第二章 全ての始まり (1)
1995年――――
「ねえ、疾風たまにはどっか連れててよ~!」
ベッドに腰掛け、朋美が甘えた声でそう言った。
「わかったよ……だけど今度な……徹夜明けで疲れてんだよ……今日は勘弁してくれよ」
疾風は半分寝ぼけながらうわ言のようにそう言って、再び眠りに落ちていった。
「何よ! いっつも今度今度って……もう1ヶ月以上もデートらしいデートしてないって言うのに……もうちょっと、わたしのこと大事にしてくれてもいいんじゃないの? ねえ、疾風~」
朋美の声が疾風に届く事は無い。疾風はもう深い眠りに落ちている。
疾風はいつもこうだ。
いつも仕事が最優先で朋美の事は二の次。
今日だってせっかくの休日だから約束はしていなかったものの、何処かへ
連れ出そうと思ってきたって言うのに、疾風はお構いなしにグーグー寝ている。
そりゃ付き合ってっていったのはあたしの方だけどさ……。
朋美はちょっと惨めな気持ちになった。
疾風と朋美は幼なじみだ。
もうすぐ23になる朋美は小学校から一緒だから16年来の付き合いだ。
疾風を男性として意識しはじめたのは高校に入ってすぐだ。
色恋沙汰より仲間の輪を大切にしていた疾風に言い出せずに3年半、大学に入って
さらに1年経ってやっと告白する事が出来た。
玉砕覚悟で打明けた朋美だったが疾風はあっさりとOKしてくれた。
そうして付き合い始めて3年と少し……。
疾風は積極的に何かしようというよりはいつも受身だった。
私は本当に愛されているんだろうか……そんな風に思わずにはいられない朋美だった。
あの分じゃ当分起きそうも無いわね……。
朋美はそんな疾風に見切りをつけて一人で出掛ける事にした。
こんな風に休日をつぶすのもすっかり慣れてしまった。
私だってモテない訳じゃないのに……あんまりほったらかしにしてたら、
浮気でもしちゃうんだから……。
眠る疾風の浅黒く均整の取れた横顔にそっとつぶやいて、朋美は部屋を後にした。
だけどどーしたもんかね……。何しようかな……。
とりあえず朋美は駅へと向かった。
休日の昼下がり、行き交う人並みを眺めても、カップルばかりに目が行ってしまう。
幸せそうに微笑みながら歩いている。
私だって彼がいるのに……。何、この寂しさ。あたしだってこんな風に休日を過ごしたいわよ……。ああ、本格的に惨めになってきた……。
そんな気持ちでトボトボと歩いていると、1台の車が横付けしてきてプップ、とクラクションを鳴らした。
「何してんだよ?」
その声に顔を上げると司が運転席から見を乗り出してニッコリと微笑んでいた。
「司……」
朋美はすがるような目で司を見た。司は疾風同様朋美の幼なじみだ。
3人はいつも一緒だった。
疾風が恋人なら司は朋美にとって親友そのもの。
3人はお互いの性格を知り尽くし、理解し合っている。
だから朋美は司には何も遠慮する必要はない。
「なんて顔してんだよ」
司は温かい微笑を向けている。
「ま~たフラれちゃったわよ……」
朋美はため息と一緒に微笑んだ。
「ったくあいつも何考えてんだか。乗れよ。どーせ行く当てなんてないんだろ?」
「まあね」
朋美は軽く微笑んで司の車へと乗り込んだ。
「で、どーする? 映画でも見に行くか?」
「そうね……。それより司、どっか行く途中だったんじゃないの?」
朋美は聞いた。
「別に。洗車して帰ってきたとこだったから」
「ふーん。司そんなカッコいいのに休日にデートする相手もいないの?」
朋美はいたずらっぽく司を覗き込んだ。
色白で整った顔立ちをしている司は、親友の朋美から見てもかなりカッコいい。
疾風とは正反対の柔らかいそのものごしは、何故か朋美を安心させた。
実際、疾風と司2人はいつも女子の憧れの的だった。
だけどそんな事は気にも止めないで性格のいい2人を親友に持って、朋美は自慢げだったものだ。
「いるよ。山ほど。だけど……」
「だけど何?」
「お前のお守りしなきゃいけないからな、疾風の変わりに」
そう言って司は微笑んだ。
その微笑があまりにも優しさを帯びていたので朋美は思わずドキッとした。
「別にお守りしてなんて頼んだ覚えはないわよ」
司がどんなつもりで言ったかは解らないが、ドキッとしてしまった自分が恥ずかしくて朋美は照れ隠しでワザとイジわるっぽく言ってしまった。
「そりゃそーだけどな……」
そう言って司は黙ってしまった。
その横顔はなんとなく切なげにも見える。
「ごめん。変な言い方して……。いつも司に救われてるのに……」
「いいよ。しっかしまあ、俺が言うのもなんだけど、疾風の奴ほんとそーいうトコには不精って言うかなんてゆーか……」
「ほんと。私って、愛されてないのかなあ……」
そう言ってうつむく朋美の横顔を、司はそっと盗み見た。
俺だったら絶対朋美にこんな思いさせないのに……。
疾風の奴……朋美を幸せにしてやれって言ったのに……。
司は、朋美が疾風を想うずっと前から知美を見てきた。
だた一人、朋美だけを。
だから彼女が疾風を男として意識し始めた時、すぐに解った。
朋美は疾風を選んだ。
司はかなりショックだったがは疾風のよさも知っているだけに、それで朋美が幸せになるならと自分の心に折り合いをつけていた。
だから、この想いを知るものは誰もいない。
そしてこの想いは一生自分の心の中だけにしまっておこうと心に決めた。
なのに、近頃の疾風の態度……。
大学を卒業し、一社会人として仕事が忙しいのも解るがそれにしたって……ここ1年、朋美の笑顔はだんだんと減っていった。
こうして休日相手をする機会が増えていってる。
疾風、何考えてんだよ……。俺は相手がお前だから身を引いたって言うのに。お前がそんなんじゃ俺が奪っちまうぞ……。
司は朋美にとって1番の理解者である事に、親友として振舞っている事に限界を感じていた。
疾風が目を覚ますと、夕方5時だった。
布団に入ったまま大きく伸びをする。
よく寝たな……。そう言えば朋美来てたよな……。
疾風はのっそりと起きだし、渇いた喉を潤そうとキッチンへ向かった。
2,3日そのままになっていた食器やら食べかすも、綺麗に片付いている。
部屋全体が綺麗に整理されている。
朋美に悪い事しちまったなあ……。
疾風は少し反省した。
朋美とはもう長い付き合いでお互いの事を知り尽くしていたし、疾風にとって朋美はなんの気遣いもいらない、一緒にいるのが本当に楽で、自然で当たり前で……言うなれば、空気のような存在だと思っていた。
いずれは結婚するだろう……そんな風にさえ考えていた。
そういや最近、何処も連れてってねーや。
疾風は一通りの家事をやってくれて黙って出かけていった朋美に、彼女のしおらしさを感じて無性に朋美に会いたくなった。
電話してみるか。
疾風は朋美の携帯を鳴らした。