第十七話 ある冬の日の二人
空が茜色から闇に変わっていく様を、ローイックは宮殿裏で眺めていた。冬の白い風が、ローイックの伸びた茶色い髪を巻き上げていく。支給された黒く分厚い防寒着に身を包み、キャスリーンを待っていたのだ。
だが、今日はキャスリーンは来なかった。皇女ならば忙しいだろう。彼女が身分をばらしたわけでは無いが、ローイックは彼女が皇女であるとは知っていた。
「まぁ、これだけ寒いと、ね」
ローイックは腰壁に頬杖を突き、寒さに震えていた。気温も低く、体が冷え切っているが、震えているのはそれだけが原因ではなかった。
ローイックは宮殿に振り返った。そこは、橙色の暖かそうな光が満ちていた。
「……」
その光は、自分がこの世界の外にいることを、如実に教えてくれた。ここに居場所はないのだと、いうことを。
帝国に連れてこられて半年。冬の凍てつく空気は、厳しい。
「……さて、戻ろうかな」
ローイックは独り言ちた。雪を巻き上げる白い風は、礫のようにぶつかってくる。顔が冷え切って、感覚も乏しくなっていたからか、あまり痛みは感じなかった。ローイックは腰壁から離れ、宿舎に向けて歩き始めた。
「……ック!」
後ろから聞き覚えのある声が耳に入ってきた。ローイックは歩みを止め、振り返った。
「ローイックーー!」
真っ白な風の中を、桃色の薄手のローブを羽織っただけの、金色の髪の少女が走って来るのが見えた。頭も、ちょっと白く染まっていた。
「ちょっと! キャスリーン嬢!」
ローイックは自らの防寒着のボタンに手をかけながら、その少女に向け走った。
なんであんな薄着なんだ! 風邪ひいたら大事になっちゃうよ!
頭の中はボヤキ声が占拠していた。
少女はニカッと笑うと、白い地面を蹴った。
「わーい」
「え、ちょっと!」
少女は勢いそのままに、ローイックに抱き着いた。白い粉を巻き上げて、ローイックと少女は地面に倒れた。ゴロゴロと転がり、雪に埋もれた。
「な、何考えてるんですか!」
「だって、ローイックの背中が寂しそうだったんだもん!」
雪塗れの彼女は二パッと笑いながら、そんなことを言った。
まだ幼さが残る彼女を起き上がらせ、ローイックは防寒着を脱ぎだした。
「風邪をひきます!」
「大丈夫よ。馬鹿は風邪ひかないって言うし」
「バカな事を言わないでください!」
「あはは、だってあたし頭悪いもーん」
ローイックは、ケタケタ笑う彼女に防寒着をかぶせ、頭に乗った雪を払った。襲ってくる白い風に、ぶるっと身体が震えるが、優先順位はこっちが上だった。
「わ-、ありがとー。寒かったんだ―」
少女は笑顔で応えた。それを見たローイックの頬も緩んだ。
「今日は風も強いですから、帰りましょう」
「えー、せっかく抜け出してきたのにー!」
「風が穏やかな日なら、大丈夫ですよ」
「ぶーー!」
ぶーたれる彼女の背中を押し、宮殿の表玄関へと向かう。ローイックは、キャスリーンがどこから抜け出してくるのかは知らなかった。だから、どこに送ればいいかなど分からないのだ。仕方なく警備している騎士がいる玄関へと送り届ければ、誰かしら保護してくれていた。
勿論、ローイックはその姿を見せるわけにはいかなかった。手前の物陰からキャスリーンを歩いていかせていたのだ。
二人で並んで白い世界を歩いていた。吐く息も、吹きつける風も、目に入る木も、みんな白かった。
「勉強は、ちゃんとやらないとダメですよ」
寒さを我慢しているローイックが、お説教じみたことを言った。毎度毎度、勉強の時間に抜け出しているということは、彼女から聞いていた。
「へーん、大丈夫だもーん。賢いローイックがいれば、何とかしてくれるもーん」
手を広げ、クルクルと回りながら、少女は嬉しそうに言った。
「私はどうなるか分かりませんよ?」
ローイックは戦利品扱いだった。今後どうなるかなど、予想も出来なかった。帰国できる望みは薄く、このままずっとこの身分だったらと考えると、胸の奥に雨雲が立ち込めるのだ。
「あたしが大人になったら、ローイックがいれるところを、作ってあげるの! それまでは、頑張るんだよ!」
少女は両手を上げて、そう、宣言した。
――――ック。ローイックってば!
暗闇の中で意識が微睡む。その中で、いつも聞いている、あの声が耳を撫でた。
――――頑張るんだよ
目の前では少女がにっこりと笑っている。彼女はさらさらと少しずつ消えていた。ローイックは砂になって消えていく、幼いキャスリーンに手を伸ばした。
姫様。私、頑張れてますか?
少女はにっこりと笑ったままだ。彼女が用意してくれた場所に、私はいる資格があるのだろうか、と自問する。
――――大丈夫、ローイックは頑張ってるよ。
いつもの声は、そう答えてくれた。何か暖かい感触が頬に触れ、すぐに冷えた空気が撫で直す。
ローイックの体は、安堵と、朝の空気で目覚めた。
「あぁ夢か……懐かしかったな……」
そんな事を呟きながら目を開ければ、視界の端に、ローイックを窺うキャスリーンがいる。顔を向ければ、昨晩の事が頭によぎった。抱き合うように寝てしまっていたのだ。何故そんなことになったかは脇に置いておくとしても、あってはならぬことだった。
ローイックは慌てて体を起こした。
「あ、あの」
「ローイックさん、おはようございます」
ローイックの後頭部に、不機嫌な声がぶつけられた。思わずローイックの動きが止まる。この場を見られてはいけない人の内、最も武闘派な人の声だった。キャスリーンを見れば、困った笑顔をしている。
あぁ、これはやばいな。
ローイックは即座に振り向いた。伝説の魔王の様な顔をしているだろうミーティアの存在を予想し、怒りの雷鳴を覚悟した。そして、そこには目の座った漆黒に包まれたミーティアが腕を組んで佇んでいた。威圧感にローイックが動けないでいると、その魔王が口を開いた。
「ローイックさん。そろそろ夜が明けます。身支度をされた方が良いのでは?」
ミーティアは有無を言わさない、厳しい口調と眼つきでローイックを追い立てる。ローイックは昨日から着替えていない。体も拭いてはいない。ローイックにとっては、よくある事なのだが、普通ではない。
「そ、そうですね」
「さぁ、朝食後に出発になりますよ!」
「は、はい!」
ローイックは追い出される様に、部屋を出た。細かく突っ込まれなくてよかった、と胸を撫で下ろしながら、自分に割り当てられた部屋に向けて歩いた。
「さて、姫様も支度をしませんと」
部屋に残ったキャスリーンとミーティアであるが、こちらも支度をしなければならなかった。ここ南の関門の砦には貴族用の風呂はない。兵士用のはあるが、そこに皇女を入れる訳にもいかないのだ。よってお湯で体を拭く程度しかできないが、騎士でもあるキャスリーンには、耐えられない事ではなかった。いざ何事か起これば、数日作戦行動もありうるのだ。現にこの護衛任務は片道三日の行軍である。
ミーティアが「入って良いですよ」呼ぶと、お湯を持った侍女二人がスルスルと部屋に入って来る。
「急ぎませんと、朝食に間に合いません」
ミーティア達侍女部隊はは手際よく、キャスリーンの身支度をこなしていく。身体も綺麗になり、香料も付け、後は髪を梳かし化粧を残すだけになった段階で、ミーティアは部下二人に声をかけた。
「あとは私がやりますから、あなた達は姫様の朝食の準備をやってください」
侍女二人が「分かりました」と返事をし、一礼してから部屋を出て行った。ミーティアはキャスリーンの正面に鏡を据えると、後ろに立った。ブラシを持ち、ゆっくりとキャスリーンの髪を梳かし始めた。
「姫様。昨晩は口づけくらいはしたのですか?」
ミーティアの確認にキャスリーンは「そ、そんな事するわけないでしょ」と動揺を隠せなかった。心臓は、痛いくらい働いていた。そんな事はしていないのだが、同衾はしていたのだ。
「男女が一晩ともに過ごしたのですから、それくらいはあってしかるべきかと」
鏡の中のミーティアは平然と言ってのけた。キャスリーンは頬が熱くなるのを感じながらも、それを悟られまいとした。が、鏡の中の自分の耳は、言い訳のしようがない程赤くなっていた。
「あ、あたしはずっと椅子に座って、ローイックを見ていただけよ。な、何もなかったわよ」
キャスリーンは鏡の中のミーティアから視線を逃がした。
当然嘘だ。だが疲れていたとはいえ、一緒のベッドで寝ていたのは事実だ。
ただ、そんな事を言おうものなら、どんな突っ込みが来るか分からない。ローイックに対しては厳しいミーティアのことだ。絶対に彼にお小言がいくはずだった。ローイックは怪我に加え強行軍で疲弊して、かつ兄の訃報もあったのだ。これ以上の心労は与えたくない。
「まぁ、それならば良いのですけど」
ミーティアはニッコリと微笑んだ。どことなくニヤついている様にも見えたが、キャスリーンは、それは気のせいだ、という事にした。




