、もしかして、自分のノエルくんをとられると思った……とか?)
なるほど、ふたりにとって自分はお邪魔虫の泥棒猫。とすれば、ノエル大好きなクライヴは今度はそちらに魔の手がのびると思ったと言うことか。
(なるほどね、だってノエルくんの魅力にやられない人なんていないものね!)
「安心してください、そのような気持ち、まったく持ち合わせていませんから!」
「そうか」
力強く言えばクライヴは安心したようだった。
(いいもの見ちゃった。独占欲強めのクライヴさま萌え! やっぱりいいわー、当て馬っておいしい……!)
ほくほくしていると生け垣の影から執事が姿を現す。
「クライヴ様、ノエル様がお見えです」
噂をすればなんとやらだ。
最高の燃料が投下された今、ツーショットを眺めたい気もするが、ここは譲ろう。邪魔してばかりだと本当に嫌われてしまう。そうしたらふたりに近づくことすらできなくなる。
「どうぞ、クライヴさま。行ってらして」
「ひとりでか?」
「ええ。ノエルさまもそのおつもりでしょう」
わかってますから、と物わかりのいい笑みをうかべる。クライヴは困惑したようだった。
「ノエルに会うのはやはり嫌か?」
「え? まさか、そんなことは……」
「じゃあ一緒に行ってお茶にしよう。ステラをのけ者にして過ごすつもりはない」
「い、いいんですか……?」
「もちろんだ」
意外な申し出にステラは天にも昇る気持ちだ。
(なんて器の大きさかしら。クライヴさまってば、さっきわたしがノエルくんを横取りしようとした疑惑があるっていうのに、同席を許してくれるなんて……はっ、もしかして、ノエルくんは自分のものだって見せつけるつもり!?)
一体どう見せつけてくれるつもりなのか。期待に足取りは軽くなる。
書斎に入ると、ノエルはステラと目が合った瞬間露骨に嫌そうな顔をした。
「体調はもういいんですね。昨日は倒れたりするからそうとう具合が悪いのかと思いましたけど、大げさだったのでは?」
「ノエル!」
「たしかに少し大げさだったかもしれませんわ。このとおりぴんぴんしていますもの」
モンステラの記憶を思い出したお陰で、心の潤いはいつもの百倍だ。いつもより体調がいいと言っても過言ではない。
ノエルの態度は相変わらずだった。
お茶会が始まってもステラなどまるでいないように振る舞う。
視線はクライヴに釘付けでうっとりと話し掛けている。
それをさらにうっとりとステラは眺めた。
正直、ありがたかった。ノエルにいないものとして扱われると、自分がそれこそ観葉植物としてただの傍観者になったようで。
しかしクライヴはそうはいかないようで、こちらに話し掛けて会話に入れようとしてくれる。
(気を使わなくていいのにな……ほら、ノエルくんだってさっきまでのかわいい顔から鬼の形相に……!)
青筋を立てて恨めしげな視線を向けるノエルはそれでもかわいいけれど。
「あっ、しまった」
わざとらしい台詞とともに、ノエルはテーブルの縁にあった皿をひっくり返す。
――べしゃり。
くるりと一回転して皿はステラの膝の上に着地する。
ほろほろと崩れるスコーンにクロテッドクリーム、それからストロベリージャム。皿がずるりと床に落ちれば、ステラの小花柄のデイドレスにはそれらがべっとりとくっついていた。
飛び散ったものは顔や髪にまで付着して、なんだかベトベトする。
クライヴが青くなって立ち上がった。
「待っていろ! 今侍女を呼んでくる!」
主人自ら部屋を飛び出していったものだから、控えていた使用人たちも大慌てで飛んでいった。
部屋にはステラとノエルがふたり、取り残される。
「みなさん、きっと拭くものを持ってきてくださいますわ。ちょっと待っていましょう」
下手に動くとドレスから落ちたクリームで絨毯を汚してしまいそうだった。
冷静だったステラだが、ノエルの姿を見て反射的に手が伸びる。
「ノエルさま、髪に触れないでください。クリームが少し飛んでいます。触ったらベタベタになってしまいますわ」
ふわふわの金髪にはクロテッドクリームがついている。被害が広がって美しい髪を切るなんてことになってはいけない。ステラは真剣に言い含める。
「はっ、どこまでもいい子ちゃんってわけですか。僕の髪なんてどうでもいいでしょう。あなたのほうこそ髪がベタベタですよ。ご令嬢の大切な髪、もしかして切ることになるのでは?」
「わたしの髪はどうでもいいですわ。ノエルさまの綺麗な髪のほうを心配してください」
「あくまで優等生を貫くつもりですか。誰もいないんだから、少しは本音を見せたっていいんですよ」
ノエルが煽るようなほの暗い笑みを浮かべる。
そう言われても本音はノエルの髪が気になることしかない。――そこまで考えてはっとした。
そうだ、ここには誰もいない。だったら聞きたいことを聞いても許されるのでは?
ノエルだって本音を話せと言ってくれているのだ。
「あの……ノエルさま。ひとつ聞きたいことが」
「どうぞ恨み節ならご自由に」
「クライヴさまに抱かれたのって、どんな感じでしたか」
意地悪く笑っていたノエルは絶句する。
ステラはあくまで真剣だった。
モンステラの記憶でこのふたりが宿で一晩過ごすのを見た。
ノエルがきつく抱きついて、それをクライヴは壊れ物にでも触れるかのようにそっと抱きしめかえす。萌えだった。圧巻の満場一致の萌え場面だった。
けれどそのあとの肝心な部分が見えなかったのだ。
クライヴがカーテンを閉めてしまったから。
ずぼらな店主が掃除のときに出窓の外側にモンステラを置いてそのままにしていたから、カーテンをひくとモンステラは閉め出されてしまうのだ。
結局、またふたりの姿を見られたのは夜が明けてカーテンが開かれてから。
そのときのふたりはいかにもなにかありました、というようなそわそわとどこか落ち着かない態度で去って行った。
想像力がかき立てられる非常にいい場面ではあったけれど。そこまで見たらやっぱり最後まで見たかった。
「クライヴさまって触れるときには優しいのかしら。それとも、がっついちゃう感じ……? あの、差し支えなければどんな様子だったか教えてもらえませんこと? 上手だったとか、意外と不慣れで可愛らしかったとか、存分に自慢していたければ大変捗るのですけれど」
「な、な、な……」
ノエルは顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。
「もちろん口外はいたしません。ふたりだからとお気遣いいただいたのですもの。ここだけの秘密にしますから」
そのときクライブが駆け込んでくる。
「ステラ! 侍女に湯を用意させた。今すぐ湯浴みして肌も髪も整えてくれ。ドレスはすまないが、必ず新しいものを用意させるから」
「だったら先にノエルさまを。髪が汚れてしまったのは同じですから」
「しかし君のほうが汚れがひどい。それに女性の身体を汚したままにはできない」
「でも――」
「僕は帰ります!」
押し問答しているとノエルが立ち上がる。
耳まで真っ赤になって、その大きな目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
いじめられました、みたいな顔にぎゅんっと鼓動が速くなる。
(やだ、はじめて見る顔だわ! なんて嗜虐心をくすぐるんでしょう……こんなのクライヴさまが見たらひとたまりもないんじゃ)
しかしクライヴはちらりとノエルを見ただけでステラに視線を戻してしまう。
(……あら?)
「ノエルが帰るらしい。馬車の用意をしてやってくれ」
「わたしのことはよろしいので、ノエルさまをお見送りなされては?」
従者に言いつけるクライヴに思わず割って入るが、きっぱりと首を振られる。
「今はステラが優先に決まっている」
これはどういうことだろう。本当はノエルのもとに駆けつけたいのに、紳士としての常識が邪魔をしている、ということだろうか。
「ノエルが……すまなかった」
クライヴはしゅんとうなだれる。
これも水と一緒で、ノエルがわざとやったことだ。そんなのはステラとて百も承知。
「ええ、全然気にしてませ――」
「あいつを恨まないでほしい。悪いのは、俺だから」
ぎゅんっ。ステラの心臓がふたたび打ち抜かれる。
(そ、そういうことでしたの! ここに残ったのは、ノエルくんのフォローをするため! そうですわよね、わたしが恨みを持ったらノエルくんに危害を加えるかも……こうやってノエルくんを守ろうとしてるんですわ!)
「俺が曖昧な態度だから、ノエルがああして怒って……」
本当はノエルに嫉妬からくる行動をやめさせたいのだろう。
「そして俺も……恋に積極的になれない」
「っ……!?」
悩ましげなクライヴの口から出た「恋」という単語は破壊力抜群だった。
立場上ステラとの婚約を断れない。そのせいでノエルにつらい思いをさせて、今すぐにでもノエルと結ばれたいのにそれもかなわない。
クライヴの口からそんな葛藤を聞けるなんて。
この切なくも最高に萌えな恋を最前列で観測させていただていることに思わず神に感謝した。
「クライヴさま、わたしが言うことじゃないでしょうが、本当に心から同情いたしますわ。どうか自分を責めないで。そしてご自身の最善を選び取ってくださいませね」
はやくノエルくんとくっつけ。乱暴に言ってしまえばこうである。
クライヴは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと口元をほころばせた。
「本当に、ステラは優しいな。心が洗われるようだ」
眉を下げて、少し困ったような笑み。
それを近距離で、自分に向けて。
「っ!」
心臓がどくんと早鐘を打つ。
顔がじわりと上気したのがわかった。
これはなんだか今までの萌えの興奮とは違うような。
(やだ、クライヴさまってばスーパー攻め様すぎて、わたしまでときめかせてどうするのかしら。そういう表情はノエルくんだけに見せればいいのに)
そういえば、クライヴの笑顔をまともに見るのはこれが初めてかもしれない。
彼はいつもどこか思い詰めた表情をしていたから。
一瞬だけ見てしまった柔らかな笑みが頭から離れなくて、心臓はばくばくと早いままだった。
さて、王都は社交界シーズンである。
ステラはクライヴのエスコートで、王城で開かれる舞踏会に出席していた。
ホールに着くとクライヴの肘に添えていた手をやんわりと離す。
きょろきょろとあたりを見回すが、幸いにもノエルの姿はなかった。こんなところノエルに見られたら申し訳ない。
ただでさえ、自分の役割は泥棒猫のお邪魔虫。充分わきまえているはずなのに、先日はついクライヴに単体でときめくなどという失態を犯してしまった。まるでノエルに対する裏切り行為を働いたようでなんだか居心地が悪いのだ。
(ごめんね、ノエルくん。クライヴさまをとろうなんてこれっぽちも思ってませんからね……!)
あれから数日経ったが、ノエルはクライヴの家を訪れることはなかった。
さすがにやりすぎた。あんな直接的な質問、破廉恥すぎる。奥ゆかしいノエルくんがふたりの初夜について口外するはずないのに。
自分は今やお邪魔虫兼デリカシーのかけらもない破廉恥女として認識されているだろう。自分がいるからクライヴに会いに来られなくなったのだとしたら申し訳ないことこの上ない。
今日の舞踏会にはノエルも出席しているはずなのだ。せめて、破廉恥な質問をしたことは謝らなければ。
「クライヴさま、手分けしてノエルさまを探しませんこと?」
「……なぜだ?」
乗ってくると思ったのに、クライヴは不思議そうに眉をひそめている。
「なぜって、数日会ってないんですのよ。積もる話があるのでは?」
「いや、特に……」
そんなわけないでしょうと詰め寄りたくなる。
あのノエルくんに会えなくて寂しくないの!? と。
「それより、踊らないか?」
「は?」
思わず低い声が出た。
ホールでは音楽隊が演奏をはじめ、数組がすでに踊っている。
だからといってなにが「それより」? 今、ノエルくんを探すより大事なことって、ある?
「念のために聞きますけれど、なぜダンスを?」
「なぜ? 舞踏会だから……?」
「どうして、わたしと?」
「それは、その……婚約者、だから……」
しどろもどろな回答にぶちっとなにが切れる音がした。
「最っ低ですわ!」
ふいっと顔を背けると、クライヴをその場に残してホールを出た。
(婚約者だからダンスするなんて、そんなのノエルくんがかわいそう!!)
ステラは憤慨しながら、令嬢らしからぬ足取りでどすどすと歩く。
自分とクライヴが踊る姿をノエルが見たらどう思うのだろう。
ただでさえここのところクライヴとふたりで会えてもいないのに、そんなシーンを見たらショックを受けるに決まっている。
(さすがにデリカシーに欠けますわ。わたしのことなんか放っておいてなによりもまずノエルくんに会うべきでしょう!?)
怒りの感情冷めやらぬままに廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえてくる。
威張り散らしたような太い大声だ。なにごとかと顔を覗かせると、そこには数人の男に相対するノエルがいた。
さっきまでの怒りはどこへやら、久しぶりに見たノエルの姿に顔がだらしなくほころぶ。
(えへへ、ノエルくん、後ろ姿すらかわいい。あの華奢な背中、たまりませんわ)
上背のある男たちに囲まれているとそれが余計に強調される。囲んでいる男たちはなかなかいい仕事をした。
「いくつになってもお前はちびのままだな。顔もずっと女みたいだしよ」
はじめは輪になって話し込んでいるのかと思ったが、なじられているといったほうがしっくりくる状況だった。
男の中でもひときわ上背のあるひとりが、ノエルになんだか嫌味を言っている。ほかの男たちは取り巻きらしく、男の嫌味ににやにやと下卑た笑いを浮かべている。
「お前こそ、背くらいしかとりえがないからって」
「ふん、負け惜しみを。背のせいで騎士団に入れなかったくせに」
そうなのだ。ノエルは今は文官見習いとして同世代の中じゃ出世している方だが、元々は騎士団へ入ることを望んでいた。入団試験で筆記の方は一番だったのに、実技は散々な出来で、体格のこともあり、将来性がないとして入団することができなかったのだ。
(それもクライヴさまと同じ騎士団に入って手助けをしたかったからなのに。なんてけなげなのかしら。でも、ひ弱なノエルたんはやっぱり大正解なわけで……)
考えているうちに、思いだした。
ノエルをなじっているあの男に見覚えがあると思っていたのだ。
「……チャーリー!」
ステラの叫び声にノエルたちがみなこちらに注目する。
そうだ、思いだした、チャーリーだ。
「あなた10年前と変わりすぎじゃなくて!?」
驚きのままステラは彼らの前にずんずん歩み寄っていく。
チャーリーはモンステラの記憶にあった、パブリックスクールの生徒だ。ノエルとは同学年だったはず。
当時はノエル以上にひ弱で華奢で骨と皮だけだった彼が、今ではノエルより10センチ以上背が高くなり、筋肉隆々の男性になっている。
あれから努力したのね、とほろりとしそうになるが、ちょっと待って欲しい。
「あなたメガネはどうしたの? 貴重なメガネ属性が!」
ステラが悲鳴を上げると、チャーリーは恐ろしいものを見たかのように一歩後ずさる。
「なぜメガネを掛けていたと知っている……? あれはパブリックスクール時代だけで……」
「もったいないですわ! あなたメガネを掛けていないとそのへんに躓いて転んでばかりだったじゃない! あのドジっ子かわいかったのに!」
そう、モンステラの記憶では、宿でそういうことになったとき――具体的にはお相手からメガネを外されてキス、なんてことになったとき。そこからは浴室に行こうとすれば転び、柱に顔をぶつけと頼りなさ全開でお相手の庇護欲をくすぐっていた。
はた、とステラは気づく。
「あの……ロビンソン先生とはどうなりまして?」
声を潜めれば、チャーリーはかっと顔を赤くする。そしてそのあと真っ青になった。
「ど、どうしてそれを……」
どうしてもなにも、モンステラの記憶で見たこのカップル、忘れられるはずもない。
守ってあげたくなるドジっ子メガネくんのお相手は、なんと古典の教師。腹回りの肉が重そうなロビンソン先生なのだ。
ロビンソンの見た目は正直ステラのストライクゾーン外なのだが、教師と生徒という禁断の愛は非常に好みである。
「まさか、お別れを……? 所詮、先生との関係は学生時代だけだったってことですの? そんなの切なすぎますわっ!」
「し、知るかそんなのっ。あ、あ、あれは若いときの気の迷いで、俺は……っ、女が抱けるんだ……! お、俺は、ど、ど、童貞なんかじゃ……っ!」
「ああっ、待ってください……」
引き留める手もむなしく、チャーリーは走り去っていく。その目には微かに涙が浮かんでいたような。
屈強な男の涙目っていいかもしれませんわ、なんて思っている横を取り巻きたちも後を追っていく。
「またやってしまいましたわ……っ」
ただ事情を聞くつもりが逃げられてしまった。本当に聞くだけなのに。悪用しないのにっ。
ステラは歯噛みして悔しがる。
「……驚いた。あんたみたいな令嬢がチャーリーを撃退するなんて」
「え、あ、大丈夫でして? ごめんなさい、お話し中に割り込んで」
「正直助かりました。チャーリーのやつ、いまだにスクール時代のノリで絡んでくるから参ってしまいます。当時自分と同じくらいひょろかった僕を勝手にライバル視してるらしくて、僕が騎士団に落ちて自分は入れたものだから、それが嬉しくてしかたないんだ」
ノエルはどこか寂しそうだ。やはり騎士団に入れなかったことはいまだに悔しいらしい。
「あ、あの。クライヴさまを呼んできましょうか?」
「どうして」
ステラの申し出に、ノエルは目を丸くする。
落ち込んでいるときには好きな人が近くにいてほしいのではと思ったのだが。
(ああ、でもさっき怒鳴りつけてしまったから呼びに行くのが少し気まずいですわ……)
逡巡しているとノエルが大きくため息をつく。
「……結構です。元クラスメイトにいまだにいじめられてるなんてクライヴに知られたくない」
「え、あ、そうですわよね」
「あなたって本当に男心が分からないんですね」
「面目ありませんわ……」
気を回したつもりがとんだおせっかいだったらしい。
ノエルの言葉はそのとおりで、男性たちを観察するのは大好きなステラだが、彼らの気持ちをわかっているかといわれれば自信はない。
だって、自分がしているのは基本的には好き勝手な妄想ばかりだから。
「……でも、僕もあなたがなにを考えているのかわからない」
「え?」
「どうして怒らないんですか。僕はあなたにひどいことをたくさんしてきた」
「と言われましても、怒る理由がありませんもの」
水をかけられたり、皿をぶちまけられたり。
それらはすべて――。
「ノエルさまはクライヴさまが好きなんですものね? いくら男心がわからないといえど、これが違ったら落ち込みますわ……」
祈るようにノエルを見つめると、引き結んでいたノエルの口元がふっと緩む。
「かなわないな」
「え?」
「そこまでわかっていて、お邪魔虫の僕を怒らないんだ。そしてクライヴと会わせてくれようとしている? 一体あなたはどこまで懐が大きいんですか」
ノエルくんがお邪魔虫?
不思議に思っていると、天を仰いでいたノエルがこちらをまっすぐに見据える。
「クライヴに抱かれたと言いましたよね。――あれは嘘です」
「えっ」
嘘です。嘘です。嘘です。
ノエルの言葉が頭の中に反響する。
(せっかくの公式が……あの宿での素敵な一夜は……)
ショックすぎてその場に立ち尽くすしかない。
では今まで自分が思い描いていた彼らのめくるめく関係は一体……。
「ステラ嬢、あなたが優しいってこと、よくわかりました。優しいついでに付き合ってもらえませんか」
いきなり手を取られて、拒否する間もなくぐいぐいと引っ張られる。
衝撃から立ち直れないなか、どこをどう歩いたのか分からないままに、気づけば外に出ていた。
そのままノエルは広大な庭を分け入り、噴水まで来る。
その縁に腰掛けていたのはクライヴだった。横顔に憂いを含んで、水面を眺めている。
「クライヴ」
ノエルの呼びかけに顔を上げたクライヴは、こちらを見て盛大に顔をしかめた。
その視線が自分の手元に注がれているのに気づいて慌ててノエルの手をふりほどこうとする。
「あ、あのですね、これは違うんです。決して泥棒猫なんかじゃ」
しかしぶんぶんと振り回してもノエルの力が強くて離してくれない。
このままじゃ誤解を生みますよ!? と彼の方へ視線を送るけれど、ノエルはまっすぐにクライヴを見つめたままだ。
そして、気づく。ノエルの手が微かに震えていることに。
(ノエルくん……?)
きゅっと強く握られれば、振りほどこうなんて思えなくなった。その手はなんだか頼りなくて、すがりついているようで。
「クライヴ、話があります」
硬い声からは緊張が見て取れる。
「あなたが好きです」
(えっ)
その言葉にステラは手を強く握っていた。
というか、興奮しすぎて握力をこめずにいられなかった。
(もしかして、わたしがお邪魔虫だったわけではなくて、10年前から勇気が出せなくてじれじれな関係のままだった、ってことですの? それが今決着をむかえるわけですね!?)
告白するなら婚約者であるステラの前で正々堂々と、ということか。
最高だ。たまたまクライヴの婚約者だったことで、推しカップルが結ばれるところを最前列で見学できる。
「僕は10年前お願いしましたよね、一度でいいから抱いて欲しいと。けれど、あなたはそうしなかった。僕を抱きしめて眠ってくれただけで……だから僕は、抱かれるまで諦め切れないと、それをあなたの側にいる口実として使っていました。クライヴの優しさに甘えていたんです。改めて告白する勇気がなくて」
「ノエル……」
「でも、もうそんな自分が嫌になりました。ステラ嬢の優しさと心の広さに、そんなこざかしいことをしている自分が情け無くなった。だから、言います。――ずっとずっと、あなたが好きでした」
なんて答えるのだろう。もしかして、いきなり抱きしめるとか? ステラは固唾を呑んで見守る。
クライヴは立ち上がるとノエルに近づいてきて――。
「すまない」
深々と頭を下げた。
「俺の方こそ、もっとはっきりとした態度を取るべきだった。お前はかわいい後輩で、だから傷つけたくないと思っていたが……そんなのは甘えだった。お前の気持ちに気づきながら10年も曖昧な態度をとって本当にすまなかった。――お前の気持ちには応えられない」
「……へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「わかりました」
けれど、ノエルの顔は今まで見たどのノエルよりも綺麗で。まるでひまわりのような晴れやかな笑顔に目を奪われる。
いつもは硬く強張っているクライヴの顔も、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「もっと早く言っていればよかったです。こんなにすっきりした気持ちになるのなら」
「俺もだ」
「クライヴ、これからはまたかわいい後輩として扱ってくれませんか。文官として得た知識、きっと騎士団の仕事にも役立つと思うんです」
「願ってもない。お前の手腕にはスクールのころから期待していたんだ。ともに協力していこう」
なんだか納得しているふたりの横でステラだけが混乱していた。
(振られた? なんで? ノエルくんが?)
10年越しの両片思いは?
頭にはハテナマークだけが浮かぶ。
「ステラ嬢、あなたにも今までの非礼を詫びたい。本当にすみませんでした。あなたなら、クライヴの相手にふさわしい。これからは心から応援させてください」
「いや、そんな……」
そしてノエルは跪くと、そっとステラの手を取り指先に口づけを落とす。
「おい、ノエル」
「今のは親愛の証です」
「まったく、目の離せないやつだ」
なんだか推しカップルだけがなごやかだ。付き合ってないのに。
「じゃあ、あとはおふたりに譲ります」
ひらりと手を振るといい笑顔のままノエルは去って行く。
「ステラは本当にすごいな」
「え、はい?」
「10年間膠着していた俺たちの関係を一瞬で溶かしてしまった」
クライヴにもいい笑顔を向けられるが、自覚は当然ない。
なにがどうしてこうなった?
「あ、あの、おふたりって……本当に特別な関係ではないんですか?」
「ああ、心配させてしまったな。さっきノエルが話した通りだ。あいつはスクール時代から俺を好きでいてくれて、俺はかわいい後輩だったノエルを突き放せなかった。一度抱いたら諦めると言われて宿までは行ったのだが、どうしてもその先はできなくて、中途半端な関係のまま10年が経ってしまった。ノエルもつらかったろうし……俺も、ノエルのことがあるのに、積極的に恋愛をしようとは思えなくて」
ああ、以前言っていた「恋愛に積極的になれない」ってそういう。
(ノエルくんに対してではなく、ノエルくんのことが解決してないからっていう……)
「大丈夫か? 泣いてないか?」
「いいえ、見間違いですわ」
ステラは令嬢らしからぬ所作と分かっていてもずびっと鼻をすすった。
泣いてない。だってまだ諦めない。
頼れる先輩とかわいい後輩からその先の関係に進むって可能性がないわけじゃないし。……10年間なかったわけだけど、うう。
「やっと俺も、これで次に進める」
クライヴはふっと目を細めるとステラの指先に軽く口づけを落とした。
ちゅっというリップ音が、夜の庭に響いた気がした。
「……へっ!?」
未練がましく二人の関係性に希望を見いだそうとしていたステラだったが、これには意識をこちらに引き戻せざるを得ない。
「な、な……!?」
「ノエルだけはずるいだろう」
「いや、えっ!?」
流し目のまま、今度は手首に唇を寄せられる。
そんなクライヴはかっこよくて、今まで見たどのクライヴよりもスーパー攻め様で。
自分にそんな最高の表情を向けてどうする!? と困惑すると同時に、どうしようもなくときめく自分もいて。
「これからは思う存分、婚約者殿にアプローチできる」
わあ、意外とクライブさまって肉食系だったんだあ、なんて思いつつ。
推しを観察しているのとはまた別のどきどきを感じる心臓に混乱しつつ。
クライヴのこんな顔が見られるなら、婚約者っていうのも悪くはないかも、と思ったりもしてしまうのだった。
読んでいただきありがとうございました!
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