第六章 どうしたら…… (4)
「朝一番で電話があってね、父と母が、今夜来たいって言うんだけど……」
小百合が言った。
「今夜か……また急だな。解った。なんとか仕事を早く切り上げる事にする」
「大丈夫? いいの……? こんな急な話なのに」
「当たり前だろ。ここは君の家でもあるんだ。親が娘に会いに来て何が悪いんだ? それに……親にして見れば娘が幸せにやっているか確かめたいんだろう」
疾風は優しい眼差しで小百合に言った。
「ゴメンなさい」
「いいや、当然の事だ。うんと美味しいものを作ってやるといい。俺も、美味い酒でも買って来よう」
「うん。ありがとう」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
小百合が笑顔で言う。
この笑顔が、愛しいと思う。
この笑顔をなくしたくないと思う。
この笑顔を、誰にも渡したりしない。
この笑顔は……俺だけのものだ。
疾風はいつしかそんな風に思うようになっていった。
*
「いやー疾風君、先にお邪魔しているよ。申し訳ないね」
疾風が家に付くと、すでに小百合の両親が来ていた。
「いえ。遅くなって申し訳ありません」
「いいえ、急に来たいと言い出したのは私たちのほうですから。忙しいんでしょうに、ごめんなさいね」
小百合の母親が言った。
「俺に遠慮なんかしないでいつでも遊びに来てくださいよ。小百合も喜びますから」
疾風は本心からそう言った。
こんなのも悪くないと思い始めていた。
「ありがとう。小百合もいい人を見つけてくれてほんとに良かった。あなたになら安心してこの子を任せられますよ。疾風さん、この子の事、よろしくお願いします」
そう言って小百合の両親は頭を下げた。
「ちょっと、お父さん、お母さんやめてよそんな……疾風さんが困っちゃうじゃない。私たちはまだそこまで……」
「やだなあ。ほんと俺になんか頭を下げないでくださいよ」
「しかしあなたにはほんとに良くして貰って……その上とても気さくに接してくださって、なんともお礼の申し上げようが……」
「ほんとにやめてくださいよ。もうすぐ義理の親になっていただくであろう方にそんな風に言われたら、言い出しにくくなってしまいますよ」
「え?」
小百合が疾風の言葉に思わず声を上げた。
「疾風さん今……」
「今なんておっしゃったんですか?」
小百合に続いて小百合の母親が言う。
「お父さん、お母さん。本当はこちらから伺ってお話しなければならないのにこんな形になってしまって申し訳ありません。小百合さんは俺にはなくてはならない大切な人です。小百合さんを、俺にください」
疾風は頭を下げた。本心だった。小百合となら、こうしてこのまま一緒に生きたいと思える。
それは疾風が小百合と一緒に暮らしてみて芽生え始めた感情だった。
いつも心安らぐ優しい微笑みで温かく自分を受け入れてくれる。
それは見れば見るほど、近くにいればいるほど魅力的なものだった。
そしてそれはいつしか何よりも大切で尊いものになっていった。
嘘から始まった生活の中で生まれた、確固たる気持ちだった。
しーんと部屋が静まり返る。
いやな間だと疾風は思う。
「小百合……お前はどうなんだ?」
「え? あたし? ……ああ、ええ、私もそうしたいと思ってるわ」
それは戸惑ったような、いや、ためらったようにすら感じる言葉だったが小百合の自分を否定しない言葉に、なんとなくホッとする。
「そうか。疾風さん、あなたなら申し分ありません。娘を幸せにしてやってください。お願いします」
「ありがとうございます」
「小百合をお願いしますよ、疾風さん。でも、疾風さんのご両親はこの事を……」
「はい。今週末にでも小百合を連れて報告してきたいと思います」
「そうですか。解りました」
* *
疾風は小百合を連れて実家へと来ていた。
はっきり言って小百合の本当の気持ちがどうなのか、疾風には解らなかったが小百合がこの話を断わらない以上、話を進めようと疾風は思っていた。
いや、進めたかった。
例え小百合が親の借金の事で自分といるのだとしても、それはそれでいいと思った。出来る事は全てしてやりたい。
理由はどうであれ彼女が自分と一緒に居てくれるというなら、それだけで良かった。
しかし結婚したいと切り出した疾風に返って来た父親の言葉は、あまりにも情けないものだった。
「小百合さんと言ったかな。あなたの素性は調べさせてもらったよ。ご実家は大変だったようだね。こういう事は回りくどく言ってもしょうがないからはっきり言うが、あなたは疾風にはふさわしく無いようだ。疾風はわが社を背負って立つ人間だ。そういう人間の相手にはそれ相応の育ちと言うか……」
「何を言っている? オヤジ」
「お前ももう少し考えてみろ。こういう普通のお嬢さんを選んだところでお前がこれから付き合っていく連中に溶け込んでいけると思うか? 結局惨めな思いをするのはこのお嬢さんなんだぞ」
「やめろ。小百合を惨めにさせてるのはオヤジだろ? 小百合を侮辱する事は許さない」
疾風は腹わたが煮えくり返りながらそう言った。
小百合をこんな風に侮辱されるのは絶対に我慢ならない。
「疾風さん……そんな風に言ったら……」
「小百合は黙ってろ」
「小百合さん、あなたも本当に疾風を思うなら身の程をわきまえて身を引いてはもらえませんか」
「いい加減にしてくれ!! オヤジがなんと言おうと俺は小百合と結婚する。それが嫌だって言うなら勘当でも何でもすればいい。小百合、帰るぞ」
疾風は言った。
小百合のためならこんな家など何の躊躇もなく捨てられると思った。
それほどまでに、自分にとって小百合は大切な存在になっている。
もう司への復讐など関係なかった。
ただ純粋に、小百合と一緒になりたかった。
あまりにも身勝手な気持ちだと解ってはいたが、それが疾風に今ある真実だった。
「疾風さん?」
「もうこれ以上ここにいてもしょうがない。ここまで話の解らない人間だとは思わなかった」
「疾風! 待ちなさい!」
「オヤジ、この結婚が気に入らないならそれでいい。加藤を通して伝えてくれ。俺は辞表を書こう」
疾風は小百合の手を引き、その場を後にした。
「疾風さん、いいの? こんな風になっちゃって……」
玄関を出ると哀しそうな、不安そうな表情をして小百合が言った。
「いいんだ。みっともないものを見せちまったな。バカな親の典型だ。オヤジが言った事は気にするな」
「でも……」
「と言ってもあれか? 俺がもし会社を辞めちまったら……お前が俺といる意味もなくなるな」
自分の身勝手さを思い出し、疾風は言った。
「そんな事!! そんな事ない。疾風さんがかばってくれて、嬉しかった。だけど、私のせいで疾風さんの家族がバラバラになるなんて……ただでさえ疾風さんには父の工場の事で迷惑をかけているのにその上家族を仲たがいさせてしまっては……」
「それでもいいと言ったら……お前はそばにいてくれるか? 金のない俺でも」
それはもはやすがるような想いでもあった。
「ええ」
何のために?聞けない言葉が宙を彷徨う。
「だったら、いいじゃないか……。このままで」
そういって小百合を抱きしめた。
不安にかられるから、手を伸ばして小百合を抱きしめる。
この腕でその温もりを確かめる。
どこにも行かないように。祈る様な気持ちで。
「疾風さん……」
「小百合……愛してる」
心に溢れるその想いを、狂おしいほどに身を焦がすようなその想いを搾り出すように言う。
小百合の本当の気持ちなど見ないフリをする。
ウソでもいい。その場限りの言葉でもいい。
俺といると言ってくれ。
俺はお前を……愛している。