第八章 とどかぬ想い (5)
「これを受け取ってくれ。何もしてやれないが……何かの役に立ててくれ」
それは通帳だった。
「何これ。こんなものいらないわ」
小百合は目の前で起こっている状況が飲み込めなくてそう言った。
―愛してるって言ってくれたじゃない―
たった今打明けられて信じられない程幸せだと思ったのに、いきなりの別れを意味する言葉にただ戸惑っていた。
何もしてやれないって……やっぱりあなたは行ってしまうの?
これ以上、甘えちゃいけない?
すがりたい。この人にすがってしまいたい。
そう思わずにはいられない。
小百合は愛しい人を見つめた。
こらえるような、辛そうな顔をしている。
そうね……これ以上あなたに甘えちゃいけないわね。あなたの優しさに、漬け込んじゃいけない。愛しているといったのはあなたの優しさね。
今だって、私を残していく事に、とても苦しんでいるんでしょう?
あなたは優しい人だから。
小百合は涙が溢れないように、ぐっと唇をかんだ。
「だけど俺は何も残してやれないから。この子にも」
「でも、こんなのいらない。そんな風に思ってなんかないわ。そんなものを当てにしてる訳じゃ……」
行かないで。
涙が溢れる。
「小百合、泣かないでくれ」
ごめんなさい。あなたを困らせて。
でも……
それがどんなに疾風を困らせる行為か解っていても、小百合は涙を止める事ができない。
「行ってしまうの?」
「ああ」
「行かないで」
こらえきれずに想いを口にする。
「小百合……」
疾風は優しく抱きしめてくれる。
最後まで、優しいのね。
こんなに優しいあなたを、これ以上困らせちゃいけない。
あなたはもう十分やってくれた。
何よりあなたの分身を私に残してくれた。
だからこれ以上、望んじゃいけない。
どんなに辛くても……。
「ごめんなさい。変な事言って。この子の事は大丈夫よ。心配しないで。どんな風に生まれてきたって、大切に育てるわ。あなたに迷惑かけたりしないから」
小百合は涙を手で拭うと疾風を見ないで言った。
彼の顔を見たら、またすぐに涙が溢れてしまう。
「小百合」
辛くなるのよね。きっと、赤ちゃんを見ちゃったら。
だからあなたは今、行ってしまうんでしょう?
「疾風さん、ほんとに色々ありがとう。あなたと出会えてよかったわ。私はあなたと出会えたこと、後悔なんかしてない。この子の事も。あなたはいっぱい私に幸せをくれたわ。私、ほんとに幸せだった――」
嫌だ。行かないで欲しい。
あなたと一緒にいたい。
なんで心にもない事を、思っていることとは全然逆の事をすらすらと言ってしまうんだろう。でも……。
小百合は耐え切れず疾風にしがみ付いて泣いた。
「小百合」
「行かないで。お願い。あたし、やっぱり……あなたと居たいの。お願い! 行かないで!!」
小百合は思いの全てをぶちまけた。
ズルくたっていい。サイテーだっていい。
どうしてこの人を手放せるの?
こんなに愛してるのに……
「小百合……俺だって一緒に居たい。君と、生まれてくる子供と……でも……」
「だったら! だったら一緒に居てよ! どうして行ってしまうの? 疾風さん! ねえ!」
思いのたけを思い切りぶちまける。そのとき
ズキン!!
お腹に鋭い痛みが走った。
そして、生温かいものが両足の間に大量に流れ出た。
思わず苦痛に顔をゆがめる。
「小百合、どうした?大丈夫か?」
「はっ疾風さん……破水……したみたい。看護婦さんを――」
「解った。今呼んでくる。すぐに戻るから、待ってるんだ!」
疾風は駆け出して病室を出て行った。
* * *
ズキン!!
激しい頭痛と共にめまいがした。
見舞いに来ていた病院のロビーで、俺は思わずうずくまった。
変な感じがする。
何かに引っ張られるような……
なんだ?この感覚は?
俺は味わった事のない感覚に、しゃがみこみ、息を荒く吐いて必死に耐えた。
なんなんだ?一体……なんて痛みだ……
割れるように痛む頭の中で、一つの結論にたどり着いた。
そうか。俺が、生まれようとしてるんだ。
たぶん。
読んだ小説なんかによると、タイムスリップした者は、過去の自分と会っちゃいけないんだってのが大体の決まりみたいなもんだから。
だから俺は今、こんな風に苦しいのかもしれない。
でも待ってくれ。俺が生まれるまであと2日あるはずだ。
だけど……
俺は本能で感じていた。
たぶんもう、ここにはいられない。
母さんのところへ行かないと。
オヤジは来て居るだろうか?
オヤジに、なんとしても母さんの気持ちを伝えなきゃ。
そしてオヤジの気持ちも聞かなくちゃ。
俺は激しい頭痛に耐えながらも母さんの病室へ向かった。
母さんの病室のある階に行き、病室が見えるところまでたどり着くと、そこはバタバタとしていた。
母さんが運ばれていくところだった。
オヤジがアタフタしている。
「疾風さん! 疾風さん!」
母さんが苦痛に歪んだ顔をしながらオヤジの名前を呼んでいる。
母さん……頑張って……もうすぐ俺が生まれるんだね……
「小百合、頑張るんだ!」
「疾風さん! 一緒に……」
「なんだ? 小百合!」
オヤジが付き添ってたけど、
「ご家族の方はこちらでお待ちください。」と看護婦が言ったので、オヤジは渋々言う事を聞いたみたいだった。
オヤジ……俺はあんたに言わなきゃいけないことが……
頭が痛い。
俺は置いてあった長イスに倒れこんだ。
すると、司さんがその横を通り抜けていった。状況を見て、かなり慌てている。俺に気がついてない。
「疾風、もう行けよ。子供を見たら辛くなるだろう?」
おもむろに、司さんが言った。
何を言ってるんだ?この人は。
何でオヤジが行かなきゃいけないんだ?
「いや、俺はここに居る。辛くても、どうしても子供の顔をみたい」
「小百合さんが動揺するだろ?彼女は俺と生きるんだ。お前になど子供を抱かせたくないはずだ」
何を言ってるんだ、この人は。
何で母さんがあんたと……
そうか。
この人だ。
この人が母さんとオヤジを引き裂いたんだ。
自分の勝手な思い込みで、ある事無い事言って……
言わなくちゃ。
そうじゃないって、オヤジに。
でも凄まじい痛みが俺を襲って、低くうめいてこらえるのが精一杯だ。
くそう!頭が痛くて体がうごかねえ!
俺は結局何も出来ないのか?
わざわざこんなとこまで来て、俺は結局何もできないって言うのか!
運命なんて、変えられないのか!
「でも。小百合は俺の名前を呼んでいた。一緒にいたいと言ってくれた」
そうだオヤジ!負けるな。負けないでくれ。母さんと……俺のために。
「だから一緒に居るっていうのか? 彼女はお前を愛してないのに。子供がいるからお前と一緒にいるって言ってるだけだ。自分の気持ちを犠牲にして。そんな同情で傍にいてもらってお前は満足か? お前だって彼女を愛してる訳じゃないんだろ? 罪悪感を愛とカン違いしてるだけだ。だから彼女をこれ以上――」
「それでもいい! 俺は、小百合を愛している」
俺は割れるような痛みのなかで、でも確かに聞いた。
オヤジ……
やっと言ったな。
母さんを愛してるって。
良かった。
2人は相思相愛じゃん。
俺は、愛しあった末にうまれてくる子供なんじゃん。
「よくもまあそんな事が言えるもんだな! あんな事をしておいて。なんて勝手なヤツなんだ! お前って男は!」
負けるな、オヤジ。俺は、あんたが……母さんを優しく見つめるあんたを……
「勝手なのは解ってる。でも、小百合は行かないでくれと俺に言った」
「どこまで御めでたいヤツなんだ、お前は! そんなの口先だけに決まってるだろう? いいか、彼女は俺と生きるんだ。解ったか? 2人でそう決めたんだ!」
違う! そんなの嘘っぱちだ。
母さんは司おじさんの事なんてなんとも思ってなかった。いや、むしろ、嫌ってた。
この人は……
あの日、俺に言った事もウソだったんだ。
いや、全部が嘘とは言い切れないけど、半分は、自分の勝手な思い込みじゃないか。
嘘を並べて本心を言い出せない2人の心を揺さぶって引き裂いたんだ。
「一目だけでもいい。俺は子供に会いたい」
オヤジ……そうじゃねえんだ。母さんの気持ちは……
「何言ってる! 一目だけ? そう言って子供を見たら1日だけ、1年だけ……そうなるに決まってるだろ! まったくずうずうしいな、お前は! 自分のした事を考えろよ! あの日の彼女を思い出せよ!」
黙るオヤジ。
元々引け目、いや負い目があるから強く出れないんだ。
母さんだってある種の引け目を感じてオヤジに本心を打明けられなかったんだから。
それぞれに負い目があるからほんとの気持ちを言えなくて事態が入りくんじまったんだ。絡み合っちまったんだ。
「解ったならもう行けよ。何度も同じ事をいわせるな。」
「でも俺は……小百合の婚約者だ。子供の父親だ」
「何が父親だよ、婚約者だよ! だったら何で小百合さんがお前と結婚しなかったと思う? え? お前に言えるか?」
「……」
「それが彼女の本心なんだよ!」
オヤジと司さんが激しく言い争っている。俺は荒く息をして、座っているのが精一杯だ。でも…ここで俺がいかなくちゃ……。
「ちっちょっと待ってくれ」
俺は痛む頭を抑えながら二人に近づき何とか言った。
その時、母さんが入った部屋からバタバタと看護婦が出てきた。かなり慌てている。
何かあったんだろうか? 母さんに何かあったんだろうか?
「何かあったんですか?」
司おじさんは看護婦に駆け寄った。
「どうした? 大丈夫か?」
オヤジが俺に気付き、いや俺の様子に気づいて俺を支えてくれた。
「小百合さんは……俺なんかにかまってる場合じゃねーだろ?」
俺は母さんの様子が気になって言った。
「そうだが。お前だって普通じゃない。今先生を呼んでやる。ちょっと待ってろ」
コイツの言う言葉が、何だかオヤジらしく聞こえる。
その時、また激しい頭痛がした。
「うう……」
俺はあまりの激痛にオヤジの腕にしがみ付いた。
「おい! 大丈夫か?」
「逃げんなよ……小百合さん、あんたを想ってる……。だから……」
意識が遠のく。
ダメだ。
まだだ。
俺はオヤジに言わなきゃいけないけないんだ。母さんの気持ちを。
「日記……。枕…し…た……」
遠のきそうな意識を何とか呼び戻す。
「何を言ってる?」
「愛してんだよ! あんたを!!」
俺はもはやあまりの苦痛に叫ぶように言っていた。
「あんただって惚れてんだろ!!」
俺の言葉にオヤジはただ呆然としていた。
「小百合さん産むって言ったろ? 愛しいって!! 生まれてくる子供をあんたに抱いて欲しいって、あんたと育てたいってそう思ってんだよ! とにかく日記を読めよ! 枕の下に……ぐあー!!」
「大丈夫か? どうしたって言うんだ? 俺はどうすれば――」
「しっかりしてくれよ! オヤジー!!」
持ってる力の全てを振りしぼって叫ぶ。
そして力尽きたようにふたたび俺の意識はもうろうとしていた。
また動きがあわただしくなった。
オヤジが看護婦に呼ばれて行った。
俺を気にしてる……こんなトコで、変に父親ぶりやがって……
ああ、俺が生まれるんだ。
ちゃんと伝わったんだろうか?
俺の言ったこと……
日記、持ってこなくちゃ……
あんな解りづらいとこにあるの、見つけられるわけねえ。
好きあってる2人を、引き裂くなんて……絶対させない。
俺の手で、なんとかしてやりたい。
俺はフラフラと歩きだした。
何とか病室へたどり着き、日記を手にした。
これを、オヤジに……
ドアを開けて、オヤジの所へ向かう。
と、頭痛がより激しくなって、体中が焼けるように痛くなった。
「ぐああ……」
声を上げて思わず倒れこむ。
待ってくれ。まだだ!俺 はこれをオヤジに……
母さんは一生言えない。ほんとの気持ちを。
だからこれを、確実にオヤジのトコへ……
俺がなんとかしてやりたいんだよ!
もう少しだから……頼むから……待ってくれ!!!