第七章 そうして俺が…… (3)
あの人が今日も来てくれる。とても優しい笑顔を浮かべて。
ごめんなさいね。
あなたは私の事など、愛してもいないのに。
あなたの人生を縛ってしまって……でもどうしても、私はこの子を産みたいの……。
小百合は日記に思いのたけをぶつけていた。
「小百合さん、目を覚ますんだ!! 君は利用されてるだけだ! 奴は君の事を愛してなどいない。奴は俺に復讐したいだけなんだ! 俺の気持ちを知って、大切なものを奪い俺を傷付けたいだけなんだ!」
いつか司がいっていた事を思い出す。
解ってるの。疾風さんが私を愛していない事なんて。
でも、それでも……
「お前がそう言うならそれでいいだろう。お前の気持ちなんて俺には関係ない。お前の事などなんとも思っちゃいない」
それでもね、例え全てがウソだったとしても……打ったのよ。
あなたの言葉は私の心を。
全て嘘だったとしても、あなたの言葉に、あなたのしてくれた事に私は救われた。
あなたが好きだった。
どうしようもない程惹かれていた。
司さんとの仲を壊してまで一緒になってはいけないと思った。
そんな事をして結ばれてもあなたはずっとその事を悔いて生きるだろうと思った。
あなたにとって失ってはいけないものだと思ったから……司さんとの友情は。
だから私はあの日……そんな事を無視してあなたを選んでいたら、あなたはほんとの気持ちを私に打明ける事無く、ずっと騙しとおしてくれたのかしら?
あんな形じゃなく……例え偽りでも幸せに結ばれたのかしら?
疾風さん、許してね。
こうしてあなたの人生を縛りつけようとしている私を。
ほんとはとても悔いているのでしょう?
あなたは優しい人だから、私を見捨てられずにいるのよね。
そんなあなたの罪悪感と優しさにつけこんで、あなたの人生を縛り付ける私を許してね。
「俺の子供なんだぞ? 小百合……。解っているのか? 確かに傷は残るかもしれない。でも、今決断すれば、君の人生はもう一度やり直せる。本来行くべきだったところへ戻れるんだぞ。俺は、君を自由にしてあげたいと思う。俺は、自分の勝手な思い込みで君を巻き込んでしまった。申し訳ないと思っている。家の事なら心配要らない。ひどい事をしてしまった君へのお詫びだ。君は、人生を取り戻せるんだぞ?」
あなたはああ言ってくれたけど、人生を取り戻したいのはあなたの方ね。
私といたって、あなたはずっと自分の罪を突きつけられることになる。
家族とももめてしまったし……
でも、あの時私をかばってくれた事、「だったら、いいじゃないか……。このままで」とあなたが呟いた事、「愛してる」と言ってくれたこと……そんなあなたの優しさが忘れられなくて……とても嬉しくて……そこにつけこんで、私はあなたを縛ろうとしている。
ずるい女。
辛いだろうに……。私を見ることすら、辛いだろうに……。
そして子供が出来てしまった。
全ての罪を見せ付けられて、思い知らされて……それでも笑顔で接してくれる、あなたを愛しているの。
あなたの子供だから、どんな事があっても産みたいの。
感情を文字にして吐き出した小百合は、いつの間にか涙を流していた。
* * *
病室にやって来た疾風に小百合は嬉しそうに顔をほころばせて言った。
「今日ね、赤ちゃんが動いたのよ」
「ほんとか?」
「うん」
「でも胎動を感じるにはまだ早いんじゃ……」
「よく知ってるのね。でもね、ほんとに解ったのよ」
「そうか……。触っても、いいか?」
「もちろん」
愛しい人が、同じように愛しい命に触れている。
そう考えるだけで涙が出そうだと小百合は思った。
「ここに、いるんだな。俺の子供が」
「ええ。一生懸命生きてるわ。育ってくれてる。心臓の音がね、すごいんだよ。ファンファンって、変な音なんだけどとても力強いの」
「俺も聞いてみたいな」
そう言って、疾風はおなかに耳を当てた。
「ごめんなさいね」
子供をたてに縛っている罪悪感からそう言った。
「謝るのは俺のほうだ」
沈黙が流れる。
と、その時、ポンっという胎動を感じた。
「あっ、今、解った?」
「ああ。解った!! なんか蹴っ飛ばされたかな? 俺」
「そうかも」
二人は微笑みあった。
疾風さん、あなたに甘えていいですか?
ズルイけど……あなたのその優しさに、甘えてもいいですか?
* * *
「やあ、調子はどう?」
病室に、司が現れた。
「うん。なんとか落ち着いてる」
少々無理に笑顔を作って小百合は応えた。
「そうみたいだね。顔色もいいみたいだ」
「でしょ?」
「ねえ小百合さん、今日は思い切って聞いちゃうけど、これからの事、どうするつもりなの?」
やはりこういう事をいうのだ。だから嫌なんだと小百合は思っていた。
「うん……」
「疾風は君の事を愛してなんかいないよ。全ては俺に復讐したいが為に……」
「解ってる。それは解ってる」
聞きたくない。そんな事。彼が自分を愛していない事など解っている。
「アイツはなんて言ってるの?」
「うん。あたしの判断に任せるって」
「そうか……。で? 君の答えは?」
「……」
答えられる筈などない。自分だって、日々気持ちが揺れ動いているのだ。
疾風の優しさに甘えてこのまま一緒にいたい……そう思ったり、そんな優しい疾風だから、これ以上縛ってはいけないんだと思ってみたり。答えを出すなどと言う事は、ただでさえ難しいのに、妊娠して妊婦特有の情緒不安定になっていた小百合には答えを出す事など無理な事だった。
「小百合さん、これからの事、俺も力になるよ。この一連の事に関しては俺だって責任を感じてるんだ。俺が、君を好きになったりしなければこんな事にはならなかったんだし……だから、君さえ良ければおなかの子供は俺が……疾風となんて上手くいくはずもないし。疾風の親が反対してるんだろ?」
司の言い分が、理不尽なものに思える。
これはあくまで疾風と自分の問題で、司など関係ないのだ。
それを自分にこじつけてものをいう司の言動が、小百合は正直嫌だった。
「一人でもね、育てていこうと思う。この子は私の子供だから……」
小百合は噛み締めるようにそう言った。
そう。疾風さんを当てにしてはいけない。彼はきっと……
彼をずっと縛っていいわけはない。
だけど……今は一緒にいたい。
この命を……一緒に育んで欲しい。嘘でもいいから、喜んで欲しい。
これからだんだん、強くなるから。生まれて来る赤ちゃんに恥ずかしくないように強くなるから。
だから今はこの不安な心を……支えて欲しい。
今はまだ、一人じゃこらえきれないから。
この子が無事に生まれてこれるかどうか……それを考えただけで不安で押しつぶされそうになってしまうから。
疾風さん……。傍にいて欲しいのはあなた。
あなたに会いたいよ……。いつだって、会いたいよ……。
目をそらしたい問題を突きつけられて、小百合は余計に疾風が恋しくなった。
「小百合さん、大丈夫?」
気が付けば深く考え込んでいた。頬には涙がつたっている。
「ごめんなさい。大丈夫。妊娠すると情緒が不安定になるから、すぐに涙とかでちゃうの。ドラマとか見てもすぐに泣いちゃうし」
小百合は無理に笑顔を作ってそう言った。
「小百合さん、ほんとは辛いんじゃないか? 俺でできる事があったら……」
「ありがとう、司さん。でもね、これは私と疾風さんの問題なの。あなたが気に病むことじゃないわ」
「そうかもしれないけど……」
「あなたは関係ない」
小百合はきっぱりと言った。
もう止めて欲しい。あなたは私の不安を煽るだけだわ。あなたの言葉は私を……とても傷付ける。聞きたくない。解っている事をあえて言わないで欲しい。あなたに言われなくたって、解ってるんだから。
解っていてもなお、疾風さんに傍にいて欲しいの。
例え嘘だとしても、無理してるんだとしても彼が傍にいて笑ってくれると、私は安心する。
「ごめんなさい。ちょっと疲れちゃったから……。休みたいんだけど」
小百合は強引に司を追い返した。