「特工王」戴笠
仏領印度支那の河内(現ベトナム・ハノイ)に、一人の男が降り立った。のっぺりとした平凡な顔つきで、彼と会った人が特徴を尋ねられても、おそらく「中年の東洋人」という以上に答えられることはないだろう。
印度支那の支配者であるフランス人の入国審査官に彼が差し出した中華民国の旅券には、「何永年」との氏名が記載されている。
フォード製の小型自動車で中国総領事館や、現地で長年商売を営む華僑の邸宅を訪ねる姿は、商人の出張、といった風だが、この男こそ、蒋介石政権最大の特務機関、「軍事委員会調査統計局」略して「軍統」の副局長、「特工王」の異名をとる何永年こと戴笠である。
常識から言えば、特務機関、ましてや暗殺を得意技とする組織の責任者はそうそう外国へは行かない。全体の指揮をとらねばならない立場である、というのはもちろん、なんとなれば凶悪犯罪者として逮捕される危険性があるからだ。
当然、戴笠にこのような冒険をさせたのには、十分な理由がある。
――汪精衛をやれ
命令を下したのは、国民政府の最高指導者たる蒋介石である。
標的は汪精衛、日本では号の「精衛」よりも名の「兆銘」の方がよく知られている。中国国民党の指導権は軍人の蒋介石が掌握しているが、国民党の「党人」の代表格は汪精衛であると言っても過言ではない。
国民党の創始者たる孫中山の死後、国民党内部で何度も主導権争いを繰り返し、政権が分裂することも珍しくなかったが、国民革命軍を握る蒋介石に対抗する政客や地方軍閥は、毎度決まって汪精衛を担いできた。なんなら、孫中山から直接権力を継承した汪精衛を一度追い出したのは蒋介石だった、つまり汪精衛は自他ともに認める蒋介石に次ぐ人物である。
その汪精衛が、あろうことか徹底抗戦を叫ぶ蒋介石に背を向けて「抗戦首都」重慶から逃亡、仏印河内に潜伏し、日本と和平交渉すべしと声明している。
要は、最も裏切るべきではない人物が裏切ったのだ。重慶では汪の全ての官職を免じ、以後文書では官職の代わりに「逆賊」の「逆」をつけ、「汪逆精衛」と呼称されることとなった。
蒋介石は他の者を河内へ派遣してはと言ったが、戴笠は自分で行くことにした。この任務が、あまりにも困難だからだ。
これまで数多の政敵を消してきた戴笠が考えるに、暗殺とは周到に周到を重ねるべき仕事である。しかるに印度支那河内は、当然組織はない、地理不案内、言葉も習慣もわからない、現地に何のコネもない、信頼できる現地の実行人員もいない、武器も正規のルートでは持ち込めない、ないないづくしだ。おまけに、汪精衛暗殺を日本はもちろん、自身の管轄下にあるフランス官憲も厳重に警戒していると見なければならない。最悪の条件とはこのことを言う。
ついでながら、汪精衛は四年ほど前の中国国民党第五次全国代表大会で侠客が放った刺客から三発銃弾を撃ち込まれ、「襲撃された国民党要人としては初めて命を保った」という快挙を達成した、幸運の持ち主である。
戴笠は河内出張の仕上げに河内市内にある洋館を訪れ、隊長の陳恭樹以下、河内行動隊の全体会議を開いた。陳恭樹はこれまで幾多の要人暗殺を成功させてきた、天津の責任者であり、直近では、やはり日本の傀儡となった政客、王克敏をあの世へ送っている。
計画内容、枠割分担について詳細に打ち合わせを終えると、戴笠は眉一つ動かさない無表情で静かに、しかし腹の底から響くような声で、会議を結んだ。
「これは汪逆に制裁を加える、またとない機会だ。必ずや結果を出さねばならない――
――さもないと我々も、ろくな死に方をしないことになる」