第八章 とどかぬ想い (4)
覚悟を決めて俺は母さんの病室をノックした。
でも返事がない。
俺はドアを開けた。
そこはモノケのカラだった。
検診に下の階にでも行ってるのかも知れない。
俺は待つことにした。
なにげに視線を這わせると、ベッドの枕の下に、なにやら隠すように置いてあった。手にとると、それは赤い表紙の日記帳だった。
心臓がドキドキした。
この中に、母さんの本心が詰まっている。
こんな事、ほんとはやっちゃいけない事だけど……そんなことは言ってられない。
なにせ母さんの、俺の、未来がかかっている。
俺は日記を手にとると、そっと表紙を開いた。
1月 12日
「お前の気持ちなんて俺には関係ない」
疾風さんにそう言われた。
あの人は、私を愛してなどいなかった。
「あんたは自分でこうなる事を選んだんだからな」
そうも言った。
そうだ。
私は自分でこうなる事を選んだ。
あんな事があっても、私はあの人を……あの人は私がお金目当て、そして司さんをかばってこうしたのだと思ってるけど、それは違う。
私は疾風さんを、愛している。
たとえ私を利用しただけでも、私はあの人を愛している。
バカだ。
彼は私の事などなんとも思ってないというのに……ほんとにバカだ。
それでも私は、あの人が好き。
私を助けてくれた、あの人が好き。
いきなりの衝撃的なその内容に、俺は目を見開いた。
なんて事だ。
母さんは、最初っからアイツを……これが、母さんの本心。
なぜだか解らないが、胸の奥底からうれしさがこみ上げる。
そんな気持ちを押しとどめて俺は日記を読み進めた。
1月 25日
あの人の部屋で帰りを待つ。料理を作る。
あの人は私の事などなんとも思っていないのに、私は楽しい。
こうして彼を待つことが。
あの人の気持ちも聞かないで無理やり婚約しているなどと言って始まったこの生活だけど、私は嬉しい。
こうしてあの人を待っていられる。
あの人と生活を共に出来る。
例えそれがあの人の人生を無理に縛っている事だとしても。
2月 8日
今日、父さん達が来た。
父さんがあんな事を言うから困っちゃったけど疾風さんは、それに答えるように結婚したいと言ってくれた。父さんが強引だったからかもしれないけど……私は嬉しかった。
ほんとにそうなれたら、どんなに幸せだろう。
あの人が私を本気で愛してくれたら……そんなことは絶対にありえないけど。
2月 10日
疾風さんの両親のところへ行った。
ご両親は私の事を認めないといった様子だった。
疾風さんがかばってくれた。
私を侮辱するなと言ってくれた。
嬉しかった。
でも、私のせいで家族がバラバラになるのは……
「それでもいいと言ったらお前はそばにいてくれるか? 金のない俺でも」
「だったら、いいじゃないか。このままで」
あの人の言った言葉が頭から離れない。
いいじゃないか、このままで。
いいんだろうか、このままで。
でも、許されるなら私はこのままでいたい。
疾風さんと一緒に。
それにあの人は今日、"愛してる”と言ってくれた。
思わず出てしまっただけの言葉なんだろうけど、私はとても嬉しかった。
"愛してる”
それが本心だったらいいのに。
でも、あの人はとても優しく私に接してくれる。
とても優しく、私に触れる。
いたわるように、壊れそうなものに触れるみたいに。
だから私は勘違いしそうになる。
愛してもいない女の人を、男の人はあんな風に抱けるのかしら。
わからない。
いいえ、罪悪感があるんだわ。
私に。
だから……それだけのことね。
でも、疾風さんは今日、"愛してる”と言ってくれた。
私は、不安だらけのこの生活の中でこの言葉を励みに、生きていける。
疾風さん、ありがとう。
2月 15日
疾風さんはこの生活を、どう思っているのだろう。
解らない。
私にしてしまった罪悪感で一緒にいるだけなんだろうか。
それでも私は、あなたと一緒に居たい。
2月 20日
今日、司さんが訪ねてきた。
『君は利用されてるだけだ! 奴は君の事を愛してなどいない』
そう言っていた。
そんなことは解っている。
『奴は俺に復讐したいだけなんだ! 俺の気持ちを知って、大切なものを奪い俺を傷付けたいだけなんだ!』
そうも言っていた。
彼は疾風さんから以前に恋人を奪った。
その復讐。
そんなことは解っている。
だからって、だけど……私は疾風さんが好き。
一緒に居たい。
私を愛していなくても、利用しただけだとしても。
だって、彼は優しいの。
その優しさに、甘えていたい。
2月25日
最近体調が悪いし、生理が遅れていたのでもしかしてと思って病院へ行ったら、赤ちゃんができている事がわかった。もうすぐ3ヶ月だって。
私と、あの人の子供。
嬉しい。
私の中に新しい命が宿っている。
超音波で見せてもらったらちっちゃな心臓が、ぴくぴくって動いてた。
可愛い。愛しい。
でも、このことが解ったらあの人は何ていうかしら。
堕ろせって言われるかしら。
あの人は私を、愛してなどいないから。
でも、私は産みたい。
絶対に。
あの人と私の、赤ちゃんだから。
俺はそこを読んで涙を流していた。
母さんは、あいつを愛していて、あいつの子供だから産みたいと思ったんだ。愛する人の子供だから。
そこがなにより一番重要な気がした。
だからってそうならそうで、どうしてそういわなかったのかは謎だけど。
ほんとに俺を、初めから愛しいと思ってくれたんだ。
俺が出来た事を、心から喜んでくれたんだ。
俺は仕方なしの、わずらわしい存在じゃないんだ。いや、母さんは新しい命を愛しいと言ってくれたけど、それは宿ったからにはって気持ちじゃなくて、愛した男の子供だからこそ愛しいと思ってくれてたんだ。
やっぱり母さんの愛に、偽りはなかったんだ。
だから余計になぜ母さんがその事を誰にも言わなかったのかが気になる。
俺は日記を読み進めた。
2月 28日
赤ちゃんが無事で良かった。
倒れてしまったらしいけど、とにかく無事でよかった。
あの人は『俺の子供なんだぞ』と言っていた。
そして赤ちゃんはとても危険な状態で、脳に障害が出るかもしれないと。
『確かに傷は残るかもしれない。でも、今決断すれば、君の人生はもう一度やり直せる。君を自由にしてあげたいと思う。自分の勝手な思い込みで君を巻き込んでしまった。申し訳ないと思っている。家の事なら心配要らない。ひどい事をしてしまった君へのお詫びだ。君は、人生を取り戻せるんだぞ?』
そうも言っていた。
人生を取り戻したいのはあなたのほうね。
あなたは私に詫びた。
後悔してるのね?
でも私は、絶対にこの子を産みたい。
例えどんな風に生まれて来るんだとしても。
障害がでたって、愛せるわ。だってもう、こんなにも愛しいんだもん。
疾風さんは私のしたいようにすればいいと言ってくれた。
その言葉に甘えたい。
3月 15日
今日もあの人が、優しい笑顔を浮かべて来てくれた。
嬉しい。
疾風さん、許してね。
こうしてあなたの人生を縛りつけようとしている私を。
ほんとはとても悔いているのでしょう?
あなたは優しい人だから、私を見捨てられずにいるのよね。
そんなあなたの罪悪感と優しさに漬け込んで、あなたの人生を縛り付ける私を許してね。
辛いだろうに……。私を見ることすら、辛いだろうに……。
そして子供が出来てしまった。
全ての罪を見せ付けられて、思い知らされて……
それでも笑顔で接してくれる、あなたを愛しているの。
あなたの子供だから、どんな事があっても産みたいの。
疾風さん、あなたに甘えていいですか?
ズルイけど……あなたのその優しさに、甘えてもいいですか?
俺は日記を読みながら、涙をとめる事が出来なかった。
母さんはこんなにもオヤジの事を愛している。愛しているからこそ、言えなかったんだ。オヤジの人生を縛ってはいけないと。
そして、司おじさんの事が迷惑な事、オヤジを愛してるのにオヤジが罪悪感で一緒にいると思ってるから、周りがどんなに進めても籍を入れるなんて言い出せない事が解った。
俺が生まれるまでは一緒にいて欲しい。
でもそれ以上はオヤジの人生を縛ってはいけないと思っている。
だから自分の気持ちを誰にも打明けられず、また悟られてはいけないと思っている。
母さんはオヤジを愛している。
だったらオヤジの気持ちは?
それを知ることが出来れば、どうにかできるかもしれない。
母さんはあんなオヤジでも愛している……。
俺はこみ上げてくる嬉しさを隠しきれなかった。
俺は嬉しいんだ。母さんがオヤジを愛しているとわかって。
愛した人の子供だと母さんが思ってくれてて。
俺は汚らわしい人間なんかじゃないんだ。
母さんにとっては愛する人の子供なんだから。
母さんの本心を知った以上、俺は絶対にあの2人を、なんとかしたい。
母さんの想いを、成就させてやりたい。
いや、できればちゃんと結ばれて欲しい。お互いに偽りじゃない、ほんとの気持ちで。
こんなに愛してる母さんを、捨てない欲しい。俺たちを、捨てないで欲しい。
オヤジの気持ちを、確かめなくては。
* * *
「疾風、話がある」
疾風が家路についてマンションの階段を上っていると、厳しい顔をした司が立っていた。
「ああ」
疾風は目を合わせずにそう言うと、司を部屋へ通した。
「早速だが、お前はどうするつもりだ?」
司が切り出した。
「どうするって……」
疾風は力なく答えた。朋美に真実を聞かされたときから、司と疾風の立場は逆転していた。疾風は素直に自分の過ちを認めていた。だから、司に何をいわれてもただ黙って言われるがまま耐えていた。
全ては自分の勝手な思い込みから始まった事。言い返すことなど到底できない疾風だった。
「子供はもうじき生まれてくる」
「ああ」
「彼女はお前を愛してなんかいないぞ。愛してる訳ないだろう?お前はあんな事をしたんだ」
解っている。そんなことは。
「お前の顔も見たくないはずだ。お前のやったことは許される事じゃないからな。お前が傍にいることを許しているのだって、お前が一応父親だからだから仕方なしにそうしてくれてるだけなんだぞ?わかってるか?」
そうなのだろう。
「お前は彼女にあんな事をした上にこんな事になって……。どう思ってるんだ?子供の事」
「俺は……嬉しいと思っている」
疾風は正直な気持ちを漏らした。いや、そこだけは、きちんと言いたかったのかもしれない。
「は! お前は憐れなヤツだな。どこまでおめでたいんだ! 彼女は優しい人だから、仕方なしに、出来ちまったから仕方なしに産もうとしていて、お前とだって同情で一緒に居てくれてるだけなんだぞ!彼女はほんとは俺の所に来たいんだ。でも、お前に汚された事と子供が出来てしまった事の罪悪感からそれも出来なんでいるんだ! 自分がどんなに残酷な事をしたか、わかってるのか?」
「解っている」
そうだ。俺はあんなにひどい事をしたんだ。
小百合が俺を、愛している訳がない。
「だったら彼女から手を引けよ。よくうれしいなんて言えるな。いったいどういう神経してんだ? 彼女の人生をめちゃくちゃにしておいて! 図々しいにも程がある。もういい。子供は俺が面倒を見る。だから彼女の前から姿を消せよ。これ以上彼女に関わるな」
「それは……」
身勝手な想いと解っていても、ついすがりたくなってしまう。
あの、いとおしく優しい笑顔に。
「これ以上彼女の人生を壊すなよ! そんな権利はお前にはないだろ? 俺へのことだって、お前が詫びたからもう許してやろうと思う。だからもう、これ以上彼女と関わるな。いや、俺達に関わるな。お前は邪魔者でしかない。お前がいる限り、彼女は俺のところへ来れない。お前がいる限り、彼女は幸せにはなれない」
司の言葉を疾風はかみ締めるように、こらえるように聞いていた。
何も言い返すことなど出来ない。
全ては、自分の邪心と勘違いから引き起こしてしまった事だ。
小百合の気持ちが司にあるなら、自分は身を引くべきだろう。
どんなに愛しくても、邪魔者でしかない。
辛い状況にけなげに微笑む小百合だから、絶対にそうしてやらなければならないんだろうと思う。
それが彼女の幸せなら……
そうしてやろうと思う。
「子供の養育費やなんかは俺が――」
「結構だよ。責任持って俺が面倒見る」
「だがお腹の子供は俺の……」
「もう彼女の前に現れるなよ。いくらお前でも、子供を見ちまったら辛くなるだろう? 彼女が言い出せないのをいい事に、甘えるのもいい加減にしろよ。これ以上彼女の優しさに漬け込むなよ」
小百合の本心がそこにあるなら、そうするしかないだろう。
疾風は自分の思いをグッとこらえて思う。
解っていたんだ。いつまでもこのままじゃいられないって。
いつか終わりが来るんだって。
"もう少し傍にいてね”
小百合の言葉がふと頭に浮かぶ。
小百合はそう言っていた。
もういいんだろうか?傍にいなくて。
だけどそんな風にも思ってしまう。
「それがほんとに小百合の意思なんだな?」
「ああ、そうだ」
言い出せないな。小百合の性格じゃ。
それに、きっとこの想いを打明けてしまったら、子供の事を考えて、自分の気持ちを犠牲にしてしまうんだろう。だからこそ、彼女を苦しめるような事は絶対に言ってはいけないんだろう。
「解った。子供の事は、ほんとにお前に任せていいんだな?」
「ああ、責任持って育ててやるよ」
「その言葉を信じる。だから……明日を最後にするから。もう一度だけ、会わせてくれ」
「いいだろう。明日が最後だ」
* * *
「小百合」
疾風は病室を訪れていた。
これが最後。
これが……
「疾風さん! なんだかね、赤ちゃんがあんまり動かなくなってきたの。先生に聞いたら、もうじき生まれる証拠だって。どっちが生まれるのかな? 聞いてないから、楽しみだね」
「ああ。そうだな」
その笑顔に負けて、思わず気持ちをぶちまけたくなる。
小百合……そんな事、言わないでくれ。
辛くなる。
君と子供を手放す事が……
「そうそう、名前、いいのまとまった? どっちも考えてあるのよね? 私もね、考えては見たんだけど……疾風さん?」
疾風はたまらず小百合を抱きしめた。
そんな事を言わないでくれ。
そんな笑顔で俺を見ないでくれ。
小百合……俺はお前と一緒にいたい。
お前と子供を、いつまでも見守りたい。
お前と、離れたくない。
「小百合、俺の子供を産んでくれてありがとう。ほんとに嬉しい」
「疾風さん。私こそ、わがままを聞いてくれてありがとう。あなたには、感謝し尽くしてもしたりないわ」
別れの言葉か。
疾風は小百合を抱きしめながらその言葉に硬く目を閉じ、自分の想いに耐えた。
小百合……今更何も言わない方がいいよな。
何も最後まできみを傷付けわずらわせる必要はない。
でも……
「愛してる」
疾風はこらえきれずその想いの全てを一言にたくした。
その言葉に小百合がビクッと反応する。
「疾風さん、それ――」
否定する言葉を聞きたくなくて、彼女の唇を唇で塞ぐ。
最後の口づけを交わす。
頼むから拒んでくれ。
最後だから。
お前を、振り切れるように。
でも、やっぱり彼女は拒まなかった。
そんな彼女だから、やっぱり幸せになって欲しいと思う。
理性を取り戻す。
「子供の事、何かあったらいつでも俺を頼ってきて欲しい。いいや、それはダメかな?」
小百合をひき離し、疾風は言った。
「疾風さん?」
「これを受け取ってくれ。何もしてやれないが……何かの役に立ててくれ」
そう言って通帳を渡した。
俺にできる事なんて、こんな事しかない。
俺が君のために出来る事なんて、こんな事でしかない。