第七章 そうして俺が…… (1)
疾風が車で駐車場に入ると、人影が現れた。
なんだ? 急に……。
そう思って車を降りた疾風は言葉を失った。
よく見知ったその姿。いつだって隣にはその姿があった。
「朋美……」
目の前には、朋美が立っていた。
「久しぶりね、疾風。会いたかったわ」
3年前より少し大人っぽくなった朋美が笑顔で言った。
「どうしてここに?」
「おば様に聞いてね。来ちゃった。あたししばらくここを離れてたから……。もう3ヶ月にもなるんですってね。全然知らなかった。知ってたら、もっと早く会いに来たのに」
「ああ……」
「って言ったって、疾風のほうが私の顔なんて見たくなかったか」
朋美が、自分がかつて大好きだった控えめなはにかんだ笑顔を見せた。
でも……
「いいや、そんな事は……」
「司も同じマンション住んでるんだって? また仲間してんだ。私だけ仲間はずれか……なーんて。疾風、私ね、ずっと会いたかったのよ。あなたを裏切ったこと、ずっと後悔してた。あなたじゃなきゃダメだった。だからあなたがいなくなった後、司ともすぐに別れたの。それからずっとあなたが忘れられなくて……」
なんだと?
今……
「朋美、今何て言った?」
「だから疾風を裏切ったこと、後悔してる」
「そこじゃなく! お前が……お前から別れを切り出したのか? 司に」
「そうよ。結果的には司には悪い事しちゃった……。私は一番大事だった2人とも傷付けちゃったんだね」
なんて事だ……。
俺は……
なんて事をしちまったんだ……。
すべては勘違いたっだのだ。
自分が一方的に思い込んだだけだったのだ。
司は悪くない。
朋美を捨てた訳じゃなかったのだ。
朋美から……そんな事、考えても見なかった。
自分が思い描いていたのと展開が違ったがために、身勝手に逆恨みしただけだったのだ。
そしてその結果、邪心で小百合と司、2人を引き裂いてしまった。
今更ながら、自分のやってしまった事を深く後悔していた。
いいや、それが解った今だから、罪悪感と後悔の念が恐ろしいほどに巨大な波となって襲ってくるのだった。
『お前は何も解っちゃいない』
司の言葉を思い出す。
俺は……
俺は……
「疾風! あなたが忘れられないの !あなたが好きよ。ずっと……だからもう一度……他の誰かじゃダメなの!」
朋美が抱き付いてきた。
ずっと忘れられなかった朋美。
愛していた……ずっと。
あんな恐ろしい事をしでかしてしまう位、司への恨みの念があんなにも渦巻いてしまうほど愛していた。
だけど、もはや何の感情も湧いてこない。
想いを打明けられたところで心が突き動かされる事はない。
全てが色あせて見える。
「朋美……お前、もうすぐ結婚するんだろ? こんなことしちゃ……」
「疾風がいてくれるなら、私止める!! 私には疾風しかいないんだもん!!」
「朋美……俺たちはもう3年も前に終わってるだろ?」
あんなにも愛していた朋美を胸に抱いていたって、今は小百合の事を考えている。
「朋美……お前にはもう手は差し伸べられない」
「解ってる。好きな人がいるんでしょ? おば様から聞いたわ。でもおじ様反対してるって! そんな人を選んだって疾風幸せになんかなれないよ!」
「それでも! それでも、俺は彼女を愛している。朋美、俺なんか忘れて幸せになるんだ」
「疾風……恨んでるのね? 私を。許せないのね? やっぱり……」
「そうだな。お前は俺を裏切った。終わらせたのはお前の方だ」
「そうよね……」
「でも、ゴメンな。俺はあの頃、もう少しお前を大事にしてやるべきだった」
「疾風……。解ったわ。急におしかけてきたりしてゴメンなさい。私、幸せになるわ。あなたなんかより、ずっとステキな人なんだから」
涙に声を詰まらせながら朋美が言う。
「ああ」
「……さよなら、疾風」
「さよなら」
「幸せになってね」
「お前もな」
朋美の後姿を見送りながら、疾風はどうしようもなく絶望的な気持ちでいた。
なんてことを……なんてことをしちまったんだ。
俺は……どうすればいい?
小百合……俺はお前を、本当に奪っちまったんだ。
お前と司を……引き裂いちまったんだ。
俺はお前に何をしてやれる?
どうしたらお前を、幸せにしてやれるんだ?
解っている。
自分が、身を引けばいいんだ。
自分さえいなくなれば……小百合は司の元へと、本来行くべきだった場所へと戻れるのだ。
覚悟を決めなければ。
小百合を手放す、勇気を持たなければ。
愛する人の、幸せの為に。
疾風は覚悟を決めるように階段を一段一段上がっていった。
早いほうがいい。
一刻も早く、小百合を司の元へ行かせてやらなければ。
俺では……無理なんだ。
俺じゃないんだ。小百合を幸せに出来るのは。
魁という少年が言っていた事を思い出す。
『小百合さんはあんたといたって絶対に幸せにはなれないからな』
その通りだ。
自分といたって小百合は絶対に幸せにはなれない。
小百合が愛しているのは、司だ。
そう言えばついこの間も司と話しながら泣いていたのを思い出す。
司の元へと行きたいのだ。
もう、自由にしてやろう。
俺が縛っていいわけがない。
小百合……。
今日が最後か。
あの笑顔で迎えられるのも。
覚悟を決めながら玄関を開けたのに、小百合の笑顔はなかった。
「小百合、今帰った」
「疾風さん……」
寝室から、弱々しい声がした。
「小百合、どうした?」
寝室を開けると、小百合がベッドに横たわっていた。
「ごめんなさい。具合が……悪くて」
「大丈夫なのか?」
「ええ。横になっていれば大丈夫。晩ご飯なんだけど……あまり支度が出来なくて……」
「そんな事はどうでもいい。ゆっくり休んでいろ。医者を呼ぼうか?」
「ううん、ほんとに休んでいれば大丈夫だから」
「そうか。なにか食べたいものとかあるか?」
「ううん。今は……何も」
「解った。とりあえず、俺の事は気にしないでゆっくり休むといい」
「うん。ありがとう」
その日、疾風は一晩中小百合の寝顔を見つめていた。
狂おしいほどに愛しいその姿を。
決心が、揺るぎそうだった。
俺はお前に……別れを告げる事など出来るのだろうか。