第五章 母さん…… (1)
チッ……
司と小百合のキスシーンを見て、疾風は舌打ちした。
予想より早く司が行動に出ている。
こうなったら、なんとしても今日決めなければならない。
小百合の心を完全に口説き落としてしまわなければ何にもならない。
司に小百合を渡す訳には行かないのだ。
司……俺はお前に同じ事をしてやる。
大切だと思っているものを信じていた奴に持っていかれるのがどんなに辛い事か。信じていた奴に裏切られる事がどんなに心を引き裂く事か。
お前に解らせてやる……。
そうして自分のやったことの罪の重さを思い知るがいい。
俺はお前を絶対許さない。
俺の大切な朋美を奪い捨て去った事をイヤという程後悔させてやる……。
* * *
「いらっしゃい」
小百合は笑顔でそう言った。
「こんばんは。お言葉に甘えてやってきました」
「お口に合うか心配なんだけど、遠慮なさらないで食べていってくださいね」
「ああ。思いっきり期待して、食べさせてもらう事にするよ」
「プレッシャーをかけないで」
小百合は笑った。
「おお! すごいじゃないか!」
疾風はオーバーに言った。
そこにはリクエストしたとおり、和食がどっさりと並んでいる。
煮物やら和え物やら魚やら肉料理やら……とにかくすごい種類だ。
「お肉とお魚どちらが好きかも解らなかったし、和食と言ってもいろんなのがあるから……」
「これ全部君の手作り?」
「ええ」
「すごいな。全部食べれるか自信がないよ」
「好きなものを好きなだけ食べていってくださいな。全部とは言いませんから」
「じゃ、頂くとするか」
疾風は和食でも一番スタンダードな肉じゃがを口にした。
「どうです?」
心配そうに覗き込む小百合。
「…………」
「お口に合いませんでした?」
「いや、美味すぎる」
「ほんとですか?」
「ああ」
「他のも食べてくださいね」
「うん」
そう言って煮魚や和え物にも箸をつける。
「美味い! 感想が平凡で申し訳ないけど……ほんとに美味い!! ああ、どう言ったらいいかな……? とりあえず、今度から食いしん坊ばんざいを見ることにするよ」
「疾風さんってば! でも良かった。そう言ってもらえるととても嬉しいわ。少しは御礼になったかしら?」
「お礼を言わなければならないのはこっちの方さ。こんなに美味いものを食べさせてもらって……君の夫になる人は幸せだなあ。こんなに美味い料理を毎日食べれるんだから」
疾風はできる限り表現力豊かに言った。でも、小百合の作った料理は予想以上に美味しかった。お世辞じゃなくともそれくらいの事は言ってやっても十分な出来だった。
「褒めすぎですよ。疾風さんみたいに立派な人は、普段からもっといいものを口にされてるでしょうに。あ、だから物珍しいのかしら。フツーの料理が」
「ひどいな……」
疾風は傷付いたような態度を見せた。
「ごっごめんなさい。あたし、イヤミで言ったつもりはないんです。そんなつもりじゃ……どうしよう」
「俺は本心で言ってるんだ。本気でそう思ったから……」
そう言って、疾風は困った顔をした小百合の頬にそっと触れた。
「それが、俺だったらいいのに……」
そう言ってそっと小百合に口づけした。
「疾風さん困ります……」
自分を押しのけてくる小百合。そんな小百合を疾風は思いっきり抱きしめた。
「ぶしつけなのは解ってる。でも……自分でもどうしようもない位君の事が好きなんだ。君の事ばかり考えている。傍にいて欲しい。いや、傍にいさせて欲しい」
「疾風さん……」
その時、ふいにピーンポーンとインターホンが鳴った。
「誰かしら……?」
小百合は疾風の腕から逃れるように受話器を手にした。
「はい」
「小百合、父さんだ」
その声に小百合は焦った。どうしよう。あの夜の事が父親の耳に入り、いや、アイツが何らかのアクションをとってきて、その事に付いて怒られるのだろうか。責められるのだろうか……。しかも、ここには疾風がいる。
この状況はまずい。2人が見たら確実に誤解するだろう。
しかし食事は始まったばかりだし、疾風に帰れと言う訳にも行かない。
「何をやっている? 早く開けなさい」
「う、うん……」
小百合は仕方なしにロックを外した。
「あの……」
疾風に切り出す小百合。
「誰? どうしたの?」
「あの……父が来たみたいで……」
それ以上は言い様がない。先に来ていたのは疾風。
「そう。俺って、居ちゃマズイかな?」
「いえ、そんな事は……急に来たのは父の方ですし……。すいません。あたし、すぐに追い返しますから!!」
小百合は言って、玄関の方へと歩き出した。
「待って! せっかくお父さんが尋ねてきたんだから、追い返すなんてしちゃいけない。君さえ構わなければ……」
疾風がそう言ったところで、玄関のドアがガチャっと開いた。
「あっ……」
もはや成す術が無いと小百合は思った。
きっと文句をいいに来たであろう父親。その父親が他の男と部屋に一緒に居るところを見たら殴りかかるかもしれない。とにかくちゃんと事情を説明しよう……
「小百合、急に来てすまんな……。困った事に……」
父親が疾風を見つけ、絶句する。
「父さん、疾風さんはね、違うのよ! この間助けて頂いて……今日はその御礼をしているだけなの!!」
殴りかかると踏んでいた小百合が必死になって説明したが、父親の態度は
小百合の予想とはまったく逆のものだった。
「ああ、今晩は。前にもお会いしましたな。やはり娘とはそのう……そういう事でしたか。お邪魔でしたかな?」
「ヤダ! 父さん!! 違うって言ってるでしょ?」
予想だにしなかった父親の言葉に動揺しながら小百合は言った。
「いえ、構いませんよ。というかすみません。大事な娘さんの部屋に勝手に上がりこんで……」
「いや、邪魔をしてるのは私のほうですな。ふつつかな娘ですがよろしくお願いします」
「だから父さん、彼はそう言うんじゃ……」
「いえ、こちらこそ」
「という事はやはり娘とはそういう……と思っていいんですな?」
「父さん!! いい加減にして……」
「はい。僕はそのつもりです。娘さんの事は真剣に考えています。彼女から答えはまだもらってないのですが……自分のような人間が、娘さんに交際を申し込んでもよろしいでしょうか?」
え? 疾風の言葉に小百合は驚いた。どうしていいか解らなくなっていた。
「ええ、もちろんですとも。あなた程の立派な方なら文句のつけようもありません。実は見合いのような話がありましてね。この子が渋るのも、要約解りました。あなたのような方がいらしたんですね。良かった。小百合、何をしている? 重森さんにビールでもお出しして」
父親の言葉にさらに驚いてしまった。この間は散々な態度を取ったくせに……。
彼の身分が解ると、こうもあっさりと態度が変わるものなのだろうか……?
自分の困惑などお構いナシに、2人は勝手に盛り上がっている。
「ああいった工場経営は大変でしょうに。それを一代で築き上げるとは。なんとも立派なもんです」
「いえいえ。そんな御大層なもんじゃありませんよ。内情は……とても人様に誇れるものではありません。重森さん、あなたが小百合とそう言ったことならば……恥をしのんでお願いします。どうか助けてはくれませんか? ここ数ヶ月を乗り切れば何とかなるんです! お願いします!」
「お父さん! やめてよ! そんなこと言うの!! 恥ずかしくないの!!」
父親の言葉に小百合は声を荒げた。確かに今の現状を思えば藁にもすがりたい気落ちも解るが、2度しか会ってない人物にこんな事を言い出すのは余りにも情けない。
「小百合さん、自分の親にそんな事を言ってはいけない。お父さんは必死なんだよ。工場で働く従業員達の事を思って……俺は、そんなお父さんを恥ずかしいなんて思わない。親子ほど歳の違う俺に頭を下げるのはどんなに屈辱的な事か。それを、従業員達の為に出来るお父さんは立派だと俺は思う。そうそう出切る事じゃない」
「疾風さん……」
「君はこんなに立派な父親を持った事を誇りに思うべきだ」
疾風の言葉に小百合は言葉を失う。
「倉本さん、自分にできる事は全力でやらせてもらいますよ。とりあえず、取り急ぎ必要な金額を知らせてください。用立てますよ。それと、今度工場の設備がどの程度なのか見に行かせて頂きます。あなたのところで作っている製品の大元の発注先はうちの会社だ。それで、今までは下請け会社を通して発注していたものも、直接あなたの工場に発注させてもらいますよ」
「ありがとうございます! なんとお礼を申し上げていいか……」
「いいえ。困った時は助け合わなくては。それに、あの下請け会社は汚い手を使うことで有名なんです。わが社でも問題視している。それに、倉本さんと直接つながりが持てれば、貴重な現場の声も聞けますし。こちらにも十分メリットはあります」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「そんな風におっしゃらないでください。この事とは関係なしに、倉本さんとは親しいお付き合いをさせて頂きたいと思っているんですから」
そう言って疾風が小百合を見つめた。
「ああ、そう言えば、楽しく食事しているところに勝手に上がりこんでしまって……。申し訳ない。私は退散するとしますよ」
「いえ、そんな事を言わずに……」
「これ以上ここに居て邪魔をすると、小百合に後で何を言われるか解りませんので。それでは、重森さん。これから色々とよろしくお願いします」
そう言って小百合の父親は出て行った。
「ごめんなさい。父が、あんな無理なお願いを……」
小百合がこの上なく惨めな表情をして言う。
「いや、いいんだ。君にしてみれば出すぎたまねをしてしまったんだろうね、俺は。君の返事を聞く前にあんな事を……。でも、君の父さんに言った気持ちは本当なんだ。俺と、付き合ってはくれないだろうか?」
断われない申し出だろうと思いながらも疾風は優しく言った。結局は、自分のしたことはあの日の男と何も変わってはいない。しかし、あの男とは比べ物にならない位自分は好感を持ってもらっているはずだ。
金の為に身を売るような事は絶対に嫌な小百合。しかし、自分にはこの間の事で得た信頼というものがある。断わる理由など無いはずだ。
「でも……」
しかし小百合は迷っている。その迷いの原因は、おそらく司だろう。
いや、間違いなく。
「ここですぐに返事をしろと言うのは無理な願いだな。ゆっくり考えてくれればいい。君の返事を待つことにするよ。だからって、あまり引き伸ばされるのは耐えがたいけど。それに、君の返事がどうであれ、君の父さんとの事に、何ら問題は無いから。あれは俺がしたくてした事だし。公私混同するようなことはしないから。何も心配しないで」
そう言って疾風は優しく微笑んだ。