目には目をテロにはテロを
上海憲兵隊特高課長、林秀澄少佐は、やや苛立ちながら自動車の後部座席に座りつつ、灰色の冬曇りにある上海虹口の高楼大廈を横目に見ていた。
苛立っている理由は、二つある。まず一つは、重慶、つまり蒋介石陣営のテロ攻勢である。
傀儡政権の首班として担ごうとした唐紹儀が自宅で殺されたのを皮切りとして、日本軍人や日本軍に協力する中国人への襲撃事件があとを絶たない。死んだ唐紹儀に代り梁鴻志を首班として親日政権、中華民国維新政府が成立したが、今月も外交部長陳籙が暗殺されている。
昭和十四年に入ってからまだ二カ月にもならないが、年明け以降だけでも四十件以上の襲撃事件が発生、これまでの累計だと犠牲者は軽く百人を超えている。目標にされているのは、日本軍人や商人はもちろん、日本側新政権や日本軍に協力的な租界の役人から、親日的な中国商人まで、要は上海にいる「日本側」の全ての人間だ。
事件が発生するたびに犯人はそこそこ検挙できているものの、こういったテロにおいて実行犯とは銃弾のようなものである。屍体から鉛玉を取り出したところで、次に発生する事件は防止し得ない。
政治関係の犯罪を取り扱う特高課とは、まさに犯人の背後にある組織を炙り出し、無力化することによって、テロを未然に防ぐことを主な任務としているのだが、上海の敵国民党組織には憲兵隊の手がまったく届いておらず、上海憲兵隊、ことに特高課は鼎の軽重を問われている。
二つ目の理由は、これからの用件である。上海憲兵隊本部から北四川路を車で五分ほど走った辺りに事務所を構える土肥原機関に身を置く、陸軍士官学校同期の晴気慶胤少佐から呼び出された。重慶の特務機関を一網打尽とするにあたり、有力な協力者がおり、ついてはその人物に関する憲兵隊の資料を寄越せとのことだ。
問題はその人物である。丁黙邨については目ぼしい資料がなかったが、李士群については滬西憲兵分隊(「滬」は上海の略称)が密偵として利用している。「信頼できる人物」とあるものの、憲兵上等兵の使いっぱしりをしているような人物に、何ができるというのだろう。
虹口新公園を過ぎたところにある二階建の洋館に春気少佐を訪ねると、春気は人の良さそうな貴公子じみた童顔に緊張感をにじませて、林特高課長を迎えた。
「やあ、忙しい中すまないね。まずはこれを見てくれ」
挨拶もそこそこに、春気は大きな模造紙を机の上に拡げ、それをひと目見た林は、思わず悲鳴ともつかぬため息を漏らした。
「なんだこれは、上海抗戦団体一覧表……上海の国民党組織、抗日団体、共産党組織、維新政府や各機関に張り巡らせた軍当局のスパイ網、全部一目瞭然じゃないか」
「どうだ、凄いだろう」
子供のようなセリフだが、普段冷静沈着で通っている林も、欲しかった玩具を目の前にした子供のように、はしゃぐ気持ちを抑えられない。
「凄いも何も、信じられない。憲兵隊は総力を挙げて重慶特務機関の実態解明をやっているが、この半分、いや、軍統の調査に至ってはまったく進んでいないからな。まさか、丁黙邨と李士群という男がこれを持ってきたのか」
「そうだ。お前がそこまで驚くところを見ると、やはりこれは本物だな」
「恐れ入った。まずは話を詳しく聞かせてくれ」
「丁黙邨と李士群は、国民党が日本との事変を継続することは共産党を利すばかりで、ついには国民党、中国を滅ぼすと心配している」
昭和十一年、張学良が蒋介石を軟禁して共産党と合作しての抗日を強要する西安事件が発生してより、国民党と共産党は合作関係にあるが、この両党は宿敵同士であり、国民党に不満分子が多いことは日本でもよく知られている。
「国民党から共産党贔屓の頑固派を追放して党を更正しようとしているわけだが、そこで、上海の軍統をやっつけ、上海市の国民党組織をそっくり引き抜こうと考えているそうだ。『上海特工計画書』という、立派な計画まで立てている。もとは独自に取り掛かっていたが、資金面で行き詰まり、うちの機関へ協力を要請してきたわけだ」
その特工計画というのは、軍統、市党部の情報を収集、敵の組織を奪取し、敵が暴力を行使すれば徹底的に報復、以て抗戦派を打倒して国民党を更正改組し、和平中国を建設するものであり、半年後に国民党全国代表大会を招集しての実現を目標にしているという。
彼らの要求は、毎月の資金援助と、行動隊の武装のため、拳銃三百挺と爆薬の提供であり、行動隊の人員は彼らが幇会、つまり任侠の徒を募ってまずは頭数を揃えるのだ――
春気はここまで、一気に説明した。
「つまり、こちら側も軍統のような組織を養って、テロにはテロで対抗するということか」
「俺も乱暴な計画だと思うが、これが中国でのやり方だと言うからね。実際、敵は中国で中国人の組織が根を張ってやっているわけだから、これは中国人でないと対処できないじゃないか」
これには林は一言もなく、やや顔をしかめながらタバコを口に加えてマッチを擦ると、春気が「いや、憲兵隊をけなしているわけじゃないがね」と付け加えた。
「これを、土肥原機関でやるというのか。事変下とは言え、明らかに犯罪だぞ。市民を巻き込むことになれば、英米、それにフランスも黙っていない」
上海共同租界は英国を中心とした列強と重慶の国民政府が共同で管理しており、英軍、イタリア軍、米軍、それに日本軍が警備を分担している。仏租界はもちろんフランスの管理下にある。
「もちろんその点は、こちらも考えている。資金や兵器の援助にとどめ、あくまでも彼らが彼ら自身の国民党更生運動をしている、という原則だ」
「うん、それなら憲兵隊も次第によっては協力できるだろう。問題は、その丁黙邨と李士群は信用できそうな人物なのか」
春気はまず丁黙邨について、CC団(後の「中統」)系出身、軍統局幹部として文化工作をしていたが、事変勃発後、抗戦に反対したため解任され香港へ亡命していた後、李士群に呼び寄せられたという人定事項を説明した後、少し唸ってから話を続けた。
「丁黙邨という男は、蛇のような目つきもそうだが、興奮しやすいようで、少し危なっかしいね。土肥原中将の話は遮るし、日本を侵略者だとか、もともとは心から日本を呪って真っ先に日本に復讐すると誓ったとか、聞いていてヒヤヒヤしたよ。ただ、テロには一殺多生を願う涙がないといけないとか、犠牲を悼むゆかしさが必要だとか言っていて、案外優しい心があるのだなと感心したよ」
「いちばん人殺しに向いた性格だな。嫌々と言いながら義務感で殺す人間が、いちばん躊躇なく人を殺す。李士群はどうだ」
ウラジオストック東方大学に留学した元共産党員、国民党へ転向後は丁と同じようにCC団を経て軍統局入りし、党の地下工作を担当。抗日戦争の前途を悲観して重慶を逃れ上海に戻り今の運動をしている、と説明してから、人物評に移った。
「李は信用できるよ。家を訪ねたら、目に入れても痛くないというほど可愛がっている息子を、俺の手元において教育して欲しいとまで言うんだから。断るのに苦労したよ。丁をうまくたしなめながらも、丁を立てるし。それに、我々が協力の姿勢を示すと、『アリカトコサイマス』と、下手な日本語で言うんだ、涙を流しながらね」
「なんだ、随分惚れ込んでいるみたいだな。憲兵隊の資料でも信用できる人物とあるが、月給四十円で憲兵隊の密偵をしている男だぞ。よほどカネに困っているのかも知れん。大丈夫かい」
「冗談じゃない、小さいとは言え、造船会社を経営している敏腕青年実業家で、三十万円ほど貯めているらしいよ」
「なんだって」
「いや、これは確かだ。俺は李の家へ行ったが、滬西の大西路に立派な屋敷を構えている。丁黙邨の夫婦も居候しているが、どうも丁がかつての部下の李の裕福な暮らしに引け目を感じているみたいだったし、あれは見せかけじゃないと思うよ」
林特高課長は、唖然とせざるを得なかった。それを見つめる春気が僅かに浮かべている笑みも、得意げというよりは、やや空恐ろしさに引きつっているように見える。
「李士群は、確かに本物の人物だな。青年実業家が使いっぱしりか。並の人間は、そこまで自分を殺すことができない」
春気は、黙って頷いた。
「目的はなんだろうか」
林は、春気へとも、独り言かもつかず、ポツリとこぼした。「国民党更正のため」とは言っているが――
まるで得体のしれない底なし沼へと引きずり込まれていくかのような不安はあるが、それに「軍統特務覆滅」という高揚感が入り混じり、林は背中に恐怖とも快感とも知れぬ戦慄を覚えた。