第二章 全ての始まり (2)
「朋美、今何処にいるんだ?」
「今? 司と買い物してるよ。偶然会っちゃって。もうすんだから今から2人でそっち行くね。今夜はすき焼きだぞお」
明るい朋美の声に心がなごんで、疾風は電話越しに微笑んだ。
「そっか、司がくるんじゃビールでも用意しとくか」
「ビールもいっぱい買い込んだわよ。とりあえず、そっち向かうから。疾風は何にもしないでおとなしく待ってなさい」
「わかったよ」
そう言って疾風は電話を切った。
疾風、司、朋美は幼なじみだから家も近い。
疾風はひとり立ちしてないみたいで嫌だからと実家の近くにマンションを借りて一人で住んでいたが、朋美と司は実家に住んでいる。
だから偶然遭おうがなんだろうが何の不自然もない。
実際3人はいつも一緒だった。最近でこそ仕事が忙しなり、朋美とさえまともな時間を作れない疾風だったが、学生の頃は2人が付き合ってからも司とは分け隔てなくつるんでいた。
久しぶりだな。アイツと飲むのも。
疾風は親友との久しぶりのひと時を思い、心弾ませていた。
カギが開いて2人が入ってきた。
「ただいま」
「お~っす!」
「よお! 悪かったな。なんだか」
疾風は言った。
「お~! この不精者め! ったくたまの休日少しは朋美の相手もしてやれっつーの!」
司は屈託なく笑う。
「そうだぞ! まったく!」
朋美も笑っている。
「解ったよ。腹減ったよ。早く飯にしようぜ」
「ねえ疾風、あそこにすき焼き鍋入ってるから取ってよ」
朋美がキッチンの釣り戸棚を指差して言う。
「おー」
疾風は当たり前にそれを出す。
こんな何気ない2人のやり取りを見ては、司はいつも感傷的な気持ちになっていた。
一緒にいたって自分が決して立ち入る事の出来ない2人だけの空気。
恋人達が放つ独特の雰囲気。
あいつらは付き合ってる。俺が入り込めない空間があって当たり前なんだ……。
何度そう自分に言い聞かせて日々を送ってきた事だろう。
疾風のものになった朋美をいつまで想っていてもしょうがない。きっぱり諦めよう。
だけどいくらそう思いこもうとしても、そうすればする程朋美への想いは相反して増していくばかりだった。
モテない訳じゃない。
言い寄ってくる女はたくさんいる。
なのに、司には朋美しか見えない。
遊びで女とは付き合えても、本気になれるのは朋美だけだった。
それでも2人を目の前にしている以上、完璧に親友を演じきらなければならない。
いつまでも……。
「出来たわよ」
朋美の声で3人は食事を始めた。
それぞれ思い思いに箸をつつく。
「しっかしお前も、たまには彼女でも連れて来いよ」
疾風が言った。
「うるせーなあ」
「お前もしかして女いねーの? この間一緒にいたあの何とかって言う女は? 別れたのか?」
疾風がチャカしていった。
「ほんとうるせーな! ほっとけ! お前らになんか教えないね! 大体俺は秘密主義なんだよ!」
司はそう切り替えした。
「俺達に秘密も何もあるかよ」
疾風は親しみのこもった眼差しで当然のことのように言う。
「そりゃそーだけどよ……」
お前達だからこそ絶対に知られちゃいけない秘密なんだよ……。
司は心の中でそう言いながら、
「案外しっくりくる女っていねーんだよな」
とだけ言った。
「ま、お前もてるからそのうちいい女見つかるだろ」
疾風の言葉に、なんだか疾風が勝ち誇っているように見えて、司は心の中でだけムッとした。
「それより疾風、お前もうちょっと朋美かまってやった方がいいんじゃねーの? ここんとこ休日よく会うぜ。一人ぼっちの朋美ちゃん」
司は朋美がキッチンに立ったのを見計らって疾風に言った。
「え? ああ。仕事忙しくてな」
「それも解るけどさ、今日だってあいつしょんぼり歩いてたぜ。あんま邪険にしてると他の男に持ってかれちまうぞ。あいつ、あれで結構モテるんだから」
色白で、全体的に線が細く、決して派手ではないが日本美人でしとやかな朋美は、昔からよくモテていた。その事は2人だってよく知っている。
「そーだな、気をつけるよ」
疾風は素直な気持ちでそう言った。
「朋美、お前今日どーする? 泊まってくか?」
疾風は言った。
「ううん。今日は帰るよ。司酔っ払っちゃってるし、司の車、このマンションの前路駐しちゃってるから。朝まで置いとけないでしょ? 司送りながら帰るわ」
片付けをしている手を止めないで朋美は言った。
「そうだな。俺も結構飲んじまってるし……あいつの事、頼むわ」
「うん」
「それと……今日はゴメンな」
「いいわよ。いつもの事だもん。でも、この次の日曜はちゃんとデートしてね。約束よ」
少し切なそうな顔をして朋美は言った。
「解ったよ。約束な」
「うん」
* *
帰りの車の中、朋美は考えていた。
疾風は自分を気遣ってくれた。
そのことは嬉しい。なのに、何かが引っかかる。
前々から感じてた事。
疾風の優しさって事務的なんだ。
元々めちゃくちゃ優しいという感じの人じゃなかったけど、学生から社会人になり、彼が少しずつ変わっていった気がする。以前の彼は限りなく身近な存在だったのに、いまは彼との間に距離を感じずにはいられない……。
「何考えてんだよ」
司の言葉で朋美は我に帰った。
「え?別に。今日は楽しかったなと思って」
朋美は笑った。
そんな顔してなかっただろっつーの……司は心の中で言った。
最近独り言が増えたと自分に苦笑しながら。
隣に居る朋美は最近悲しそうな顔をしている事が多くなった。
だからってそれとなく聞いても彼女は決まって「なんでもない」と笑顔を見せる。
その事が半分自分が立ち入れない部分なんだと思い知らされて悲しくなり、そしてもう半分が、そんなけな気な朋美に強く引き寄せられる部分でもあった。
「そう言えば朋美来週誕生日だろ? 何が欲しい?」
司は言った。
司の言葉に朋美は複雑な気持ちになった。
ほんとなら、疾風の口から一番に聞きたかった言葉。しかし疾風はそんな事も忘れているかのような態度だ。
司ってこういう細かいところの気遣いが出来る人なのよね……。司は何で私が欲しいと思ってる言葉をいともあっさりと言ってくれるんだろう……。
朋美はなんだか切なくなった。
「ありがと。司はいつもそうやって気に掛けてくれるね。司の彼女になる人は幸せだね。こんな風に細かく気にかけてもらえるんだから」
「そーでもないさ」
司は小さく言った。
俺が優しく出来るのは、お前だけなんだから……。
「そうでもあるわよ」
そう微笑む朋美を思い切り抱きしめてしまいたい衝動にかられる。
一番近くに居るのに、一番遠い人なんだよな……。
「とにかく何か欲しいもの、考えとけよ」
自分の思いを振り払い、何気ないふりで言葉をつなげる。
「別に何もいらないよ~。その心遣いだけで十分」
物分りのいい女と言う朋美の態度。
でも疾風には思いっきり甘えてわがままを言ったりするんだろうか……司はそんな思いに心をさらわれて、またしても切なくなった。
* * *
「朋美、ごめん。今日のデートダメになった」
疾風は電話越しに謝った。
「どうして?」
待ち合わせた喫茶店で朋美は言った。
「急な仕事が入っちまって……。先輩がミスしてさ、取引先の人怒らせちまって……俺もこれから謝りに行かなくちゃいけなくなったんだ。俺、その人と2人で組んでたから。
3ヶ月もかかってやっと実を結んだプロジェクトなのに……。どうしても行かなくちゃいけないんだよ。ワリいな。約束してたのに」
「夜は?夜も空いてないの?」
朋美はすがるような口調で言った。
「今から謝りに言ってそのまんま接待するって言ってるから。先方の気が済むまで付き合わなくちゃいけないし……何時になるか、わかんねーよ」
「そう……」
「ほんとゴメンな。この埋め合わせは必ずするから」
「わかった」
電話を切った朋美は涙が溢れ出した。
忘れちゃってたんだ。私の誕生日。急な仕事なのはしょうがないとは思うけど、それにしたって誕生日のたの字もなかった……。誕生日も忘れちゃうなんて、疾風にとって私ってどうでもいい存在なんだよね、きっと……。
そう思うと涙が止まらない。
泣いているのを喫茶店に居合わせた他のお客が見ている。
朋美はみっともなくて店を出た。
一人でトボトボ街を歩く。
せっかくお洒落してきたのに、それも無駄になってしまった。
キツイな……こんなの……。
その時携帯が鳴った。
疾風……?朋美は一瞬期待して表示を見たがそこには"司携帯”の文字が記されていた。
でもその文字になぜかホッとしている自分が居る。
「もしもし?」
「俺だ! デートのトコ悪いけどとりあえずバースデーコール。おめでとう朋美。また一つオバサンへと近づいたな」
テレたように言う司の声に朋美の心はなごんだ。
「バカね。でも嬉しい。ありがと……」
そこまでしか言えなかった。涙が止めどなく溢れた。
どうして司はいつもこんなタイミングで登場するのだろう。
「どうしたんだよ? 朋美。何泣いてんだよ? 疾風一緒じゃないのか?」
「うん……」
「何で?」
「急に仕事が入っちゃったらしくって……しょうがないのに、私ったら……」
「今何処にいんだよ?」
「歩いてる。仲居堀通りを」
「とりあえずすぐ行くから。そこで待ってろ。解ったな」
「うん……」
5分ほどして司は現れた。
「乗れよ」
「うん」
朋美は惨めな気持ちで車に乗った。
「ごめんね。なんか来てもらっっちゃって……」
「いいよ別に」
その何気ない言葉の響きに安心する。
「な~んかいっつも司に拾われてるね、私」
「言ったろ? 俺はお前のお守りしなきゃいけないって」
「そっか……」
朋美は思った。
私が一人で寂しい時、誰かに傍にいて欲しい時、いつも傍にいてくれるのは司……。
何かあったらこうしてすぐに飛んできてくれる。いつも絶妙のタイミングで現れる……。
「とりあえず食事でもするか」
「そうだね」
そして当たり前のように自分と一緒に居てくれる……。
「司は優しいね」
「まあな」
そう、司はいつも優しかった。外見からも解るように柔らかい雰囲気で穏やかな人。
優しさが滲み出ているような人。
疾風はどちらかと言うと硬派で、女の人には不器用で……一見するとクールだけど、でも友情には厚くて男らしくて……。
そんな2人と一緒に居るうちに自分はいつしか疾風の男らしさにひかれていった。
そして恋焦がれて付き合って……。
疾風は自分のペースをしっかりと持っている人。
司は相手のペースに合わせられる人。
いつの間にか2人をそんな風に捉えていた。
強さと優しさ……浅黒い疾風と色白の司……見たまんまだなと苦笑さえしていた。
疾風の強さに付いて行く事に疲れていた朋美は、今はこの司の優しさが何より身にしみていた。
「ほんと、司の彼女になる人は幸せだね。私も、司みたいな人選べばよかった」
無意識に出てしまった一言だった。
「じゃあ俺にしろよ」
「え?」
司の言葉に驚いて朋美は運転している司の横顔をまじまじと見た。
「疾風なんて止めて俺にしろよ」
急に車を横付けして司はまじめな顔で言った。
「何言ってんの! 司ったら……」
見た事もない司の態度に戸惑って朋美はふざけて言った。
「俺、マジだよ。ずっとお前の事見てた」
「何言い出すの? 司」
そう言った朋美を司は抱きしめた。
「司……」
朋美はなす術がなかった。
司の腕はあまりにも温かかった。ただそれだけだった。
「俺、お前がずっと疾風の事想ってたの、知ってた。ずっと朋美だけを見てたから。お前達が付き合い始めたとき、俺すごいショックだったけどそれでも相手が疾風ならいいと思った。幸せそうにしてるお前見てたらこれでいいって思った。
こんな想い、一生口にしないって思ってた。
お前が幸せならそれでいいって……だけど、もう限界だよ。寂しそうにしてるお前見てて、もう黙ってらんない。俺んとこ来いよ、朋美。俺だったら絶対お前にこんな寂しい思いさせないから。朋美、愛してるよ。疾風なんかよりずっとずっとお前の事、愛してるよ……」
司は抱きしめた腕に力をこめた。
「司……」
この腕が心地いいよ……温かいよ……。
朋美はそこに身をゆだねた。
一緒にいたいのは疾風。
だけど一緒に居て心安らぐのは司。
疾風、もう疲れたよ……あなたを待つの。
私ここがいい。
何かあったときいつも傍にいてくれるこの人がいい。
朋美は心を決めた。
「司……」
朋美は司を見つめた。
「朋美、俺……」
そう言いかけた司の唇を朋美はキスで塞いだ。自分でも驚く位大胆な行動だった。