第四章 それぞれの思い (3)
「ありがとうございました……」
車に乗り込むと、小百合は泣き出した。
「どういう事なのかな?」
「あの人、うちの工場の取引先の御曹司で……情けないんですけど、うち、今経営が悪化していて……あの人とお付き合いをしたら万事上手く行くんです。……でも、あたしどうしても嫌で……今時でしょ? 政略結婚なんて」
「そうだったのか」
そう言って、疾風は小百合を抱きしめた。
「疾風さん……?」
「ごめん。いきなりこんな事して。でも、君があんまり頼りなげで……良かった。俺が君を助ける事が出来て」
「疾風さん……」
小百合は疾風の体に思いっきりしがみ付いた。
その温もりに触れることによって、安堵の気持ちと、いかに怖い思いをしたのかという恐怖が改めて小百合の心の中にどっと溢れた。
「すごく、怖かったの……でもありがとう……私、あの時疾風さんをみてすごく安心したんです。あなたがいてくれてどんなに心強かったか……。ほんとにありがとう」
小百合はたまらない気持ちでそう言った。疾風の全てが、自分を安心させる材料だった。
疾風は小百合を抱きしめながらしばらく髪を撫でていたがやがてゆっくりとひき離し、その頬をつたう涙を指で拭うと小百合の唇にそっと唇を重ねた。
小百合は驚いたが、疾風の優しい口づけが、少しもイヤじゃ無いことを自分自身で確認し、身を任せた。
「今度お礼にお食事でもご馳走させてくれませんか? この間送っていただいたお礼もまだだし。それに、あたしったら、なんだか疾風さんには迷惑掛けっぱなしだから……」
小百合は疾風の運転する車がマンションの駐車場へつく頃切り出した。
涙は乾き、とりあえずは落ち着きを取り戻している。
「それは嬉しいなあ」
「疾風さんって、どんなものがお好きなんですか?」
「う~んそうだな……やっぱり和食かな。長いことN.Yに居たからね」
「そうですか。じゃあ……」
小百合は心当たりの店を探すように首をかしげた。
「出来れば君の手料理なんかだとさらに嬉しいんだけど。一人暮らしで手料理って飢えてるから」
疾風は気さくに言った。
「解りました。シンディーさんほどじゃ無いけど、一通りは出来るんで思い切って披露しちゃいます」
「それはかなり楽しみだな」
「予定があいたら言ってください。疾風さん忙しそうだから。こっちはいつでも大丈夫ですから」
「なるべく早く予定を空けて、連絡するよ」
「はい。解りました」
「ではでは。俺はコンビニで今夜の晩飯でも買って来るとするよ。どうぞお先に」
疾風は車を駐車場に止めると小百合をマンションの玄関へと促がした。
「じゃ、お先に。疾風さん、今夜は本当にどうもありがとうございました」
「いや。君の手料理、楽しみにしているよ」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
小百合を見送り疾風は歩き出した。
その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
ちょうどいい材料があったもんだな……。
今夜の小百合の救出劇は、偶然などではなかった。
疾風は小百合を尾けていたのだ。
小百合が男とおち合うのを確認し、仮にその男が小百合の恋人でも体よく
偶然を見計らって会い、ゆくゆくはその男を排除するつもりだった。
今夜はここで待って様子を見ようと思っていた。この時間だと食事に行ったのだろうから、せいぜい1時間以上待っても出てこなければ二人はそういう関係だということになる。それを判断したかった。
しかし小百合は血相を変えて飛び出してきた。その様子はかなり不自然で、どう見ても無理やりに迫られてる感じだった。そしてあまりにも好都合な展開へ……。
これからどんどん行かせてもらうぜ……。
疾風はコンビニへ入り、どうでもいい買い物を済ませた。
小百合と一緒にマンションへ入っていかなかったのは司にばれてはまずいからだ。
今この段階で気付かれる訳には行かない。
まず、小百合の気持ちを確固たるものにしなければならない。
それからだ。
劇的に、アイツにダメージを与えるのは。
* * *
俺はマンションのエントランスを掃除しながら母さんの帰りを待っていた。
今夜は帰りが遅い。
一体何をしているんだろう。友達と食事でもしているのだろうか。
それとも……まさか、アイツと会ってたんじゃないだろうな……。
そんな事を考えていると、母さんが帰ってきた。
一人だ。母さんは一人だ。
「おかえりなさい」
俺はほっとしながら母さんに声を掛けた。
「あら、遅くまでせいが出るわね。ご苦労さま」
母さんはニッコリと微笑んでくれた。
「小百合さんこそこんな時間まで仕事?それともデート?」
俺はカマをかけた。母さんがこんな時間まで何をしてたのか、誰と会ってたのか知りたかった。
「そんなんじゃ無いわよ。でも、大変な事になるかもね……」
母さんが呟くように言った。
「え? 何が?」
「ううん、何でもないの。じゃあね。おやすみ」
そう言って母さんは行ってしまった。