第七章 そうして俺が…… (5)
「小百合、気分はどうだ?」
笑顔で入ってきた疾風を見て小百合は心から嬉しいと思った。
来てくれた。今日もあの人が笑顔で来てくれた。
「うん、落ち着いてる」
「何か食べたいものは?」
「いい。あんまりね、太っちゃうといけないんだよ。先生がうるさくて」
「あんまり体重増やすと赤ちゃんも大きくなれないんだってな。妊娠中毒症も気をつけなきゃいけないし」
「よく知ってるね」
小百合は嬉しかった。疾風が自分の事を、生まれてくる子供の事をちゃんと気に掛けていてくれることが嬉しくてたまらなかった。
きっと家で本かなんかを読んでるのね?
少しは喜んでくれてると思ってもいい?
あなたが。この子が生まれてくる事を。
あなたの人生に邪魔な存在じゃないと思ってもいい?
私と……この子が……
「小百合、どうした?」
小百合は涙ぐんでいた。
「ごめんなさい。今日はなんだか心細くて……あなたに会いたかったの」
そう言った小百合を、疾風は思わず抱きしめてしまった。
こんな事、してはいけないのかもしれない。許されない事なのかもしれない。
でも、疾風はその手を止めることが出来なかった。
君がそう言ってくれるなら……君がそう言ってくれるから……。
いいだろうか。少しだけ……図々しくなっても。
この衝動を、押さえなくても……。
小百合のそばにいたい。
小百合と、生まれてくる子供のそばにいたい。
自分を許せるはずもない事は解っている。でも、そう思わずにいられない。
全てが愛しくてたまらない。
言ってみようか。
これからのこと。籍を、どうするか……。
「ごめんなさいね、あなたにこんな事……。お父さま怒ってるんでしょ? でもね、もう少し一緒にいてね」
もう少し……。
もう少しという事は、終わりが来るんだろう。
俺が必要なくなる時が、来るんだろう。
それでも。
それでも俺は……。
「ああ。いるよ。これは俺がしたくてしてる事だ。小百合は何も心配しなくていい」
「でも……逢ってないんでしょ?」
「まあな。でも会社にはちゃんと行ってるから。それになんか言ってきたら辞めるだけだし。君の実家の事は全て大丈夫なように手は打ってあるから心配しないでいい。あとは君と子供を食べさせていく位何とかなるさ。なんでもするし」
つい口を滑らせてしまった。
たった今、終わりがあると告げられたようなもんなのに。
小百合が驚いたような顔をしている。
「ごめん。変な事を言っちまって……」
「ううん。ありがとう。嬉しいわ。あたし……とても嬉しい」
小百合は笑った。
その言葉の意味をどうとっていいか解らない疾風だった。
「そうだ。今度お袋がここに来たいって言ってるんだが……」
「お母様が?」
「うん。オヤジはああ言ってるけどお袋はそうじゃないらしくてね。君と孫の事がどうにも気になるらしい。でも君が会いたくないんじゃないかって気にしてるみたいなんだ」
「そうなの? そんな事……。あたしだってお母様にこの子を可愛がって欲しいわ。この子が生まれてくる事を喜んで欲しい。お母様に会いたいわ。でも……お父さま、大丈夫なの?」
「大丈夫だろ? 大丈夫じゃなくたっていいんだよ。人はモノじゃない。人それぞれに意思というものがある。それを解らせるのに丁度いい機会さ。少し思い知るといいんだ」
「まあ、疾風さんったら。でもほんとはお父さまにも喜んでもらえたら、嬉しいのに」
「そうだな」
「ごめんなさい! あたしこそ、変な事……」
「変な事って?」
「え? うん…… あなただって、ほんとは……」
「俺は嬉しいよ。純粋に嬉しい。俺の子供が君のおなかの中にいるなんてそれだけで……ほんとに嬉しいんだ!」
「疾風さん……。ありがとう」
そう言って小百合が涙ぐみだした。
疾風は再び小百合を抱きしめた。
君の涙の意味なんて俺には解らないけど……俺は君の為にどうするのが一番いいのか、どうすればいいのか、解らないけど……
君と、君の中に息づくこの命を、俺は心から愛しいと思う。
それを洗いざらいブチまけてしまいたい。
君の幸せを、無視するなら。
自分のことだけを、考えるなら。
疾風は小百合を抱きしめながら、言葉にならない声を心の中で言っていた。
* * *
「小百合さん、お加減はどう?」
疾風と一緒に病室を訪ねた母である綾乃が少し遠慮がちにそう言った。
「ええ、今のところ落ち着いてます」
小百合はじゃっかん緊張しつつも、親しみを込めた笑顔を見せた。
「そう、それは良かったわ」
そんな小百合の様子を見て綾乃はホッとしたように満面の笑みを見せた。
「お会いした時は主人が失礼な事を言ってごめんなさいね。ほんとはもっと早くにここを訪ねたかったのだけど……」
「いえ、いいんです。そんな気になさらないで下さい」
小百合は本心からそう言った。
「小百合、俺、飲み物かなんか買ってくるけど何か飲みたいものは?」
二人の会話に疾風が割って入った。
「ううん、あたしは大丈夫」
「じゃ、母さんは?」
「そうね、私は温かいお茶を」
「解った」
そう言って疾風は病室を後にした。
「お母様、いろいろとすいません」
小百合は謝った。自分のせいで重森家の家族の輪にひびが入ってしまったことは紛れもない事実で、その事に関しては謝りようがないと思った。
「そんな事。謝るのは私達の方よ」
綾乃は軽く笑う。
「でも疾風さん、実家の方へはあれ以来帰ってないんでしょう?」
「そうね。でも、それでいいのよ。あの子は元々親の言いなりになるような子じゃないから。それに今回の事は、どう考えても主人が悪いから」
「こちらの方に顔を出して大丈夫なんですか?」
「ええ、いいの。私だって怒ってるのよ。あんなにいいお嬢さんを捕まえて何を言ってるんだってね。息子の見る目を信じられないのかって言ってやったわ」
綾乃はいたずらっ子のような顔をして笑った。その笑顔は少女のように無邪気で、その雰囲気に、なんとも親しみをかんじる。
「お母様……」
「私はあなた達を応援するわ。疾風はほんとにいい人を見つけてくれたって、そう思ってるのよ」
綾乃の温かい言葉に胸が詰まる。
私は疾風さんを子供をたてにつなぎとめているだけなのに……。
彼の本心は、こんな形を望んでいる訳じゃないのに……。
「たまにね、あの子のトコにも顔を出しているんだけどあの子ったら色んな本を読みあさってて。とても嬉しいのね。こっちがちょっと様子を聞くと、それはもう嬉しそうにあなたと赤ちゃんの事を話すのよ。小百合は今何ヶ月だからこうだとか、もう止まらなくなるの。嬉しくてしょうがないみたいね。あんなに幸せそうなあの子ははじめて見たわ。小百合さん、あの子をヨロシクね」
綾乃の気を許したような笑みも言葉も、叫びだしたい位うれしいと思っているのにそれを表現する事ができない。
「はい……」
そうとしか言えない。
私達は、本当は……この結果は、必ずしも疾風さんが望んだものではないのに……。
そう思うと小百合はたまらない気持ちになった。
でも綾乃の言葉を信じたい気もする。いや、信じてしまいたかった。
何も考えず、全てを真に受けて信じてしまえばどんなに楽だろうと思った。
「そうそう。ちょっと気が早いんだけどこれ。なんだか待ち遠しくて思わず買っちゃったわ」
そう言って綾乃が可愛らしい包みを取り出した。
「開けてみて」
「はい」
小百合は言われるままに包みを開けた。
そこには、小さくてかわいいベビー用の靴下が入っていた。
なんてちっちゃくて、可愛い……。
小百合は感激した。綾乃のその優しい心遣いがうれしくて、思わず泣き出してしまった。
この人はこの子が生まれてくる事を喜んでくれている。
「小百合さん、ごめんなさいね。赤ちゃんは育っているのにいつまでも宙ぶらりんな状態で。こうなったら勝手に籍だけでも入れたらどうかしら。あなただって不安よね」
「お母様……」
「主人の事なら気にする事無いわ。あなたのご両親にもきちんとあいさつをしなくてはね。あの人一人でグダグダ言ってるから先延ばしになっていたけど、私一人でもごあいさつをしたいわ。いいえ、こんな形になってしまってご両親には顔向けできないわね。きちんとお詫びしなくては。会わせて頂けるかしら?」
「ええ。もちろんです」
「良かった。ほんとはね、小百合さんのご両親と孫に付いてお話がしたいの。あちらも初孫でしょ? 楽しみにしていらっしゃるでしょうね。私もすごく楽しみなの。私、おばあちゃんになるんだって。なんだかすごく嬉しいのよね」
一言一言に優しさやいたわりが感じられる綾乃の言葉に、もうどうしようもないほど小百合は感激していた。
「ありがとうございます。喜んでいただけて、とても嬉しいです。ほんとに……」
こんなあさましい事を考えてる自分にこんな風に優しさで満ちた心で接してくれる綾乃に、どうしたらこの感謝の気持ちのすべてをあらわす事ができるだろうと小百合は思った。
もう言葉など出てこなかった。
そこに、疾風が帰ってきた。
「おい母さん! 小百合泣いてるじゃないか! 一体何を言ったんだよ!」
血相を変えて言っている。
「そうじゃないの。お母様があんまり優しいから嬉しくて」
泣き笑いで小百合は言った。
「まったく疾風ったら小百合さんの事となるとすぐにムキになるんだから。大事なお嫁さんを泣かすようなことしませんよ。お父さんじゃあるまいし」
綾乃があきれたように言う。
「なら、いいんだが」
「あなたって子はほんとに小百合さんの事が好きなのね。小百合小百合っていちいち大騒ぎ。今小百合さんとも話してたんだけど、あちらのご両親が許してくれたら、籍だけでも入れちゃいなさいな」
「母さん……」
「お父さんのことならいいのよ。あなた達だって子供じゃないんだし。いつまでもこんな状態でいる訳には行かないでしょ? お父さんなんか待たないできちんとした方がいいわ。赤ちゃんはどんどん育っているんだから」
綾乃の言葉に押し黙る疾風。
そんな彼の様子を見て胸が張り裂けそうになる小百合だった。
そうよね。そんな風に言われても、困るわよね……。
きっと言えないでいるんだ。
ほんとのこと。
「でもな……」
「お父さんの事なんてほんとに気にしなくていいから。一人で意地を張ってればいいのよ。孫が生まれたって触らせてなんてあげないんだから」
そんな事などつゆ知らない呑気な綾乃の言葉がなんとなく場をなごませる。
「おいおい、母さんが言うなよ」
「いいのよ。そしたら孫可愛さに、謝ってくるわよ。それがジジババの宿命なんだから。そのときは疾風も小百合さんも簡単に許しちゃダメよ」
「お母さん……」
誰にも心を告げられず、ある意味孤独の中にいた小百合はこの綾乃の心がうれしくて流れる涙を止めることができなかった。
「おいおい、これ以上小百合を泣かせないでくれ。妊娠中は情緒が不安定で気持ちが高ぶりやすいんだから」
「ごめんなさい。私、あんまり嬉しくて」
「はいはい。じゃ、お邪魔虫はそろそろ帰りますよ。小百合さん、ご両親と籍の事お話しましょうね。お体お大事に」
「はい。ありがとうございます」
どうしようもない気持ちで小百合は言った。こんなにもよくしてくれる綾乃を欺いているようで心苦しかった。
「送ってくよ」
「いいわよ。あんたは小百合さんの傍にいてあげなさい。それと、これからはちょくちょく来させてもらうわね」
「はい。いつでも来てください」
精一杯の笑顔を見せていった。
綾乃が帰ったあとも、小百合は涙を止めることができなかった。
そんな自分を疾風がそっと抱きしめていてくれる。
ここに思いっきりすがりたい。
この人と、ずっと一緒にいたい。
生まれてくる子とみんなで生きていきたい……。
疾風さん
私はあなたを、愛しています。