「これは異なことを」っていつか言ってみたい
「これからずっと一緒か、いま一緒に死ぬか、どっちがいい?」
そんな話を切り出した彼の様子は、いやに真剣に感じられた。思いつめたのか、何かに触発されたのか。何にせよ、甘い話というつもりではないらしい。
「どっちだって、私はやるよ」
こちらとしては寝耳に水の話である。強く否定こそしないけれど、どちらかを選ぶというのは急には出来なかった。
けれど、彼はそれでは納得出来なかったようである。
「どっちがいいか、って聞いてるんだけど」
思いのほか、事態は深刻と見えた。作業の手を止めて、私は彼に向き直る。
「どっちか、考えなくちゃいけないんだね?」
「そうして欲しい」
私は唸った。いま死ぬか、ずっと生きるか。死ぬのは怖いが、それが彼の望みだというなら彼岸まで付き合うくらいの愛と覚悟はあった。一応、それを選んでも良い気はした。勿論怖いし、可能なら避けたい道ではあるが、どうしてもとなれば思いに応える気持ちはある。
ならば生きることはそれより良いのか悪いのかが大事になる。実際、どうだろう? 一緒に生きるしかなくなることは死より軽いと言えるだろうか?
うん、決して軽くはないぞ、と心中私は即答した。可能性があるからこその人生から、彼と生きる以外の未来を剪定する。私から、彼と生きるために生きるという以外の人生の意味が全く失われる。それは死の恐怖に匹敵する恐怖だった。
考えれば考えるほど、どうでもいい問いである。どちらを選ぼうが、私の人生の状態は決断した一方の状態で固定されてしまうではないか? 生死の差こそあれ、どっちも積極的に選びたくはないと感じた。
「うーん、やっぱり選べないよ。フェアな問いじゃないね、これ」
彼は眉根に皺を寄せた。
「どういうこと」
「どっちも結局私に自由はないってこと。要するに、私に変わらないで欲しいってことでしょう。出来るだけ、私は変わる余地を捨てたくないの」
図星を突かれて黙るかな、と思ったら、彼はすぐに反論をしてきた。
「どうして変わる余地なんて持っていたいんだ?」
「どうして」
これまた厄介な問いだ。いざ問われるとどう答えたものか悩んでしまう。私は少し考えて、答えた。
「私は人形じゃないから、とか」
これでも、私は一応人間をやらせてもらっている。人間である以上、自由な意識というものがあるだろう。その意識が変わらなくなったらもうそれは人間とは言えないではないか。
そんなことをたどたどしく語った。正直、この答弁に私は意義を見出していなかった。可能な限り早く作業に戻りたい、この話を切り上げたいと思っていた。この話題へのなけなしの興味を絞り出して、私は彼の問いになるべく誠実に答えた。
「そうか」
まるで興味がないように、彼は言った。
「じゃあ、別れよう」
ああ、そうなるのか。意外だった。将棋で一手読み違えたような感覚。一歩先の穴に気付いていなかったな、という後悔。
しかし、覆水は盆に返らないものだ。それに、言われてみれば、私もそんな気分だった。
「うん」
私は了承した。そして、さっきまで放りっぱなしにしていた作業に戻った。締切が近いので、いい加減急ぐ。ペース的には間に合うか微妙だった。全体図が明瞭でないのがとてもまずい。しかし、全体図からディテールを凝るほどの時間はもう残っていなかった。
「おい」
声をかけられて、私はそろそろ不機嫌だった。もう興味は絞り尽くした。これ以上愛想よく議論に付き合うつもりはない。
「何」
「引き止めるとか、無いのか」
これは異なことを仰る。
「あなたは私を変えたくない、私は変わる余地を残したい。どっちも譲歩出来ないんだから、仕方ないでしょう。それに別れるって言い出したのはあなただし。振られた側なんだよ、私」
「じゃあ、反論とか」
「うん、って言ったと思うけど。私はあなたの提案を飲んだし、あなたは提案が通って、それで決着。ところで、いい加減私の部屋から出ていってもらえないなら、私は人生で初めて110番に電話することになるけど」
私は背を向けて、今度こそ作業に戻った。何事か喚いた声が聞こえた気もしたが、ヘッドホンをつけた私の耳には内容までは届かなかった。
これでも、私は一応人間をやらせてもらっている。私なりに二人の関係には真剣だったし、こうして一人を噛みしめれば寂しさの滲むこともある。
いや、これも異なことか。冷徹に弁明を遮ったのは私である。修復を試みれば、或いは着地点を発見できたかもしれない。そう、お互いの変わるという言葉の定義を確認するとか。
本当に、奇跡的かつ致命的に言葉が噛み合わなかったのだ。本当にそれだけ。
何か教訓を得るべき事例な気もしたが、まだ血が溢れる傷跡に何を学ぶことが出来るだろうか。かさぶたが傷を塞ぐまで、私はこの出来事を考えないことにした。