第一章 もしも出来る事ならば (1)
「もう、魁! いい加減に自分の力で起きなさいよ! 全くいつまでたっても世話が焼けるんだから」
朝食の支度で動いている手を止めずに俺を見て、言葉とは裏腹に半分嬉しそうにも見える顔をして母さんが言う。
「わかったよ。明日からは自分で起きるよ」
言う事だけ言ってもうとっくに忙しく家事をこなしている母さんを、俺は微笑みながら見ていた。
「はあ。あんたって子はほんとに素直なんだから……。普通、あんた位の歳の子は親に反抗するものよ。まあ、母さんの育て方が良かったんだろうけど、こっちが拍子ぬけする位まっすぐ育ってくれたモンね」
そういって、母さんは諦め気味に笑った。
「そうだろうね」
「ほんとあんたのそのまっすぐな性格、誰に似たのかしら……」
自分で言いかけて、母さんは一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「母さんでは無いだろうね」
俺はわざと明るく言った。
っていうか、そうするしかないって言った方が正しいかも。
だって俺は、"オヤジ”ってのがどんなヤツだったかなんて、数枚しかない写真で見る意外全く知らなかったんだから。
ついこの間まで。
幼い頃、何度か母さんに聞いてみたことがある。
お父さんってどんな人なの?って。
だけど母さんは、俺がその事を聞く度になんとも言えない顔をして、
「優しい人だったわよ……」
それだけ言って、口をつぐんでしまっていた。
いつもは明るい母さんが遠くを見て悲しそうな顔をするから、俺は何となくその事には触れてはいけないんだと思うようになっていった。
それに実際そんなことを考えなくてもいい位、母さんと過ごしてきた時間は、俺にとっては満ち足りてたものだった。
それがこの間、とうとう聞いてしまったんだ。
オヤジがどんな人間だったかって事を。
しかも母さんの口からではなく、母さんとオヤジの仲間だったっていう、俺が小さい頃から知っててたまにふっと現れる司って人から。
その人は成績優秀な俺の頭脳が考えるいわく、ウソは言ってないようだった。
そして、俺はその司って人が小さい頃から大好きだった。
司おじさんは、俺にとって十分信用に値する人だった。
俺は今まで自分ってモンがイヤだとか、くだらないとか考えた事なんて一度も無かった。
父親がいなくて卑屈になったことも全くとは言わないけれどそんな無かったし、そんなことを考える必要がないほど母さんは俺をすごく可愛がってくれていたし、愛してくれていた。
明るくて気さくな人だったから、親子と言うよりは姉弟みたいな感じで今までやってきた。
子供の俺が言うのもなんだけど、母さんはすごく美人でみんなにいつも羨ましがられていたし、何より俺はそれが自慢でもあった。
実際仲間がこの歳で母さんを大事にする俺を見ていても、
「お前のお袋さんだったらそう思って当然だよな。あんな綺麗で性格も良くて、俺たちのこのビミョウな気持ちも解ってくれて……俺だってお袋があんな人だったらお前以上に大事にするよ」
なんて言ってくれる位だった。
だから俺は司おじさんに初めて俺の出生の真実を聞かされた時、そんな母さんに余計に心を痛めたんだ。
そんな思いをして身ごもってしまった俺なのに、俺の命を一番に考え、堕ろすことも出来たのにそれをしないで俺の命を紡いでくれた。
俺をこの世に産み落としてくれた。そして愛してくれた。
だから俺はそんな母さんが本当に大切だし、それ以上にオヤジってヤツが憎いと思っている。
俺なんて産まなければ母さんは人並みに結婚なんてものをして、全く違った形の幸せを掴んでいたのかもしれない。
母さんはすごく綺麗だし、この歳になったってすごくもてるのを俺は知っている。
母さんを手に入れようと俺におべっかを使ってくるヤツが何人もいたし。
だからきっと人並み所かそれ以上の幸せを手にしていた事だろう。
だけど母さんは、俺が知る限り誰とも付き合ったりしないで俺との生活を一番に考えてくれている。
そんなことは考えた事も無いと笑っている。
真実を聞けば、俺のオヤジってヤツを今でも愛している訳なんて無いし、いや、好きでもない男の子である俺を産んだ事事体不思議でならないのに、尼さんみたいに清い生活をしている。
でもいつも明るくて人生を楽しんで生きている。
たまに泣いたりもしているけど俺が慰めれば
『あんたがいるし、頑張れるわ』ってすぐに笑顔に戻っている。
だから出来る事ならば、俺は母さんの人生をもう一度リセットしてやりたい。
18年前に戻って……。
俺なんていなくてもいいから、母さんの本来掴むべきだった幸せを取り戻してあげたい……。
* * *
「魁、おはよ!」
「おす」
腐れ縁って言うか幼なじみの桃夏が駅までの道のりの途中でいつものように声を掛けて来る。
そこそこ可愛いのにやたらと元気な女だ。
「ねえ魁、最近ちょっと元気ないんじゃないの? 何かあったの?」
ストレートのロングヘアをサラサラと風になびかせて小首をかしげながら桃夏が言う。
「別に。お前がマンネン元気なだけだろ? いいか、くれぐれも自分を基準にして人様の元気を測るんじゃねーぞ。お前は特殊なんだから」
俺はからかってやった。
桃夏とのやり取りはいつもこんな感じだ。
今にほっぺたを思いっきり膨らませてプンプン怒り出すぞ……。
「もう何よ! 人がせっかく心配してやってんのに! ど~せあたしは元気なだけが取り得の女ですよ~だ!」
ほ~らやった。ほっぺた膨らませて……あっかんべ~だ。
でもその姿って、何か可愛いかったりするんだよな……。
「お~お~すんげ~顔だな~。それじゃ、恐ろしくて男なんか寄ってこねーぞ」
「あ~らおあいにく様。これでもどうしようかって困る位男の子に告られたりしてるんですけど」
「これまた大きく出たねえ。そんなアホな男がいるなら見てみたいもんだな」
「ふん! あたしとこ~んな親しげに話ができるあんたを羨ましいと思ってる男の子達が、そのうちあんたを刺しに来るわよ」
「お~お~それは楽しみだねえ。期待して待ってるよ。まあ、そんな物好き実際にはいねえだろーけどな」
「あ~らほんとなんだから。そのうち後悔するわよ」
「はいはい。あんま大見栄きるとみじめになるぞ」
「ほんとだもん!!」
「んなわけねーだろ」
「ほんとだもん!! あたし結構モテるんだから。このあたしの良さが解らないなんてあんたのほうがおかしいのよ!」
「解んないねえ。お前なんてうるさいだけじゃん。女ってのはもっとこう……例えるなら母さんみたいな女がいい女っていうんだぜ」
「そりゃ小百合おばさんみたいな人と比べられたら立つ瀬は無いけどさ……」
桃夏が口をとがらせる。
でも、ほんとはそんなおまえが可愛いなんて思っちゃったりしてるんだよね、俺。
「だろ?」
言葉はうらはら。
「や~ね! あんたってば物凄いマザコンなのに小百合おばさん知ってるから、気持ち悪くないって言うか、妙に納得しちゃうのよねえ。世の中の母親がみんな小百合おばさんみたいな人だったら世の中の青少年の行く末も安泰なのにねえ……」
「世の中ってお前ねえ……でも、そーだよな。あ~俺はしあわせもんだ~!!」
そう、俺は幸せもんだよ……。
あんな男の子供なのに、母さんは大変な思いまでして俺を産んでくれた。
そして育ててくれた。
でも母さん、母さんは本当に俺を産んで幸せだったのか?
後悔してないのか?
あの男の面影を背負っている俺を見て、辛くないのか?
憎くないのか?
「もう魁! やっぱ変だよ。なんかあったならあたしに言ってよ!」
「な~んもねーよ! ホラ! 走んねーと電車間にあわねーぞ!」
俺は、そんな気持ちを振り切り小走りに駅へと向かった。