第八章 とどかぬ想い (1)
「小百合、ごめん。困らせて」
疾風は言った。
「ううん。そんなんじゃないの。お母様がとても優しいから……。靴下をくれたのよ。赤ちゃんの」
「なんだ、気が早いな。生まれてくるのはまだまだ先なのに」
「喜んでくれてるのよ。私もとても嬉しいわ。この子が生まれてくる事、みんなに祝福して貰いたい」
「そうだな」
小百合はまた泣き出した。
「ごめんね、疾風さん」
何を誤っているんだろう?籍の事だろうか。
お袋の言った事がプレッシャーになってしまったんだろうか。
その理由が疾風には解らない。
「あんまりママが泣くと、赤ちゃんがビックリするぞ」
どうしようもなくて疾風は小百合のおなかをさすりながらそんな風に言った。
「そう……ね。あたしって、ほんとダメね……」
「そんな事無いさ。君は立派な人だ。ありがとう。子供を産みたいと言ってくれて。子供の為にがんばってくれて」
「疾風さん……。ほんとにそう思ってくれてる? 私達の赤ちゃんを……」
「もちろんだ。おーい、ママはとてもステキな人だぞ。早く会いたいだろ? だから元気に生まれて来るんだぞ。待ってるぞ」
その言葉に小百合はさらに泣いてしまった。
泣かせるつもりじゃないのに。
疾風は小百合をそっとひき離し、頬をつたう涙を拭った。
泣きながら微笑む小百合。
愛してる。
俺はお前を……愛してる。
いいだろうか。
こんな風に、お前に触れても。
疾風は小百合の唇に、そっと唇を重ねた。
小百合はやっぱり拒まなかった。
小百合が拒まないからどんどん図々しくなって……。
俺はお前から離れられなくなる。
このまま一緒にいたいと思ってしまう。
お前とこの子をこの先ずっととなりで見ることが出来たら、どんなに幸せだろう。
お前とこの子と3人で人生を送れたら、どんなに幸せだろう。
小百合の人生を犠牲にして、このまま一緒にいたいと思ってしまう。
俺が幸せにする事など出来はしないのに。
君がキスを拒まないから、そうしてしまおうかと、思ってしまう。
俺が幸せに出来たら、いいのに……。
どれくらいの間そうしていたのかは解らない。
夢中で、その甘美な感触に疾風は酔いしれていた。
ポコン
その時、疾風のお腹に何か当たった。
小百合のおなかの赤ん坊の胎動だった。
「あ……」
二人は唇を離し、顔を見合わせて笑った。
「解った?」
「うん。ママを取るなって、怒ったのかな?」
「そうかもね」
「きっとこの子、男の子だ」
「なんで?」
「俺と、張り合おうとしてる」
肝心な事なんて切り出さない。
核心に触れる事なんて言えるはず無い。
ズルイけど、先延ばしにしていたい。
君と、こんなひと時を過ごせるなら。
この時を、つなぎとめる事が出来るなら。
たとえ君を、苦しめてるんだとしても。
* * *
母さんの見舞いに来たけどアイツともう一人おばさんが入っていくトコを見かけた俺は、屋上で時間を潰す事にした。
ここからは母さんの病室が見える。
どうやらあれがアイツの母親みたいだ。
って事は、俺のもう一人のばあちゃん……。
なんだか不思議な感じがした。
会ったことのない、俺のばあちゃん。
なんか優しそうな人だ。俺はその人を一目見て、なんともいえない親しみを覚えた。
ばあちゃんと母さんは、和やかな感じで話をしている。
母さんが泣き出した。
でも笑ってる。
なんなんだ?
何を話してるんだろう。
なんか変な感じだ。
そしてばあちゃんだけいなくなった。
アイツと母さんが笑顔でなにやら話し、そして母さんがまた泣き出した。
母さんを抱きしめるアイツ。
"切ない”
2人を見ていてそんな気持ちになった。
アイツが母さんにあんな風に触れてるとこなんか見たくないのに。
2人とも、すんげえ切ない表情をしてる。
母さんのあいつを見る眼。
あれは……
2人がキスを交わした。
なんて情熱的な……
そして2人でおなかをさすって笑ってる。
これって……
どこから見たって幸せな家族って感じじゃねーか。
母さんのアイツをみる眼。あれは……恋する眼だ。
そしてアイツが母さんを見つめる眼も…アイツの態度も……
どう考えたって愛してるって感じだ。
愛してるって全身で言っている。
あの2人はもしかして。
いや、間違いなく愛し合っている。
でも……何かがおかしい。
司おじさんに聞いたのと、微妙に違う。
俺がここに来たことで何かが変わり始めているんだろうか?
あり得ないはずの光景がそこにはある。
どうなってるんだ?
ほんとどうなってるんだ?
母さんに、聞かなくちゃ。
オヤジを、どう思っているのかを。
母さんが望んでいる形を。母さんの気持ちを。
そしてアイツにも……
もう一度ちゃんと聞かなくちゃいけない。
これからの事、マジでどうするつもりなのかを。
今度は責める風じゃなく、冷静に。
俺達を……ほんとうに捨てるつもりなのかを。
俺は母さんの気持ちを確かめようと病室へ向かった。
階段を下りていく。
ズリッ。
げっ。
俺はまたもや足を滑らせ、階段から落ちた。
ゴロンゴロン。
ドタ。
いて~。
めちゃくちゃ痛え。
「大丈夫ですか?」
通りかかった看護婦が俺に駆け寄ってきて言う。
「だ、大丈夫です!」
すんげー恥ずかしい。
俺はそれだけ言うと、その場から逃げるように母さんの病室へと走った。