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第十一話 鬼と人

  第十一話 鬼と人


 山中で迎える夜明けの空気は、冷たくも清々しい味わいがあった。空は刻一刻と明るい紫色に変わっていく。すると暁闇に塗りつぶされていた風景にも淡くだが色彩が乗り、山々はその緑色を、水は空の色を映して、それぞれに自分の色を主張し始めた。

 泰一と秋山は河原において、それぞれの剣を構えながら、五メートルほどの距離を隔てて対峙していた。泰一の方が川上におり、川は泰一から見て右手を流れている。

 ――むう。

 風は冷たいのに、泰一の頬には一筋の汗が流れていた。秋山は一見しておおらかに構えているだけだ。それなのに打ち込む隙がまったくない。剣道の実力者が自分より強い相手と相対した場合、その構えを見ただけで圧せられるものだが、泰一が今陥っている苦境もそれであった。

「どうした、来ないのか?」

 泰一は答えない。勝利への道筋がまったく見出せない。

「なら、こちらから行くぞ」

 秋山は踵を浮かせると、一気に距離を詰めてきた。それを見た泰一は、ただ逃げてはならぬと自分に云い聞かせて、獅子の目をして地を蹴った。

「ウオリャア!」

 泰一は左のコラーダで左側から斬りつけた。右側に逃げてくれれば右のティソナで挟み撃ちにできるが、まさかそんな愚を犯す秋山ではない。秋山は軽やかな歩法で後ろへ避けた。コラーダが空振りをした瞬間、秋山が寄せては返す波のごとくに斬り込んでくる。菊一文字が朝焼けのなかに鮮やかな銀孤を描き、そして鏘然しょうぜんたる鋼の音がした。

「ぬっ!」

 泰一は急ぎコラーダをかざして菊一文字を受け止めていた。秋山の太刀筋はさすがに重い。が、泰一の腕の力は先の六人相手の死闘でも見せた通り、超人的なものがある。

「さすがだ!」

 秋山が噛み合う刀の向こうでそう快哉の声をあげた。

「並の二刀流なら、この一撃を持ち堪えられずに左手の剣を吹き飛ばされてしまっているところだ。ところがおまえは、まったく超人的だな!」

「なぜわらうのですか?」

 泰一は秋山の笑顔が不思議であった。左腕一本、コラーダ一本で菊一文字を防いでいる。ならば右のティソナを遊ばせておく道理がないではないか。

「オオッ!」

 泰一はティソナを一閃させたが、そのとき鍔迫り合っていたコラーダから重みが消えた。秋山は軽やかに後ろへ跳んで、ティソナの一撃を躱したのだ。泰一はそれを見て傍らを流れる川の瀬音に心を寄り添わせ、秋山に対して水のように構えた。

 一方、秋山は刀を構え直しながらくつくつと笑っている。

「まあ、そうなるわな。どっちか片方とやりあってるあいだに、もう片方が飛んでくる。これこそ二刀流というものだが、おまえの場合は片腕の力が異常に強いときた」

「ですが、技の冴えでは警部殿の方が上です」

 剣道を始めとした諸武道が格闘技と違うのは、歳を取れば取るほど強くなっていくという点にある。若さに任せて竜巻のように暴れたところで、枯れ木のような老人に不思議と一本取られてしまうものなのだ。それでもやらねばならぬと泰一が意気込んだとき、秋山が突然云った。

「では、攻め方を変えるか」

 その言葉に、泰一の意識は防御という名の柱に縛り付けられてしまった。その隙をついて、秋山が打ち込みを浴びせてくる。それが怒濤の連続攻撃の始まりだった。

 菊一文字が猛威を振るう。泰一はそれをティソナで弾き、コラーダで弾く。嵐の攻防がたちまち十を超え、二十を数えた。そうしたけたたましい剣戟の響きのなかで、泰一は奇妙なことに気がついていた。秋山の攻撃にむらがあるのだ。打ち込みがごく軽いときと、非常に重いときがある。この緩急にどんな意味があるのか、必死の防御を続けているうちに、新しい真実が皮の剥けるように現れた。

 左手のコラーダで受けるときは軽い。翻って右のティソナで受けるときは重い。これは意図してやっているに違いなかった。だがなんのために?

 泰一はどうにも奇妙で、この攻防から逃れたかったが、秋山がそれを許してはくれない。隙も緩みもない果断な連続攻撃で、防御に徹さねば危なかった。それが三十に達しようというころ、泰一は秋山がなにを狙っているのかを、身を以て理解することとなった。

 ――右手が、痺れてきた。

 秋山は右のティソナで受け止めるときに限って苛烈な打ち込みを浴びせてくる。それが短時間に連続したため、さしもの泰一も右手が悲鳴をあげたというわけだった。秋山は泰一の右手を潰しに来たのだ。だがそれとわかっても、秋山の攻撃が凄くてどうしようもない。

「泰一様!」

「このままでは……!」

 そう、このままではティソナを弾き飛ばされて万事休すだ。そうなる前に、一か八か。

「オリャア!」

 泰一は嵐の攻防のなかに一筋の道を見出すと攻撃に出た。秋山の喉を一突きにしようと、右のティソナが迸る。そのティソナに菊一文字の刃がそっと寄り添ったかと思うと、次の瞬間に泰一は、右手に抗いがたい力の流れを感じた。弱められた手の力では押さえきれない。

「あっ!」

 ソルがそう声をあげたとき、ティソナは泰一の右手から嘘のように吹き飛ばされていた。それこそは過日、泰一がルナに対して仕掛けた剣道の技の一つ、巻き上げである。

 ティソナはくるくる回りながら天高く舞い上がったかと思うと、重力に引かれて落下し、河原の小石に当たって甲高い音を立てた。そのときの小石の角度から、ティソナは秋山の後ろに転がった。だが泰一も秋山もそんなティソナを見てはいない。

 秋山は泰一を見据えて、菊一文字を突きつけて云った。

「おまえは賭けに出て、そして敗れたのだ」

「そのようですな」

 こういうときに穏やかな顔をしていられるのが、鬼丸泰一という男の気質であった。泰一は秋山から一歩、二歩と距離を取ると、そこで静かにコラーダを構えた。

 コラーダは柄の短い片手剣であり、両手で持つことはできない。左手一本で秋山を相手にどこまでやれるか。攻防の最中にティソナが拾えれば、と泰一はティソナがどこに転がっているか探した。それは秋山の斜め後ろ、僅か一メートルほどのところに落ちている。

 そのとき、この苦境を好機にひっくり返す、逆転の一手が見えた。

 ――時間がない! 今しかない!

 泰一は秋山に動かれるのを嫌って、自分から飛び出した。一見して破れかぶれの突撃である。秋山は腰を落として悠然と向かえ打とうとした。そのときだ。

「ソル!」

 泰一の掛け声に応じて、転がっていたソル・ティソナが人の姿に変じたかと思うと、以心伝心、秋山の腰に抱きついた。

「なに!」

 秋山にしてみれば、突然、腰に重たい荷物が生じたようなものだ。動きも乱れれば体勢も崩れる。そこへ泰一が一文字に斬り込んでいく。

 このとき、秋山がソルを無視して泰一にのみ対処を絞ったのはさすがであった。でなければたとえソルを一太刀にしたところで、泰一に一太刀にされていたに違いないからだ。

「鬼丸!」

「警部殿!」

 男二人の気魄がぶつかり合い、コラーダと菊一文字が交錯する。そして紫色をした夜明けの空に、鮮血の赤い花が散った。

「ぐあっ!」

 苦鳴とともに体を傾かせたのは秋山であった。泰一はその秋山の横を駆け抜けていったが、左手には確かな素晴らしい手応えを得ている。

 ――斬った!

 だがまだ油断はできぬ。秋山の背後に回り込んで素早く振り返った泰一に、ソルが勇ましげに駆け寄ってきた。

「泰一様!」

「よくやった!」

 今の一太刀、ソルが好機を作ってくれなければ浴びせられなかった。泰一は称揚の言葉とともにソルに手を伸ばし、次の瞬間にはふたたびティソナとコラーダの二刀流となっていた。

 一方の秋山は、傷ついた鴉のようによろめきながら歩き、あるところで突然力尽きたように膝をついた。その背広の右胸は血に染まっており、秋山は左手で傷口を押さえたものの、溢れる血潮を止めようがない。

「ごほっ! ごほっ!」

 秋山は痰の絡んだ老人のように盛んに咳をしていたかと思うと、激しく血を吐いた。黒いものが岩場に飛び散る。

「肺をやられたか」

 秋山の手元で菊子が口惜しげに呟いた。切れ味鋭いコラーダは、秋山の右肺を肋骨ごとざっくりと切り裂いていったのだ! 見よ、今やその白刃は血塗られてかがやいている。

「うむむ、まずい」

「なにがまずいもんかよ」

 秋山は菊子の憂慮を一蹴すると、まだ喉に絡んでいたらしい血を吐き捨て、ふたたび立ち上がって泰一を振り返ると菊一文字を構えた。満身創痍だ。だが目は死んでいない。

「こんなもんはかすり傷だ。さっさと鬼丸を倒して、病院に駆け込めば済む話じゃねえか」

 云った傍からまた血を吐いた。

「ぐう……!」

 それでも秋山は剣を下ろさず、気炎を上げ続けている。泰一はその焔の熱に誘われるように双剣を構えながら戦慄していた。秋山はもう致命傷を負っている。時間の問題だ。それでもなお泰一を、目の前の敵を倒そうとして、魂全部を燃え上がらせているのだった。

 ――恐ろしい人! まさに鬼よ!

 だがかく想う泰一とて、鬼神の乗り移ったような顔をしているのだ。鬼と鬼が互いを喰らいあい、果たしてどちらが勝つのか。あるいは相共に斃れてしまうのか。

 ――いや、俺が勝つ! 警部殿はもう瀕死だ。次の一太刀で決める!

 泰一がそう勇んで踏み出そうとしたそのとき、まるで場違いな女の声が響き渡った。

「待ちなさい!」

 叫び声のあとに水音がする。見れば一人の娘が川の対岸から水に入ってきたところだった。娘は膝まで水に浸かりながら、けつまろびつしつつも、水を蹴散らして川のこちら側へ駆け上がってきた。金髪に碧い目をした美しい娘である。その姿を見て、泰一は目を剥いた。

「貴様は、エレオノール!」

「うふっ、ごきげんよう」

 エレオノールは乱れた髪を手櫛で整えると、泰一に片目を瞑ってみせた。泰一は忘れかけていた怒りの焔が上がってくるのを、どうしようもなくなった。

「まだこの辺りをうろうろしておったのか」

 ならば今すぐ斬ってくれようか、と泰一はロランのことを想い出しながら両腕に力を込めた。しかしその機先を制するように秋山が喘鳴混じりの声で云った。

「俺を嗤いに来たのか、エレオノール」

 するとエレオノールは秋山を振り返って寂しそうに微笑んだ。

「どうしてそんなことを云うの?」

「さっき袖にしてやったからな。意趣返しにでも来たんだろう」

 エレオノールは皮肉そうに片眉をあげると、胸を張って秋山の方へ歩き出した。

「そんな減らず口が利けるんなら大丈夫だわね。急いで病院に行けば助かるかもしれないわ。そもそも肺の傷っていうのは――」

「ごちゃごちゃうるせえ!」

 秋山はそう大喝した拍子に激しく咳き込み、また血を吐きながら片膝をついた。これは急がねばならぬ。泰一はそう思い、秋山の目の前まで来ながら、今の大喝に立ち竦んでいるエレオノールに向けて云った。

「どけ、エレオノール。俺と警部殿の戦いはまだ終わっておらん」

「いえ、もう終わったわ」

 気を取り直したように泰一を振り返ったエレオノールは、目に角を立てていた。

「あなたの勝ちよ。そして大悟の負け。わかった?」

 泰一はそんなエレオノールの佇まいから、それまでの彼女とは違うものを感じた。まるで、そう、信じられないことだが、エレオノールは秋山を守ろうとしているように見える。

 ――だが、この女にそんなことがあるのか?

 面と向き合っている泰一ですら自分にそう問いかけたのだから、エレオノールに背中を向けられている秋山は、彼女が自分を守りにきた可能性など露ほども思わなかったろう。

「エレオノール」

「なあに?」

 エレオノールは泰一に視線を注いだまま、振り返らずに尋ねた。

「俺はまだ負けちゃいねえよ」

 その気魄に充ちた断言とともに、エレオノールの腹部から銀の刃が飛び出して来た。秋山が後ろから、菊一文字で彼女の背中を刺し貫いたのだ。それは秋山に取り憑いていた死神が、突如としてエレオノールに躍り掛かった瞬間だった。

 泰一は時間が凍りついたように感じた。秋山が低い声で無慈悲に云う。

「悪く思うなよ、エレオノール。これも覇剣戦争だ」

「どうして……」

 そう呟くエレオノールの唇からは、はや血の滴が滴っていた。秋山が刀を引き抜くと、彼女は前のめりに倒れ伏した。腹部の大動脈をやられたのか、その体の下に恐るべき勢いで血溜まりが生まれていく。そんなエレオノールを、秋山が鬼の目をして見下ろしていた。

「おまえが云ったんだろうが。デュランダルを降したと。ならばおまえを殺し、ジュワユーズを俺の菊一文字に降せば、俺の刀はジュワユーズだけでなくデュランダルの力をも得るというわけだ。これで俺の勝ちよ」

 ――そして俺の負けだ!

 泰一は胸裡にそう絶叫していた。秋山は残る命のすべてを燃やし、ただ修羅と化して、鬼と化して、泰一に向かってくるだろう。そのときデュランダルの力を得た菊一文字に、ティソナやコラーダでは太刀打ちできない。勝負は決まった。天秤はひっくり返った。秋山が勝つ! たとえそのあと、秋山がすぐに力尽きてしまったとしても。

「そう……」

 エレオノールが最後の力を振り絞って頭を起こした。泰一はてっきり彼女が恨み言か、あるいは悲嘆の言葉を吐くものと思っていた。ところが彼女は世にも優婉に笑っている。

「いいわ、あげる」

「なに?」

 秋山は今の短い言葉に面を打たれたらしかった。しかしエレオノールはもう秋山を見てはいない。ただ顔を上げて、命のあるうちにと懺悔なり告白なりを始めたのだった。

「私はあなたを嗤いに来たんじゃないの。あなたが死にかけているのを見て、助けてあげようと思ったの。そのあなたがこれを望むなら、いいわ、全部あげる……」

 そのときジュワユーズが人の姿をして地に降り立った。ジュワユーズはすぐさまその場に跪き、血に汚れるのも厭わずエレオノールの体をその膝の上に抱き上げた。

「エレオノール」

「ああ、ジュワユーズ。あなたの云ったこと、惜しみなく雨のように与えるってこと、自分が死ぬとわかって初めて出来たわ。死ぬとわかって……ほんとに私は、どうしようもない」

「そんなことない」

 ジュワユーズはきっぱりとかぶりを振った。

「おめでとう、エレオノール。あなたは愛を実践できたのよ。忘れていた気持ちを取り戻したの。あの冷たい川の水に飛び込んでいったときのあなたの気持ち、今にも死のうとしている人に手を差し伸べようとしたときのあなたの気持ちは、本物だったわ」

 そう急いで語ったジュワユーズは、ふとなにかに気づいたようにエレオノールに顔を寄せると低声こごえで尋ねた。

「……聞いてる?」

 だがエレオノールはもうなにも答えない。目を閉じて、穏やかな顔をして眠っている。

「そう」

 ジュワユーズはそれと悟るとエレオノールをその場に寝かせ、その両手を組ませてやった。

 すると茫然絶句といった状態にあった秋山が、心ここにあらずといった様子で呟いた。

「俺を助けに来ただと……?」

 おまえが? とその唇はさらに動いたが、声にはならなかった。

 寂滅の風のなか、秋山は苦しみを押してエレオノールに声をかけた。

「おい、嘘だと云え」

「嘘なんかじゃないわ」

 もはや物言わぬエレオノールに代わって、ジュワユーズがきっぱりと答えた。

「傷ついた人に手を差し伸べようとするあの優しさに突き動かされて、彼女はあなたたちのあいだに割り込んだの。それは絶対、嘘じゃない」

 そう語る傍からジュワユーズの体が光りの粒子となって崩れだした。菊一文字に降ろうとしているのだ。ジュワユーズがまだ喋れるうちにと、秋山は急いで問いかけた。

「こいつはいつも云っていたじゃないか。強い男が好き、勝った方を愛してあげると」

「ところが今こそは負けた方に優しくしてあげたのよ。エレオノールはあの一瞬、まぎれもなくあなたを愛したの……」

 それがジュワユーズの最後の言葉になった。彼女は頭から爪先まで光りの砂となって、漏斗に吸われるように菊一文字に吸い込まれて消えた。

 風は凪ぎ、水の音ばかりが聞こえた。泰一はなにも喋らない。秋山はエレオノールの死に顔にじっと目を注いでいる。

「俺に、優しく……?」

 そう呟いた秋山の顔が、にわかに張り裂けそうになった。

「警部殿」

 泰一がそう呼びかけると、秋山は弾かれたように顔をあげた。その目は恐怖に見開かれている。泰一は秋山に活を入れるつもりで云った。

「いかがなされた、警部殿。デュランダルの力を得た菊一文字、その一刀を以て俺を斬るのではなかったのですか?」

「鬼丸、俺は……」

「俺を倒し、急ぎ病院へ行って手当てを受ければまだ助かるかもしれませぬ。警部殿が覇剣戦争に懸けられた願いは偽りか」

「偽りではない。だが……」

「警部殿、やりましょう!」

 泰一は皆まで云わせず、鳥が翼をひろげるように双剣を構えた。

「剣が答えを教えてくれまする」

 秋山の顔に光りが差した。唇も顎も吐いた血によって汚れている。背広も真っ赤だ。しかしそれでも、秋山の体に命の力が蘇ってくるのを、泰一は肌で感じていた。

「そうだな。剣が教えてくれる」

 秋山は命の炎を燃やしながら歩を運び、泰一とは二メートルの距離に立った。そこで二人の剣士は相対し、睨み合った。

 するとまず音が死んだ。それから色彩が失われた。山も意識の端に押しやられて落ちていき、後に残ったのはどこまでも純白をした無辺際の世界である。それが泰一の宇宙なのだ。その宇宙の前に、もう一つの宇宙、秋山の宇宙がある。二人の宇宙が今ゆっくりと近づいていき、接した瞬間、二人は地を蹴って飛び出した。

 ティソナとコラーダと菊一文字、それぞれの剣が三つの光りの尾を引き、そして泰一と秋山はすれ違って場所を入れ替えていた。

「……っ!」

 泰一の左腕を血が滴り、コラーダがその手から滑り落ちた。剣は岩場にぶつかって戛然かつぜんと鳴り、苦笑いをした泰一は背中で秋山に声をかけた。

「さすがは、警部殿」

「いやいや、さすがは鬼丸泰一よ」

 次の瞬間、秋山は刀を取り落とすと、口から盛大に血を吐いて前のめりに倒れた。

 見よ! 泰一の右手にしかと握り締められているティソナが、秋山の胴を捉えて、背骨を削るほどの深さで斬り裂いたのである!

「お見事です、泰一様」

 そんなソルの称賛の声などなにも嬉しくはなかった。泰一はティソナを抛り出すと、身を翻して秋山に駆け寄り、その体を抱き起こした。

「警部殿!」

 秋山の腹の傷口からはすでに臓物が溢れ出していた。川を渡る風も、この血の臭いを清めてはくれない。泰一はもう一度「警部殿!」と呼びかけた。

 すると秋山が泰一を見て、力なく右手を差し伸べてきた。泰一がその右手を握り締めてやると、思いがけないほどの強い力で握り返された。秋山は今、自分の炎を伝えて、泰一を燃やすように云った。

「妻を愛していた」

「はい」

「だが、妻のために鬼になれなかったのはなぜだ?」

 そう、そうなのだ。人は鬼に喰われた。その悲しさに、泰一は胸を締め上げられながら急いで云った。

「それはあなたが優しい方だからです! あのエレオノールがあなたにかけた優しさ、それがあなたを優しくしてしまったのです。もしもあなたがあの娘をなんとも思わず鬼になっていれば、斬り捨てられていたのは俺の方でした!」

 剣は実に素直だ。人の心を鏡のようによく映す。どちらが人でどちらが鬼であるのかも、一刀の下には瞭然であった。

「ふっ、ははっ、はっはっは!」

 秋山は血を吐きながらわらった。夢破れ、血に塗れ、いざ浮き世にさらばというときなのに、実に清々しい顔をしている。

「そうか……優しい、か。じゃあしょうがねえな」

「はい」

 そのとき、泰一は自分の頬を伝う熱い涙に気づいた。思えばロランもエレオノールも、最初は人の道に外れていたのに、最後は人の道に沿うて死んでいったのだ。そして秋山も。

 涙が一粒、二粒と秋山の顔に落ちていく。すると秋山は、もう目の前が暗くなっているようだが、自分の顔に降ってきた水滴によってそれと気づいたらしかった。

「おいおい、鬼が泣くなよ」

かなしいのです」

 泰一は秋山の手を熱く烈しく握り締めた。もうすぐ、この手に脈打っている命が途絶えるのがわかる。否応なく感じられる。最後だ。

「ふふっ……いつかはおまえも、優しさに足をすくわれるか? それとも最後まで鬼でいるのかなあ。鬼丸、おまえの武者振り、あの世からしかと見物させてもらうぞ」

 秋山の手から力が抜けた。今、その魂は魔天へと飛び立ったのだ。

 泰一は血に汚れた秋山の死に顔をしばらく見下ろしていたが、やがて自分で自分の心にけりをつけると、秋山の体をそっとその場に横たえた。それから鬼の霍乱ともいうべき涙を拭ってすっくりと立ち上がる。それを待っていたように、ルナが後ろから声をかけてきた。

「泰一様」

 振り返れば、ルナとソルが人の姿になって泰一の背後に控えていた。ルナが泰一に駆け寄り、秋山にやられた左腕の傷を診る。

「大した怪我ではない」

「それでも手当てを……」

 ルナがそう云いかけたとき、彼女と泰一のあいだを無数の光りの砂が横切っていった。

「あ、菊子」

 ルナが思い出したようにそう呟いた。そう、秋山の死によって、菊一文字が覇剣戦争から脱落したのである。その光りの粒子は天の河のように流れたかと思うと、秋山にとどめの一刀を見舞ったソル・ティソナへと吸い込まれて消えた。

「降ったか」泰一はソルを見据えて尋ねた。

「はい」

 ソルは我が身に行き渡った力を確かめるように自分の両手を見下ろしたあと、卒然と山裾の方へ顔を振り向けた。

「ちょっと失礼します。すぐに戻りますので」

 そう云って、ソルは小藪の方へと駆けていった。その場に残された泰一は、しばらくソルの後ろ姿を見送っていたが、数歩漫ろ歩いて、秋山とエレオノールの亡骸に順に視線をあてた。さらにこの川を遡っていけば、そこにはロランの死体がある。それから名も知らぬ六人の剣士たちの屍も。この一晩で九人死んだ。九人も!

「なんということだ。俺はなんというところへ来てしまったのだ」

 泰一は思わず天を仰いでいた。明け離れてゆく空は澄明な紫色に輝いて美しい。雲のあいだを、鳥の群れが羽ばたいているのが見える。あの空が天国なら、この地上は地獄だ。自分は今、紛れもなく地獄にいる。今さらながらにそう思い知ってわななく泰一の左手を、ルナがそっと握り締めてきた。

「泰一様、後悔しておいでですか……?」

 天を仰いでいた泰一は、ルナに顔を振り向けて、自分でもなにを云おうとしているのか判らぬまま口を開いた。ソルが軽快な足音とともに戻ってきたのはそのときだ。

「泰一様! ルナ!」

 泰一は口を噤んでソルを見た。ソルは指尖ゆびさきに一輪の白い花を摘んでいる。

「まあ、ソル。その花は?」

 ソルはルナの問いかけに淡く微笑むと、エレオノールの傍らで片膝をついた。泰一とルナもまたその傍へと寄っていく。二人の見ている前で、ソルはその小さな名も知れぬ白い花を、エレオノールの胸元にそっと手向けてやった。

「戦さに斃れた男子に花など無用でしょうが、この方は女性ですから」

 問わず語りにそう呟いたソルの頭を、泰一はそっと撫でてやった。ソルは恥ずかしそうに笑うと、立ち上がって泰一の右隣に身を寄せた。

 それから泰一はルナやソルとともに深い眠りについているエレオノールに目を注いだ。その胸に手向けられた白い花を見ているうちに、泰一の頭のなかで、ある一つの記憶が、水面に浮かび上がってくるように蘇ってきた。

「……花で思い出したわ」

 泰一がやりきれぬように呟くと、ルナとソルが二人揃って泰一を振り仰いできた。その二人の眼差しに押されるようにして、泰一は語り始めた。

「俺が二十歳のときだ。幼稚園から中学校まで一緒だった友達が一人、死んだのよ。それで葬式にも出た。その葬式が終わって、出棺というときになってな、最後のお別れということで、棺の蓋が開けられたのだ。それでみんなで、棺のなかに、白や黄色の菊の花を投げ入れてやった。そのときそいつの母親がな、もはや物言わぬ青ざめた息子の顔を涙ぐみながら撫でてやっていたのよ。見ておれんかった。子供に先立たれた親の顔というのは……俺はあのときの母親の顔を一生忘れぬ。沙代子にあんな顔をさせるわけにはゆかぬ」

 泰一はやにわにルナの肩を抱くと、頭を心持ちそちらへ傾けて云った。

「ルナよ、悔いるのは墓に入ってからでよい。今は修羅の道をゆくぞ」

「お供いたします」

「私もです」

 ルナとソルが口々に云った。泰一はそれにしかと頷き、川の流れに目をやった。水はなにごともなく流れている。今宵流れた血も、この水がいずれ洗い流してくれるだろう。そして川の流れの先に目をやった泰一は、川の下流から黒光りするヘルメットを被り、紺の制服を着込んだ一団が、足元を懐中電灯で照らしながら向かってくるのを見て目を瞠った。

「泰一様、あれは……」

 ソルの言葉に、泰一は一つ頷いて答えた。

「岐阜県警機動隊であろう」

 秋山がこの戦いの始まる前に、岐阜県警に連絡を入れて後始末を要請していたはずであった。


 その一団は泰一たちの前までやってきて足を止めた。なかから一人、指揮官と思しき五十歳前後の恰幅のよい男が泰一の前に進み出てきて敬礼をする。

「岐阜県警機動隊の野上警視です。秋山刑事の要請に基づき、覇剣戦争の後始末に参りました」

「ご苦労様です、鬼丸です。ここに二人、ここから川を遡っていったところに三人、それからあの山の展望台に四人、転がっているはずです。今夜のところは、この九人のみ」

 野上は一つ頷くと、早速部下たちに指示を飛ばした。三つに分かれた隊員が、一つは川を上っていき、一つは登山道へ向かい、一つは秋山やエレオノールの死体の片付けを始める。

 泰一がそうした様相を見守っていると、野上が寄ってきて云った。

「一晩で九人ですか。大変なことになりましたね」

「ええ」

 そのあいだにも二人の亡骸はたちまち機動隊員の手で手早く担架に括りつけられ、青いビニールシートに包まれて見えなくなった。

「よし、運べ。残りは俺と一緒に上流に向かうぞ。整列!」

 野上がそう叫ぶと、担架を運ぶ者だけが川の下流へ向かい、残りは河原にきびきびと居並んだ。そうした彼らを率いて歩き出す前に、野上は泰一に向かって云った。

「ところで鬼丸さん、あなたこれから京都へ行ってもらえませんか?」

「京都へ?」

「はい。実は今、この覇剣戦争の参加者全員に、京都へ集まってもらうようお願いして回っているところなのですよ。各地に散らばっていられるより、どこかに白羽の矢を立ててそこでやってもらった方が、こちらとしては治安の維持も状況の把握も容易になるというわけでして」

「それで京都ですか。なるほど、おっしゃる通りにいたしましょう」

「助かります」

 野上は一礼すると、機動隊を率いて川の上流へ向かった。その一団の姿が見えなくなると、泰一は傍らのルナとソルに云った。

「聞いたか?」

「しかと」とルナ。

 ソルもまた不敵に微笑みながら頷いて口を開いた。

「日本各地で篩にかけられた精鋭たちが、一斉に京都にやってくるというわけですね。望むところです。ことごとく降してやりましょう」

「よし、ゆくか」

 泰一がそう号令を降したとき、東の彼方から太陽が昇った。しかし泰一はその光輝に背を向け、山々の向こう、西の彼方を、鬼の瞳で睨んでいる。

 戦場は京都!

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