ドアノブ美術館:館内
「お、お邪魔します。…って何ですかこれ。何なんですか。四方八方扉だらけなのですが。」
僕の覚悟のレベルを遥かに超えたものがそこにはあった。美術館の入り口である扉の先を抜けると、そこには左右前方、全て扉に支配されている空間が現れたのだ。
「素晴らしいであろう。この扉に囲まれた空間、愛好家には堪らない場所だ。」
そう言いながら男は左の扉を開けた。恐る恐る先に進むと、そこはまた、扉に囲まれた空間があった。
「素晴らしいどころか、異世界にでも迷い込んだ気分ですよ。まあいいです、トイレへは何分でたどり着けますか。」
「なんだ、我慢をしていたのか。我慢は毒だぞ。此処から前方の扉を3つ開け、左の扉を2つ開けた場所に君の天国がある。鍵は閉めていないからそう時間はかからないはずだよ。」
どうやら通路という通路にぎっしり扉を取り付けてあるようだ。美術館というか、もう迷路である。
「余計なお世話ですよ。まあ、天国かどうかは知りませんがお借りします。前方3つ、左に2つでしたよね。ということは帰りは前方2つ、右に3つですか。」
「うん、合っているよ。気を付けて行ってらっしゃい。私は此処で待っていよう…あ、そうだ。もし迷ったらこの地図を使うといい。」
男はひらりと手を振り送り出そうとしていたが、ふと白衣のポケットの中を弄り薄汚れた紙を渡してくれた。
「有難うございます。では。」
前方の扉を3つ開け、次に左の扉を2つ開ける。
すると無事トイレへ辿り着くことが出来た。
が、トイレの壁にも扉があった。
「この先にも部屋があるのか…?」
そう考えると何だか無性に気になって仕方が無くなる。僕の右手は自然と壁の扉に手をかけていた。
「あれ、壁だ。」
その先にはコンクリートの壁があるだけだった。通路だけでなく壁にもびっしり扉が取り付けられているのか。もしかしてと天井を見ると、やはり扉があった。この扉に支配された閉鎖空間にずっと居たら気が狂ってしまいそうだ。早々と事を済ませ退散しなければなるまい。
「前方2…右に3…。よし着いた。」
元の場所へ戻ると男がへらっとした顔で「あれ、迷わなかったんだね。」と出迎えてくれた。迷う事を期待してたかのような口ぶりに、僕は少し苛立ちを覚えたのであきらかに嫌な顔をして見せた。
「そんな顔をするな。笑ってしまうだろう。」
口に拳を当てながら”ぷっ”とわざとらしい笑い方をするものだから、僕はいつかこの男に鉄槌を下してやると誓った。誓うだけならタダだろう。
「貴方はどれだけ僕を馬鹿にしたら気が済むのです。」
「別に今までも今も馬鹿になどしていないさ。ちなみに、私はあなたと呼ばれるのは将来の妻にだけだと決めている。これから私の事は館長と呼んでくれ。」
この男に将来妻など出来るのか疑問だが、ここで突っ込んだら余計に話がややこしくなるのは目に見えている。よって、この場合はスルーが一番良い方法だ。
「本名は教えてくれないのですか。」
「館長が本名だ。」
「茶化さないでください。館長なんて人物名があったらこの世は終わりです。」
「この時代、世界だとか宇宙だとかいう壮大な名前を持った人物も存在しているのだから、館長という名前の奴が居ても何ら可笑しいことはないだろう。」
「そ、そうかもしれませんが僕が言ってるのはそういうことでは無くて。」
「ところで、私が名乗ったのだから君の名前も教えてくれないか。」
この男には理屈や常識、僕の言うことなど通用しないのだろう。名乗る義理はないと抗うのも1つの手だが、また面倒なことになる。これ以上精神体力共に削るわけにはいかない。僕はやはり仕方無しに、この男の流れに身を任せるしかないのだ。なんとも無力。惨敗である。
「…神崎 徹です。」
「うむ神崎君よ、今から君をゲストルームへ案内する。付いてきたまえ。」
「此処にそんな部屋があるのですか。」
「あるぞ。横はそこまで広くはないが、縦は広い。安心したまえ。ゲストルームへはこの先前方の扉を3つ開けた場所にあるからそこまで時間もかからんしな。」
この場所に安心出来る要素など何一つ無いではないかと突っ込みを入れたい気持ちをぐっと堪え、目的地へと足を進める。それにしても、縦に広いとは如何いう事だろうか。
「館長はこんな空間を作り上げたり、その格好と言い、可笑しな人ですよね。正気の沙汰とは思えません。」
「私はいつだって正気だよ。ただ、君の言うように私は他の人間と比べて何処か可笑しいところがあるのかもしれないがね。」
「館長が認めるなんて天変地異が起こりそうですね。本当は可笑しくなんてないんじゃないんですか?」
「君は数時間しか私と会話を交わしていないのに、今の私の事をよく分かっているようだな。こりゃあ大した男だ。」
「また館長らしくないことを仰る。人を褒めるなんて滅多にしないでしょう。」
「神崎君は読心術でも学んでいたのかい?…おや、話の途中だが目的地に到着だ。」
数多くある扉の中でも一際目立つ紫色の重たい扉を開けると、その先にあったのはやはり現実とは程遠いものであった。
9畳ほどの縦長の空間。あべこべな和室と洋室。一体如何いう事なのかと言うと、手前4.5畳は畳で、その奥4.5畳がフローリングで構成されているのだ。
それだけでも可笑しな空間だと言うのに、何故かホテルにあるような洋風で豪華な赤いソファが置いてあったり、鹿の生首オブジェが飾ってある。更に中華料理店で良く見るあの回転式テーブル、おどろおどろしい日本人形。そして極め付けには、当たり前のように壁と天井にびっしりと取り付けられた扉だ。
「悪趣味というか、もうここまで来ると無趣味と言えますね。」
「お褒めの言葉有難う。」
「何処をどう聞いたらそんな勘違い出来るんですか。褒めてませんよ。」
「まあいいではないか。そんな細かいこと気にしていたら早死にするぞ。」
早死にしたとしたらそれはあんたの所為だと大声で言いたい。
「まあソファにでも座って落ち着きたまえ。紅茶を淹れてやろう。」
「はいはい。」
呆れ果て、言われた通りソファへ勢い良くどかっと座る。すると、静かな空間にブゥと鈍い音が響き渡った。なんとこのソファはただのソファでは無く、中にブーブークッションが仕込まれた物だったのだ。此処ではいつ何時たりとも油断をしてはならない。そして、館長の言う言葉を信用してはならない。
「ナイスファイトだ神崎君。」
暫しの静けさの後、無邪気な笑顔で親指をぐっと此方に向ける館長。
何なんだ…何がしたいんだ!さっきは僕の言う事を認めたり、褒められたりして舞い上がっていたが、やはり館長は館長である。全くもって意味が分からない!というかもう分かろうともしたくない!
そんな僕の気持ちなんて知らないというかのように、この男は鼻歌混じりに紅茶を淹れている。畜生。
「ところで、先程君は私は本当は可笑しくなんてないのではないかと言ったな。それは、そうかもしれないしそうではないかもしれない。」
「どういう事ですか。というか、ブーブークッションの件、僕に何か言う事はありませんか。」
「私は記憶に欠落している部分がある。だから通常の人より自分の事が理解出来ていないのだよ。その件に関してはナイスファイトと言っただろう。」
「もしかしなくとも、記憶喪失というやつですか。そんな言葉を求めているのではありません。僕はあれによって不快な思いをしたのです。謝りの言葉を一つ、頂きたく思います。」
「そう、気付いたらこの場所で寝転がっていたのだ。おそらく幼い頃から最近の記憶までが欠落していると思われる。何故謝らなければならん。面白かったからいいではないか。」
と、悪気のない無垢な笑顔で言ったからといって、まあいっかと折れるような柔らかい精神は僕には持ち合わせてはいない。今回はとことん抗ってやる。紅茶を淹れている館長の背中を睨みつけ、固く決意する。
「では、館長がドアノブ愛好家になったのはこの場所に毒されたからですか。僕はちっとも面白くなんて無かったですよ。」
「いや、何故かドアノブ愛好家だという記憶だけは残っていた。私はとても面白かったぞ。ブーブークッションは手っ取り早く場を和ませる絶大な力を持っている。」
「どんだけ好きなんですか。あ、もしかして本名を教えてくれなかったのは、教えたく無かったからじゃなくて分からなかったからですか?館長の感想なんて1ミリも聞いてないですし、僕は全く和まなかったですよ。」
「まあ、君の言う通りだな。私は自分の名前すら分からない。身元の分かる物も探したが出てこなかった。まあいいではないか、そんなに興奮するな。」
館長はまあまあと両手で宥めるようにしてから、紅茶が零れないようにゆっくり、だがフラフラとした足取りでこちらに歩みを進める。さながら生まれたての子鹿のようである。それを見たら先程の固い決意など無かったかのように、すんなり腹の虫が収まってしまった。
「茶菓子の賞味期限が切れていたので紅茶のみになるが、すまんな。」
回転式テーブルにお盆を乗せ、無事紅茶を溢さずに辿り着けた事の達成感からか、ふぅっと一息ついた館長。
「賞味期限はきちんと守るのですね。」
「一度腹を壊してな。それから期限は守るようにしている。」
「成る程。あるあるですね。」
話に一区切りついたので、喉の渇きを紅茶で潤わす。
紅茶は途轍もなく、ぬるかった。
「さて、君に少し聞きたい事がある。」