第八章 とどかぬ想い (2)
コンコン。
ノックしてドアを開ける。
「あら、魁くんいらっしゃい!」
そう言った母さんはなんかいつもと違った。
「どうも……」
俺はまじまじと母さんを見た。
何が……何が違うんだ?
そうだ。
お腹がおっきいんだ。随分と。
でもなんで急に?
「なんか急にお腹がおっきくなってない?」
考えたところで解りそうもなかったから、俺は素直に母さんに聞いた。
「何言ってるの? もう臨月なんだから当たり前でしょ?」
「え? 臨月?」
臨月って。
なんでだ? なんで……
「ねえ、今日って何日?」
俺はとりあえず今一番知りたい事を聞いた。
「今日は……9月23日よ」
何だって!! 時間が……飛んでる。
何で……そうか。さっき俺が階段から落ちたから……。
階段から落ちると、時間が大きく動くんだ。俺がここへ来たときみたいに。
それにしたって……半年近く時間が経っている。
季節だってすっかり変わってて、俺はかなり場違いなカッコをしている。
そんなことより俺はその間、何をしてたんだ?
「ねえ小百合さん、アイツとはどうなったの?」
俺はその間の出来事が、いいや事の進展が気になって母さんに聞いた。
「またその話? だからそれはいいんだって言ってるでしょ? ほんとしつこいんだから、魁くんは。来るたびにそんな事ばかり言って」
来るたびに?
来るたびに俺は言ったのか?
俺は記憶の糸を辿った。
言っている。俺は、昨日も来て母さんに言った。
変なもんだ。
俺の中じゃ半年近く時間が飛んでるのに、思い出してみるとその間の記憶がちゃんとある。
2人とも好きあってる感じなのに……母さんは頑なにいいんだと言い張っている。
だったら俺はあいつに何を話した?
アイツとどんな話を……。
ああ。アイツはとにかく「小百合のしたいように」その一点張りだ。
こんなに時間が経っているのに状況は何も変わっちゃいない。
俺のもう一人のバーちゃんが結婚を勧めたけど……じーちゃんとばーちゃんもそうしろって言ってたのに……。
母さんだ。母さんがいいんだと言い張っているんだ。
やっぱり好きじゃないんだろうか?
アイツの事。
でも……俺の思い過ごしか?
アイツの前でだけ、そんな風に振舞ってるだけなんだろうか?
「ねえ、小百合さんはアイツの事どう思ってんの?」
俺の投げかけた言葉に、母さんの表情が固まった。
「どうって」
「嫌いなの?」
なんだかんだ言ったって、アイツは母さんに乱暴した男だ。
「そんな事ない」
「じゃあ好きなの?」
「それは……」
「どうなの? はっきり聞かせてよ」
「魁くん……」
「何で黙るの? はっきり言えばいいじゃんか! アイツなんか嫌いなんだろ? だからみんなが勧めるのに籍だって入れないんだろ?」
「そうじゃないわ。そうじゃ」
「だったら何なの? あいつが好きなの? どうしてそう煮え切らないんだ! いつもいつも言葉を濁して……一体どうしたいのさ! 子供はもう生まれちゃうんだぜ?」
「どうして魁くんが怒るのよ。これはあたしの問題よ」
「そりゃそうだけど。じゃあ、これだけは聞かせてよ。小百合さんはアイツの事、どう思ってるの?」
おれはこれ以上ないと言う位真剣な顔をして言った。
いや実際まじめな気持ちだった。
「そんな膨れっ面の魁くんには教えてあげないよ~!」
母さんがチャカした。
「どうしていつも肝心なトコになるとチャカすのさ! 俺はまじめに聞いてるんだよ。小百合さん、これはとても大事な問題だよ」
そんな母さんの攻撃にも流される事なく俺は言った。
もうほんとに時間がない。
「ああ、なんだか疲れて眠くなっちゃったわ。魁くん、悪いけど今日はこの辺で帰ってくれない?」
母さんがすっとぼけた感じでそう言って、あっちを向いて横になってしまった。
「小百合さん」
「ごめんね魁くん。でも今日はもう帰って」
そう言った母さんの声は、かすかに震えていた。
「解ったよ。ごめん。もう帰るから。」
* * *
「ねえ、小百合さんはアイツの事どう思ってんの?」
決して答えられない質問を、いつもあの子はする。
誰にも言えない。
私の気持ちなんて。
誰かに言ってしまってあの人の耳にそれが入ったら、あの人はきっと私と結婚してくれるだろう。自分の人生を犠牲にして。
だからそんな事、絶対に誰にも言えない。
あの人はとても優しく接してくれる。
一緒になって喜んでくれる。
でも。
やっぱり結婚の話しなると表情を曇らせる。
それは本意じゃないから。私と居る事が。
実際、あの人は絶対に自分から結婚という言葉は口にしない。
そこに、全てが集約されているように思う。
いくら優しくしてくれたって、それは違うんだ。
罪の意識から、してるだけなんだ。
だから結婚して欲しいなんて、私の口から言える訳ない。
あの人の人生を、縛り付けちゃいけない。
あの人はもう十分償ってくれた。
この子を産むと決めたのは私の意思。
だからこれ以上あの人に望んじゃいけない。
あの人を巻き込んじゃいけない。
だから。
私はあの人への思いのたけを日記に書きなぐる。
誰にも告げられないこの想いを。
コンコン。
ノックの音がして、「どうぞ」というと司が現れた。
小百合は笑顔を作る。
「もうすぐだね。ほんとにお腹が大きくなった」
「ええ」
「これからの事、どうするの?」
司がいきなり切り出した。
みんな同じ事を聞くんだ。
もう嫌だ。
この人は特に。
「アイツは君の事、愛してなんていないよ。でも根がまじめなヤツだからな。責任を感じて一緒にいるんだろう」
そんなことは解っている。
「だから私一人で育てるわ」
あえて言うこの人の言葉がいやで、すこしムッとしながら言う。
「ねえ、君はどう思ってるんだ? 俺は君の本心が知りたいんだ」
「どう思ってるって?」
「俺たちのことだよ」
「俺たち?」
「そうだ。俺と君の……今後の事だ」
「あなたと私って、そんなものこれからだってどうにもならないわよ」
何を言ってるんだろう?この人は。
「小百合さん、俺に遠慮してるのか? 俺と君はあのまま行けば間違いなく……そうだろ? お腹の子供なら、心配しなくても俺が父親としてきちんと育てるから。罪悪感を感じる必要なんてないよ。俺に遠慮なんてしなくていいんだ」
「何を言ってるの? 私はそんな気は一切ないわ。あなたと私がこれからどうにかなるなんてありえない。罪悪感とかそんなものもない。司さん、あなたは他にいい人を見つけて」
司の激しい思い込みにはちょっとまいる、と小百合は思う。
実際に司の思い込みは相当なもので、怖いくらいな時さえある。
「ほんとに君は一人でその子を育てていくの? 間違いなく疾風は結婚なんて言い出さないよ」
「そうよ」
司の心をえぐるような言葉にも凛とした態度で答える。
「小百合さん、君はどうかしてる!あ んな事をしたアイツの子供を産むってだけでも不自然なのに、何で一人で育てていくなんて辛い選択肢を自ら選ぶんだ! 大体そんな子供、本当に愛せるの? 自分に乱暴したような男の子供なんて、愛せると思ってるのかよ!」
「愛せるわよ」
だって、愛する人の子供だもの。
「小百合さん」
「それに、あなたが言うほど私とあの人の関係は、悪いものじゃなかったわ」
あの人は優しかった。
あれからだって、とても優しく私に接してくれた。
優しく触れてくれた。
自分の罪を、悔いるようにではあったけど……そこには確かに、私を思いやる彼の優しさがあった。
「何を言っている? 君は騙されてるんだ! いいかい? アイツは君を利用しただけなんだぞ? 君の事など愛しちゃいないんだぞ?」
「もう解ったから! 解ったから……とにかく、私の事はもうほっといて。この子ときちんと生きていくわ。私のこれからの事はあなたには関係ない。だから私の事は、もう諦めて」
「君は何も解っちゃいない。一人で子供を育てていくなんて、どんなに大変な事か」
じっと見据えるような目で司は言う。
でもそんな視線をもう怖いとは思わない。
「解ってなくてもいいわ。いいえ、解ってないのはあなたのほうよ。あたしはこの子と生きていく。それがどんなに大変なことでも、私はやっていくだけなの。あなたの助けを借りようなんてこれっぽっちも思ってないわ。私の想定する未来に、あなたは関わってない」
「小百合さん……」
「あなたは私がこうなったのを自分のせいだと思っているのかもしれない
けど、そうじゃないわ」
「だって疾風は俺に復讐したいが為に……」
「でもあなたが責任を感じる必要はないわ。すべては私が自分で決めて行動したことなのよ。あの日、あそこへ行ったことも。あの人と婚約したことも。そして、この子を産むと決めた事も。これはあたしの人生なの。あなたには関係ない」
「それにしたって疾風は……」
「疾風さんがそう思っていても、それでもいいの。だからもう」
「諦めてください」その一言は、あえて飲みこんだ。
「解ったよ」
小さくそう言って、フラフラと司は出て行った。
とたんに、こらえていた涙が溢れる。
そう、これは私が決めた事。
あの人が私を愛してない事なんて、解っていたじゃない。
それでも私は……あの人が好き。
あの人を愛している。愛している。
あの人が私の事なんて愛していなくても。
だから私はこの子と生きていく。
もう、強くなる。