第六章 どうしたら…… (3)
あの男が目の前を通る。
俺は、なんともいえない憎々しい気持ちで男を見据える。
「クソったれ。俺はあんたを絶対許さないからな」
目をそらさずに言う。
「どういう意味だ?」
ヤツが足を止めた。
「小百合さんを絶対にあんたの汚ねえ手から助け出してやる。どんな事をしてもな」
「それは楽しみだな。お前ごときのガキに何が出来る?いちいち突っかかってきあがって。お前は小百合の何なんだ?」
瞳に同じ鋭さをたたえてヤツが言う。
「あんたにはカンケーねえよ。ただ、小百合さんはあんたなんかと一緒にいるべきじゃないと思うだけだ」
「ガキの嫉妬か?」
「どうとでも。だけどこれだけは言っておく。俺は絶対にあんたと小百合さんを引き裂いてやる。小百合さんはあんたといたって絶対に幸せにはなれないからな」
「ほう。言うな、ガキ。だが、それこそお前には関係ない。お前に出る幕じゃねえんだよ」
「俺はあんたを絶対に許さない。自分のした事を良く考えろよ。俺なら恥ずかしくて生きていけないけどな。ほんと大したタマだよな、あんた。あんな事をしたってのに、平然と道を歩き、何食わぬ顔でその女と生活してんだから」
「言いたいのならなんとでも言え。だが、俺を選んだのは小百合だ。あくまで小百合自身が決めた事だ」
「金にモノを言わせたクセによ! ったく、つくづくサイテーな男だな。自分に自信がない人間が使う常套手段だな。あんたも赤い血が少しでも通ってんなら、自分のふがいなさを噛み締めて、自分の行動を悔い改めて小百合さんから手を引けよ。今ならまだ間に合うかもしんねーだろ?」
「何を訳の解らない事を。何が間に合うというんだ?」
「小百合さんの人生をこれ以上ダメにするな。あんたがしたかった事に彼女は関係ないだろ?」
「フッ、司から聞いたのか?」
「もう彼女を自由にしてやれよ。小百合さんの人生を壊す権利はあんたにはないだろ!!」
「黙れ!! お前ごときにそこまで言われる筋合いはない」
男は感情をあらわにして俺を睨みつけると、行ってしまった。
ムナクソ悪い。あんなヤツ。
見るだけでも、話すだけでも。
あんなヤツ、消えてなくなっちまえばいいんだ。
アイツさえいなければ、母さんは……。
母さん、俺は諦めない。
絶対に母さんを、説得してみせる。
母さんがどうしてあんなにも頑なにアイツをかばうのかわからないけど……。
もし母さんがアイツにダマされているなら、俺が目を覚まさせてやる。
もし母さんがアイツに脅されてるなら、俺が救ってやる。
母さんが掴むべきだった幸せを……取り戻してあげたい。
母さん……。
あいつが行っちまったあと、俺はその場でマンションの壁に力なく寄りかかった。
母さんのあの姿。
思い出すたびに心が痛む。
俺の前では明るく振舞ってはいるけど、相当な傷になったに違いない。
俺には何もできないのか。
どうする事もできないのか。
このままでは母さんは俺を身ごもってしまう。
なんとしてもそれだけは阻止したい。
いや、アイツといると言うこの事態を何とかしなければならない。
俺は存在しちゃいけない……。
母さんのあの姿を見てしまったからこそ、余計にそう思う。
あんな事をした奴の子供なんか……俺なんか、身ごもっちゃいけない。
俺なんか、存在しちゃいけないんだ。
ふと、桃夏の可愛らしい顔が浮かぶ。
桃夏は、どうしてるだろう。
きっと心配してるに違いない。
というか俺は、どうなっちまってるんだろう。
桃夏……。
いつも傍にあったあの温かな笑顔にたまらなく会いたい。
あの柔らかい唇の感触に、もう一度触れたい。
笑顔で「魁!」と呼んでくれる桃夏に会いたい……。
でもダメだ。
母さんのあの姿……。
あの姿を思い出すと、やっぱり俺は存在しちゃいけないんだって思う。
桃夏は悲しむだろうな。俺が、いなくなっちまったら。
でも仕方ないんだ。
桃夏のあの笑顔より、母さんのあの痛々しい姿の方が俺には重要い。
なんとしても、俺は母さんを……。
* * *
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
家路に着くと、小百合がこうして出迎える。
温かい部屋、鼻をかすめる、出来上がった料理の匂い。
片時も笑顔を絶やさずに、こうしていつも小百合が自分を出迎えてくれる。
そんな穏やかに時間が流れる日々が、もうすぐ1ヶ月になるか。
疾風は軽く笑顔を返しながらそんな事を思った。
司に復讐したかった。その目的は果たされた。
良かったはずだ。良かったんだ、これで……。
なのに、心は空虚な感じでいっぱいだった。
憎悪で満たされていた心は、それを果たしたところで少しも晴れることはなく、むしろ空しさと、変に息苦しい感じしか残っていない。
何でだ? 何で……。
解っている。この女のせいだ。
ただ利用しただけの女。なのに自分をかばった女。
そして日々、笑顔を絶やす事無く傍にいるこの女。
何も言わずただ笑顔を向けてくるこの女の存在が、疾風には重いのだ。
成り行きでこうなったとはいえ、こんな生活の何に意味があるというのか。
バカバカしい。
全ては茶番だ。
この女が笑顔で接してくる事も、自分の為に料理を作り、部屋を掃除し、共に眠る事も。
金の為に、いや、親の為に一緒にいる事を選んだ女。
利害は一致した。そうしてはじまったこの生活。
だけどいつまで続けると言うのか。こんな……生活を。
何の意味も持たないこの生活の中で、なぜ小百合は笑顔を向けるのだろう。
自分など、憎悪の対象でしかないというのに。
あんなにひどい事をしたのに……
苦しい。息苦しい。
小百合の笑顔を見るたびに、この女が笑顔で自分を見つめるたびに疾風の中にかすかに残る良心が痛むのだった。
「おい」
疾風が言葉を投げると、小百合がいつものように微笑みで応えた。
「何でだ?」
この女の本心が知りたい。
いや、言葉で聞きたかった。
ハッキリと言って欲しかった。
「何でって、何が?」
「何で俺といる事を選んだ? なぜ笑顔でいられる? 俺はあんな事をしたんだぞ。そんな俺と一緒にいて辛くないのか? オヤジさんのことなら、何もこうならなくても心配要らない。無条件で……」
「傍にいてくれたから」
「え?」
「何かあったとき、いつもあなたは傍にいてくれた」
小百合の言葉に疾風は驚いていた。
皮肉なもんだ。
この言葉をこの女からもらうとは。
それは疾風が3年前に打ちのめされた言葉だった。
だけどこの女に、こんな言葉を言わせるほど自分はこの女の傍にいたのだろうか。
居たのだ。
片時も離れる訳には行かないと思いながら。
離れたくないとすら、思いながら……。
小百合の言葉がせつなく胸を打つ。
胸がギュッと苦しくなるのに、でもたまらなく心地いい。
疾風は小百合を抱きしめた。
手を伸ばせば触れられる……そんな距離にいつも小百合はいる。
そして小百合は決して自分を拒まない。
あんなにひどい事をしたのに……あんなにひどい事を言ったのに……
求めれば求められるままに、一度だって拒んだりはしない。
そんな小百合の温もりに……俺は溺れていく。
全てを思うがままに……むさぼってしまう。
この息苦しさの全てを、情熱のままに小百合へとぶつけてしまう……。
小百合……、
俺の……小百合。