懐かしき過去。
我が城はトイレ付風呂無しの畳四畳半のワンルームである。
風呂無しなど有り得ないと言う人もいるだろう。だが僕は特別困ることはなかった。すぐ近くにスーパー銭湯があるからだ。徒歩2分、雨が降ろうとも雪が降ろうとも雷が鳴ろうとも、僕は毎日通っていた。
玄関で靴を脱ぎながら顔を上げると、直ぐにゴミの山で溢れたワンルームが姿を現す。この部屋に関しては、ゴミと敷布団があるくらいなので特に紹介する点は無い。強いて紹介するとしたら、隅の方に申し訳無さげににょっきりと顔を出しているキノコくらいか。此処は隣にどでかい工場がある為、日光が全く入ってこない。当然洗濯物は部屋干しになる。じめっとした室内はそいつにとって暮らしやすいエデンであったのだろう。
そこから視点を少し右にずらすとキッチンがある。あると言っても、膨大な数の生ゴミに囲まれていて流しくらいしか見えていないのだが。
ここまで言えば既にお分かりだと思うが、僕は料理は一切出来ない。今まで料理というものに手をつけたのは家庭科の調理実習のみだ。だが、僕が一度包丁を握ると多くの犠牲者が出た。
それは僕が初めて包丁を握った日の事である。食材の皮を剥こうとした所、自分の指を切ってしまった。大事な食材を血生臭い、食べる気の起きない物体にしてしまったその時。同じ班の、番長と学校中で恐れられていた男が僕の指を見て白眼を向いて倒れる。それに気付き「何だ何だ。」と他の班の連中が集まって来た。ある者は番長と同じく白眼を向いて倒れ、そしてまたある者はその場に吐瀉物を撒き散らした。担任も含め、バッタバッタと人が倒れていった。こんな光景とは無縁の筈の調理室は、阿鼻叫喚ひしめく地獄と化した。
その次の調理実習。担任に指を切らない為の道具、ピーラーを渡される。これならばと意気込んで作業に取り掛かった。だが何故かまた食材を真っ赤に染め上げる。その後も色々と挑戦はしてみた。しかし、火を扱おうとすると必ず真っ黒焦げにして、皿を運ぼうとすれば必ず派手に転んだ。その後は皆に呆れられ、野菜を洗う、調理器具を洗う、テーブルを拭くといった簡単な作業しか任せてもらえなかった。そんな過去があるから、僕はキッチンをゴミの山で覆い隠してしまったのかもしれない。
その他に目立ったものは電子レンジと洗濯機のみである。
電子レンジはスーパーの弁当、コンビニ弁当を温めるだけの為に購入した物だ。
洗濯機は、暫く使用していたが部屋干しを続けていくうち、先程紹介したキノコが姿を現した。それからはコインランドリーを利用している為、今では全く手をつけていない。
ある程度室内を見渡してから足を踏み入れる。するとすぐ左側に扉がある。唯一ゴミの無い場所、トイレだ。便座の左右、普通は空いているであろうこのスペース。我が城は違う。そこにあるのは、この21年の間に読み漁った書物の塔である。
まだあどけなさ残る、小学生の頃。近所の叔母様方に「まるで天使のようだ。」と言われていた僕は、日々母の手伝いに必死になっていた。そうして得た数百円のお駄賃を貯めては、絵本を買いに走った。
それから顔のニキビが気になりだした中学生の頃。天使からは程遠い風貌へと変化していた。(天使はその皮を脱ぎ、ブツブツな顔のモンスターへと生まれ変わる。何とも悍ましい脱皮である。誰も見たくはなかっただろう。)その頃は冒険だのドラゴンだの、ファンタジーな児童向けの小説を購入していた。否、正直に話そう。頭の中は勤勉よりも色恋に溢れ、恋愛成熟のコツみたいな物から如何わしい雑誌を買いもしていた。
それから高校生。恋愛など無駄な物という考えに至った17の頃。ニキビは消えたが、それによって何の印象もない平均的な顔が際立った。これぞ日本人である。と、見本にされても可笑しくないような顔だ。そこからバイトを始めて現在まで、近所の古本屋で週に一度格安の物を幾つか購入するという生活を送っていた。そしていつの間にか、見事にあべこべな書物の塔が完成していたという訳だ。
ちなみに全ての書物の裏表紙には、購入した日付が書いてある。これにより、いつ自分が何を思っていたかが分かる。今まで極端に人付き合いをせず、書物ばかりを漁っていた。この塔はまさに、自分の人生の走馬灯ともなり得る代物。そう考えると神秘的ではないか。
そうやって今までの人生を振り返ってから、目の前の扉を睨みつける。根元から壊れたはずの扉は、館長の言う通り、しっかりと直っていた。
「我が城よ、どうか無事であってくれ。」
ひんやりと冷たいドアノブに手をかけ、一気に捻る。
分かりきっていた事だが、そこにはもう我が城は存在していなかった。扉を開けてまず目に入るは更なる扉。後退りをして標札を見る。そこにあったはずの”神崎”という二文字は白いペンキで塗り潰されている。その代わりに”第二ドアノブ美術館”という長ったらしい文字が上書き保存されていた。
中に入り幾つかの扉を開けてみたが、先程語った我が城の特徴は全く無くなっていた。溜まりに溜まったゴミは消え去り、幾つかの扉の先の、小さく設けられた空間にキッチンがぽつりと存在している。
「そういえばこんな形をしていたっけ。」
今まで長いことゴミの山に埋もれていたので姿をしっかりと見たのは久方振りであった。何だかとても恐ろしくなりトイレに駆け込んだ。
「良かった。」
心から安堵をした。我が城は跡形も無く消え去ろうとも、書物の塔は無事であったからだ。
今までと変わらない書物の塔。たったこれだけのことなのだが、僕は充分、心を正常に保てた。それ程までに、これは僕にとって大事な物であったのだ。それを再確認出来たのは大きな収穫だろう。
実は残されているものはそれだけでは無かった。
まだもう一つ、何故残したのか予測のつかぬものが残っていた。
たくさんの扉を開けて辿り着いたやはり小さな空間。キッチンよりも狭く、人が一人やっと入れるくらいの物凄く狭い空間。そこにあったのは、キノコだ。僕が留守にしていたこの8日の間に急成長を遂げたらしく、それはそれは立派であった。申し訳無さなどもう感じられぬ、むしろ神々しいと感じられる程までに見事な生えっぷりであった。
けたたましいノックの音に意識を取り戻した。
あまりの理解不能な出来事の連続で疲れていたのか、キノコと共に夢の世界へ旅立っていたらしい。
一体どれ程の時間が経過したのだろうか。
適当に扉を開けて音のする方へ向かう。
玄関へと辿り着くのに5分程かかったと思う。
ようやく最後の扉を開けると目の前に館長の姿があった。
「神崎君大変だ。事件だ。」